2009.4.4 09:08/ Jun
「教えの技術」や「学びの技術」はオープンソースであるべきだ!
これが僕の信念です。
形式知として流通する「教えの技術」「学びの技術」は、誰が利用しても、誰がアクセスしてもよいのではないか、ということです。それはむしろ、パブリックドメインに属するようなものであってもよいのではないか、ということです。そういうものを、人々が参照・利用するパブリックな場があればいいな、と思います。
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こういう話をすると、よく言われるのが「技術がパクられると、損するじゃないですか」ということです。
でも、大方大丈夫だと思います。なぜなら、それを使いこなすのは「人間」であるから。使いこなす側に「力量」が必要だから。
どんなに技術が形式知として流通していても、全く同じ授業、研修、セミナー、場が構成できるわけではありません。形式知化された技術をそのまま適応できるほど、教育現場は甘くありません。
問われるのは「使い手の力量」であり「使い手の専門性」なのです。形式知として流通する技術を、いかに解釈し、いかに自分なりに改善を加え、創造し、場合によっては棄却するのか。それこそが重要です。
ですので、技術がオープンになっていても、あまり損はしません。むしろ、オープンソースと同じように、公開した技術が魅力的なものならば、それによって得られるリスペクトの方が、コストを上回るでしょう。
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じゃあ、形式知として流通する技術は、全く役に立たないか、というとそうではありません。
何かの教育の場を、何の技術、ノウハウ、ヒントもなくしてゼロから組み立てるときの努力ははかりしれないものがあります。形式知化された技術があるがゆえに、どんなに助かるか。教育技術、学習技術とは、そういう類のものなのです。一言でいうと、「たかが技術、されど技術」です。
ちなみに、アカデミクスでは「教育技術」「学習技術」は「HOWの処方箋」として、レベルの低いものとして扱われる傾向があります。これには、いくつもの理由はありますが、ひそかな理由のひとつに「専門家は自分が解決可能なものを、問題として定式化する」ということがなきにしもあらず、だと思います。ともかく、そういう認識は、僕は、間違いだと思います。
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話をもとに戻しましょう。
教育技術や学習技術がオープンソースであるということは、使い手に「解釈可能性」があり、「改変する自由」が認められるべきだということも意味します。
つまり、「教えの技術」や「学びの技術」は、常に「変化しうる余地」を残して欲しい、と思います。
最も避けなければならないことは「教育技術」や「学習技術」が絶対化して、教条化していくことです。
「なんとかメソッドを考えた○○さんがいて、その○○さんが定められたとおりにやらなきゃだめなんだ」
「オマエがやっているのは○○メソッドじゃない。○○メソッドはかくかくしかじかでなければならない」
厳密に手続きが定められ、そこからの逸脱を全く許さない雰囲気が生まれます。あまりこうした議論は好きではありません。
しかし、とかく「教育技術」や「学習技術」は、この主の議論に陥りやすいものです。
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教育現場は、いつも個別・具体的です。
アタリマエのことですが、これはとても重要なことです。その個別性、具体性に対応するために、技術をカスタマイズすること、変化させること、場合によってはリライトしたり、エディティングしたりすることは重要なことです。いいえ、それができるということが、「使い手」の力量であり、専門性です。
ということは、
「なんとかメソッドを考えた○○さんがいて、その○○さんが定められたとおりにやらなきゃだめなんだ」
という話よりも、むしろ
「何とかメソッドを、僕は、こういう風に改善してみたんだけど、どー思う」
ことを話し合うことの方が、いいのではないか、と思います。
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教えの技術、学びの技術が、オープンに流通し、語られ、消費され、世代継承されていくことが、わたしたちの社会にとって、とても重要なことだと、僕は思います。
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