2005.11.13 09:55/ Jun
先日放送された某テレビ局の「日本の教育」を「論じた」番組には、本当に失望されられた。映画人としては尊敬している人が司会の番組だったので、とても期待していたのだが、途中でムカッパラがたってきて、見るのをやめた。
「脳」への能力還元主義
「ゆとり」か「つめこみ」かに代表される二元主義
欧米の教育を「善」とした啓蒙普及主義
番組を構成する、ほとんど要素が、いわゆる「教育の論説空間」を構成するステレオタイプであり、それ以上でもそれ以下でもないと思った。さらには、そうしたステレオタイプに基づき、<良心的>に危機意識をあおりつつ教育を論じる態度、すぐに教育問題の「悪者さがし」をする態度が、どうにも気になった。
こう言うからといって、僕は、別に商業放送に厳密な教育学的議論が必要だと思っているわけじゃない。
それは演出される世界であり、魅せる世界である。別にそれは悪いことだとは思わないし、大いにそうすればいいと思う。
—
ただ、この構成表を書いた人間は、本当に教育のことを少しでも自分で勉強して、自分のアタマで考えて、番組をつくったのだろうか。そこが気になる。
かの人は、世にあふれる教育のターム、文言をすべてひろって、人々の危機感をあおるよう再配置しただけなのではないだろうか。そう邪推せざるを得ない。かくも<教育問題>を<つくりあげること>は簡単なのかと思うと、腹がたってくる。
それより何より、番組の冒頭で、僕がカチンとキレたやりとりがあった。
ある教育評論家が、ある教育問題を論じるとき、どっちつかずのやりとりをする。
「○○の問題は、教師が悪いわけではなく、親が悪いのではなく」
といったかたちのやりとりである。
そうすると、彼はひとりの出演者(コメディアン)からつっこまれる。
「また、そうやって、どっちつかずの意見で・・・」
次にもう一人の教育評論家が、やはり誠実に「どっちつかずの意見」を述べる。発話の冒頭で、彼は「すみません、やはりどっちつかずの意見で」と聴衆に謝る。
ここで彼らが「どっちつかず」であることでつっこまれ、謝らなければならない理由は何か?合理的な理由は見あたらない。
要するに、そのほかの出演者がやっている「誰か悪者を探して、バッシングすることに与しない」から、つっこまれ、謝らなければならないのである。誠実なコメントは、もはや求めようもない。
かくして、また、ひとかけらの根拠のない「学校バッシング」「教師バッシング」がはじまるのである。
—
教育の問題は、すべて複合的な構造をもつ問題である。
それは教育を構成する要素、教師、教材、親、子どもがからみあい、また、多分に政治的な問題でもあり、経済的な問題でもある。「どっちつかず」になるのは、そもそもアタリマエなのだ。
もちろん、僕は、テレビで、そうした「複合的な問題群」をすべて扱ってほしいわけじゃない。そんなことをしたって伝わらない。そういう問題群の探求は、教育学者や専門家がやればいいと思う。
だけれども、誠実な「どっちつかず」のスタンスがたたかれ、根拠の薄い「悪者探し」がはじまり、また教師、学校が疲弊していくのは、見ちゃいられない。
彼らが疲弊し、自信を失う。そうすると、教育現場が沈滞し、時には荒廃する。教育が荒廃すれば、長期的には社会や秩序にダメージを与える。否、今の世の中、長期的にというのはウソである。教育の荒廃は、そう遠くない未来に、社会に悪影響を与える。そして、そうなったら、最終的に困るのは我々である。
「うちにはカネあるから、優秀な私立校に子どもをやればいい」と思っている人もいるかもしれないが、社会はアナタの子どもだけで構成されているのではない。
アナタの子どもは、アナタの子ども以外の人々に囲まれ、彼らとコミュニケーションをとりつつ、彼らと生きていく必要があるのである。アナタの子どもが生み出す富は、他の誰かに再配分される。そういう意味では、みんなつながっているのである。
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たとえ民放であっても、もうちょっと誠実に教育を扱って欲しいと思う。 僕はテレビが好きだ。NHKも民放も、よく見る方だと思う。
いつもは、馬鹿笑いしてテレビをみている僕であるが、久しぶりに、アタマにきた。
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