2009.5.19 06:11/ Jun
昨日、保育園で、考えさせられる出来事があった。
保育園の先生が、「TAKUZO君は、今日、靴下を自分ではけましたよ」と教えてくれたのである。
「たかが靴下」と思うかもしれないけれど、僕は、びっくりしてしまって、思わず、「うそー」と声に出してしまった。
なぜなら、僕は「靴下よりも難易度の低い靴すら、TAKUZOは、自分ではくことはできない」と思っていたからである。
「保育園では、靴下はけるんですか? まさか、靴とかも、自分ではいてますか?」
保育園の先生に、おそるおそる聞いてみる。
「はい。手助けはたまに必要ですが、自分でやりますね」
二度目の衝撃。
「食事とかはどうですか? 家では、途中で飽きて、自分で食べないのですけれど。保育園では、自分で食べますか?」
「途中でやめることはありませんね」
三度目の衝撃。
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つまり、こういうことである。
TAKUZOは「親の僕が、自分でできないと思っていたことは大方できる」のである。
能力は既に備わっているのに、親があれよ、これよと「手助け」をしてしまうがために、「やらない」だけなのである。
TAKUZOは決して「靴下が脱げない」のではない。
「靴下が脱げないという無能力さ」は、他ならぬ、TAKUZOと僕との関係において社会的に構築されていたということにある。
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軽くショックだった。
理由はいくつかある。
ひとつには、自分の子どもの発達に関しては、親の自分はある程度、客観的に見ることができている、という自負があったこと。
しかし、僕は、自分の子どもを見ているようで見ていなかったのかもしれない、と思った。
二つめは、僕は、研究者として「熟達」「学習」といった問題に取り組み、ストレッチ(背伸び経験)やフィードバック(アドバイス)といった概念を、授業で扱っている。
講演では、「人を育成するための”権限委譲 – 任せること”の重要性などを述べている。
自分では、「任せることの重要性」は、頭ではわかっているはずなのに、それを子育てでも実践しようと思っていたはずなのに、僕には、それができなかった。
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どうして、こうなってしまうのか。
社会的な理由も、おそらくはある。我が家は「共働き家庭」である。これは理由にはならないとは思うけれど、きっと、この影響も大きい。
ついつい、時間がなくなってしまったときなどに、
「えーい、何をチンタラしておるのじゃ、靴を貸せ、オレがはかしてやるわい、早く保育園いくぞー、こっちが会議に遅れるー」
という風になってしまう。
あと、もうひとつ。
TAKUZOの様子を見ていて、明らかに「親に甘えてるよな」と思っていても、ついつい、「一日の大半を保育園で過ごしているのだから、家にいるときくらいは、親に甘えさせてあげたいな」と考えてしまうこともある。
かくして、僕は、TAKUZOの行動を先読みしつつ、彼が本来やらなくてはならぬことを、やってしまっていたのかもしれない。そういう様子をTAKUZOは知っていて、「親はどうせやってくれるから、自分ではやらない」という選択肢をとっていたのかもしれない。
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人間の成長にとって重要なことは、「自分の能力にプチプラスのある背伸びの経験をさせること」であり、「任せること」である。
そんなことは、ヴィゴツキーを持ち出すまでもなく、エリクソンを持ち出すまでもなく、統計データを持ち出すまでもない。アタリマエのことであり、常識である。
かつて松下幸之助は「任せて、任せず」という名言を残した。
教育研究者として「口にすること」ではなく、一人の親として、それを「実践すること」の難しさに、直面している。
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