2007.10.1 07:34/ Jun
人間の「賢さ」というものは「壮大」なものです。これまで、その秘密にせまろうと、様々な研究アプローチが試されてきました。
しかし、ある側面は理解できても、かならずこぼれ落ちる一面がありました。ある面にはスポットライトを当てることができても、ある面は暗闇のまま残る。
人間の「賢さ」の「全体像」を明らかにすることは、ついぞ、今になってもできていません。僕たちは、まだ「人間の賢さ」についてわかっていることは、そう多くないといっても過言ではありません。
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研究アプローチには、歴史的な発展があります。ある時には、「ある見方」が流行し、ある時には「違った見方」が提唱され、人々に共有されていく。
たとえば、行動主義、情報処理アプローチ、状況論、という「賢さ」に対する心理学アプローチの歴史的発展プロセスをを聞いたことのある方は少なくないかもしれません。
トマス=クーンの明らかにしたパラダイム論のとおり、一般に、科学というのは、かつての「見え」を克服するかたちで、新しいパラダイムが提唱されます。パラダイムとは共約不可能である。これがクーンの主張の骨子でした。
しかし、だからといって、「かつての見え」によって明らかにされた「事実」が間違っているというわけではありません。
先ほども述べましたように、研究アプローチとは「スポットライト」のようなものなのです。それはある一面に局所的に光明をもたらしますが、そうでない部分は、まだ暗闇のままなのです。
僕の考えでは、「賢さ」に対する様々なアプローチがあってもいいと思います。ある研究アプローチが何を見て、何を見ることができないか、に関する論争があってもよいとは思いますが、研究アプローチの存在自体を相互に否定するような言説は、あまり生産的な議論とは思えません。
あるアプローチによって「人間の賢さ」に関するグランドセオリーが立ち現れてくるというよりは、様々なアプローチが試行され、それによって「賢さ」が像をむすぶ、という方が、僕の感覚にはあっています。
どうも、最近、線形的で単純なパラダイム論には違和感を覚えはじめています。ひとつのアプローチですべてがわかるほど、人間の「賢さ」は単純かつ凡庸なものではない、と思います。
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