2008.8.19 06:47/ Jun
某県の小学校(正確には小中学校)で実施された「組織開発のワークショップ」に参加する。
2日間という限られた時間ではあるけれど、様々な背景や考えをもった教員、職員、管理職など学校の全スタッフが集まり、日々の仕事のやり方を振り返りつつ、「どういう学校を、一緒につくっていけばよいのか」をともに考え、「対話」を積み重ねる。
そこでの会話の内容は、決して「対話」という言葉のもつ「予定調和的なイメージ」では語り尽くせぬほどの「マリアナ海溝なみにディープな内容」を含むものである。
「人は意味の世界に生き、意味と格闘している」・・・このことを強く意識し、危うさを感じる一方で、様々な背景や経験をもつ人々が、向き合い、真剣にお互いの話に耳を傾け合う姿に可能性を感じた。
—
いくつか思ったこと。
印象深かったことは数多くあるが、ここで書けるのはすべて「僕自身の経験に根ざしたこと」「自分の胸に思い当たること」だといってよい。下記にそれを記す。
▼
ひとつめ。
我々は、話しているつもりでも、話せていない。
聞いているつもりでも、本当に聞いていない。
言葉を届けているつもりでも、届いていない。
そういうことが自分にもたくさんあるな、と感じた。
特に僕は話を「聞けない」。
他人の話の終わりを、「待てない」。
「聞く」「待つ」・・・これは僕の課題であると思う。
ちなみに、内田樹さんの言葉ではないが、
我々は、言い過ぎるか
言い足りないかのどちらかである。
僕の言葉は、他者に届いているのか、についても
一抹の不安を感じた。
▼
ふたつめ。
自分が学生であった頃、センセイという職員室
にいる人々は、「一枚岩」の集団に見えた。
センセイはセンセイであった。
しかし、それは、一面、真実ではないように思う。
校種は違うとはいえ、僕も「教員」のひとりである。
自分の経験に照らしてみると、
そんなことはアタリマエのコンコンチキ。
教員は「一枚岩」なんかじゃない。
しかし、皮肉なことに、教育研究者としては、つい、
現場の先生方を「一枚岩」に夢想してしまいがち
ではないかと思った。
夢想はしなくとも、現場が「一枚岩になれること」
をよしとして、それを前提に理論構築をしてしまう。
どうもここには「根本的な懐疑」が必要である。
我々、大人は「一枚岩」になれるのか?
学校であろうと、企業であろうと、
「一枚岩」になりうるのか?
「一枚岩」とはどういう状態なのか?
そして、「一枚岩になる必要はある」のか?
▼
みっつめ。
学校の中心的活動とは「授業」である。
このことは間違いないし、その革新は、
これまで以上になされるべきである。
しかし、「授業が変われば、学校が変わる」と
いう論法は、やや早計ではないかと思う。
教育研究者は、よく
○○授業が、学校を変える
というスローガンを打ち立てたがる。
しかし、それは一面では真実かもしれないが
一面では不足があることを、自らも懺悔しつつ、
指摘しなければならない。
学校とは、授業を担当する教員の他にも、
様々な人々から構成される。
生徒の側から見た学校、保護者の側から見た
学校は、決して「授業」だけではない。
学校生活、否、もっというならば学習経験とは
決して、授業だけから構成されるのではない。
学習環境としての学校、制度、カルチュア
様々なものが学習経験を構成する要素である。
繰り返していうが、
学校にとって「授業」は重要である。
しかし、学校にとって変わる必要があるのは
「授業」だけなのか?
学校の変革とは、教員だけがその担い手か?
教員、事務職員含め、様々なスタッフが、
その担い手であるのではないだろうか。
そのためには何が必要か?
▼
よっつめ。
これは僕自身が「一教員」として感じたこと。
今回、某小学校の現場の先生方の行う対話を通じて
僕は、自分自身を深く内省できた気がする。
まず、第一に「自分は初任者教員である」
ということを深く認識した。
何をアタリマエのことをと言われる方が
いるかもしれないが、本当のことである。
僕は、今年から自分の研究室を運営したばかりの
「初任者教員」である。
それなのに、大学の教員は、決して「初任者教員」
とは言われない。
むしろ、学位を取得した後、ヘタをすれば
その前にでも教壇にたつことを要求され、
「センセイ」として振る舞うことが養成される。
大学教員に「初任者教員」というカテゴリー
の認識は限りなく薄い。
それはなぜか?
▼
最後。
今から5年前、僕は企業人材育成の研究に着手
しはじめた。
未だ、志半ば。
正確にいえば、志のうち実現できたものは2割である。
やりたいことがたくさんある。
やらねばならぬと思っていることも
たくさんある。
知りたいことはたくさんあるし、
明らかにせねばならぬと思っていることも
たくさんある。
腰を落ち着けて、これに取り組みたい。
しかし、「ひとつの思い」も脳裏をよぎる。
研究をはじめた当初、「企業」と「学校」は全く違う
ものであると思っていた。
ある面ではそれは真実であるが、ある面では
単純なものの見方であったのかな、とも思う。
そこには、両者「働く大人」がいる。
そして、両者「職場」がある。
いつの日か、これらの知見が、つながるのでは
ないかと、勝手気ままに夢想する。
▼
いずれにしても、道のりは長い。
そして人生は続く。
否、続かねば困る。
—
最後に、このような場への参加を認めていただいた某小中学校のY校長、ファシリテーターのSさん、Tさん、そして現場の先生方に感謝いたします。ありがとうございました。
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