2005.6.6 01:14/ Jun
学問には、その学問内でしか流通しない「隠語」や「文法」、そして、その仲間内の中で「正統」と認められる方法論があるものです。
どんな学問だって、それがあります。もし、あなたが、それを感じないというのであれば、2つの可能性があります。
まだ、あなたが学問の入り口に足を踏み入れていないか、あるいは、もうその世界に染まりすぎていて、「フツーの人」には奇異に思えるそのことが、アタリマエになってしまっているか。
僕の場合、ある学問(正しくは「ある学問の、ある研究アプローチ」)にとても惹かれ、この世界に入りました。それから10年…その世界の研究知見を背景にしながら、それなりに頑張ってきたつもりです。
が、同時に、僕は見えなくなっていた気もしていました。自分の使う「変な言い回し」や「背後仮説」が。それは、一種の「へりくつ」みたいなものなのですが、時に、恐ろしいほど、「フツーの人」を魅了してしまい、思考停止におとしめてしまうことがあります。そして、だんだんと、その「へりくつ」をふりかざす自分に酔ってしまいます。
また、方法論を「踏み絵」みたいにとらえる人もいます。
方法論は、あくまで「モノゴトを見るめがね」であるはずなのに、それを遵守することが自己目的化し、さらには、ある学問の「ウチ」と「ソト」をわけるバウンダリーをつくるものになってしまいます。
いつもある方法論を使っている人が、違った方法論に関心をしめすと、「身を売った」とか、「転んだ」とか言われます。「方法論」という言葉の意味からすれば、「ちゃんちゃらオカシイ」ものなのですが、よく聞かれる言葉です。そういう物言いを聞くたびに、僕は、いつも「変だな、息苦しいな」と感じていました。
でも、僕は、最近、ようやく自由になれた気がします。
何か「もの」をつくりだす際、かつて感じていた、ある種の息苦しさや、今まで見えなくなっていた「へりくつ」から、ある程度自由に「考える」ことができるようになってきた気がするのです。
方法論や流派の知見を、ひとつメタな位置から眺められるようになったというのでしょうか。「そんなことができている」と断言してしまうと、お説教を食らいそうですが、なんとなくそんな風に考えられるようになってきた気がするのです。
そして、それと同時に、他人の研究に関しても、前よりももっと寛容に、柔軟に見つめることができるようになってきた気がするのです。繰り返して言いますが、上記は自己認知です。「ホントウか?」と聞かれると、いささか心許ないのですが、そう感じていることは事実です(客観的に、僕の像が違って見えていたら、ごめんなさい)。
一般に、自分の研究や研究者としての生き方が硬直すればするほど、他人の研究に寛容ではいられなくなる気がします。些細な信条の違い、方法論のズレなどを見つけることに喜びを感じ、人に吹聴してしまうものです。それは、はたから見ていて、「非常に痛いピーポー」に見えてしまうことがあります。
まぁ、いいです。
ともかく、僕自身は、最近、今までよりも、もっと研究が「明るく楽しく」感じられるようになってきました。
このような僕の今の研究姿勢も、いつかは、またカベにぶち当たるでしょう。そのときは、必ず、いつかはくるのです。
ただ、その時までは・・・せめて、そんな日々が長く続かないかな、と願っています。
それにしても、海外にでると、時間に余裕があるからでしょうか、はたまた、多くの研究者にあうからでしょうか。いろいろと普段考えないことを、リフレクションしてしまうようですね。ふだん日々追われている身にとって、そうした時間は貴重だと思います。
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