2007.9.22 08:19/ Jun
今日は、Faculty Development 2.0 Workshopと題して、名城大学の神保啓子さんにご講演いただいた。
前にも話したけれど、僕は、FD(Faculty Development)にはいくつか腑に落ちないところがある。一般に広く受け入れられているFDの定義とは、下記のようなものである。
「教授団のとくに教育者としての役割の側面において、その才能を豊かにし、関心を広げ、能力を改善し、あるいは、その専門職的かつ個人的成長を促進していくことである」
(Gaff 1976)
「主要な関心は授業過程に向けられるが、とくに授業方法、授業技術、及び学生の授業評価に向けられる」
(Bergquist & Phillips 1975)
要するに、それは「ファカルティ(教授・准教授・講師)が主体となって授業プロセスのカイゼン」をめざす試みである。
もちろん、それは100%必要であるし、とても貴重な試みだと思う。
しかし、そのことは認めながらも、どうも、僕にはこういうFDのとらえ方が腑に落ちない。一言でいうと、「FDの概念、実施単位をもう少し広くとらえられないものだろうか」と思う。
それは下記のような疑問からなる。
●大学での学習=授業か?
・授業は最も大きな教育活動であるが、大学での
Quality of Learningは、それだけで限局され
るわけではない
・大学がもつ学習リソースの中で、変えうるものが
あるとすれば、それこそ変わるべきではないか。
それに答えることこそが、FDではないか?
●エージェンシーの問題
・従来のFDは、いわゆる「キョウイン」と「ジム
カタ」という2分法を受け入れてしまう。
・教育のことを考えるのは「キョウイン」だけなのか?
・むしろ、大学教育を考える人々のアクターネットワーク
を構築することこそが、FDなのではないか?
●授業のカイゼンでいいのか?
・既存の授業のメソッドを変えるのが、FDなのか?
新たな教育価値をもつと思われてはいるけれど、
今の大学教育の枠組みからは外れてしまう試みを
実践しうるのも、FDではないか?
●負担と普及の問題
・カイゼンFDとは「負担」としてイメージされる
実際に「負担であるか、ないか」は問題ではない。
既にできあがっているイメージが「負担」に直結
することが問題である
・「負担としてイメージされる」ものは「普及しない」。
・「負担」としての「見え」をかわしつつ、したたかに
普及をめざすモデルはないのか?
●FDの単位は「個人」か?
・FDを組織的広がりをもつものとして実施したい
のであれば、それを支える組織スキームを構築
するべきではないか?
●FDを語る言語
・FDを語る言語は、現在、高等教育論的な制度論風
語りか、教育工学的な、教授法的な語りに限局
されている・・・それで十分なのか?
・むしろ、それをサスティナブルな試みとして自律的
に運営するためには、組織論的、かつ戦略論的な語り
が内包されるべきではないか?
—
今日、神保さんからいただいた話は、これらの僕の疑問に、いくつかのサジェスチョンを与えてくれた。非常に学際的でいて、エキサイティングな話題であった。
そこで提示されたアイデアはまだコンセプチャルなものもある。だが、問題の本質をズバリつくものであったと思う。さすがは、FDの現場で、教員とじかに向き合う数年間をすごした方の話だと思った。
下記に、今回のworkshopで神保さんが語ってくれたスライドを公開していただけることになった。もしご興味のある方は、ぜひ、ご覧下さい。
Faculty Development 2.0 Workshop スライド
http://www.nakahara-lab.net/learning_cafe_bar/20070921_learningbar_jinbo.pdf
最後になりますが、お忙しい中、ご講演を快諾してくださった神保啓子さん、そして、この試みを陰ながら支えてくださった東京大学大学院 学際情報学府の大学院生諸氏(坂本さん、坂本あつろうさん、酒井さん、山田さん、林さん)にこの場を借りて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました!
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