2006.4.27 06:19/ Jun
見田宗介先生の「社会学入門」を読みました。
その中でとても印象的だった箇所を、ちょっと長いのだけれども、下記に引用します。
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社会学は<越境する知>とよばれたきたように、その学の初心において、社会現象のこういう様々な側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。
(中略)
マックスウェーバー、デュルケーム、マルクスのような「古典的」な社会学者をはじめ、フロム、リースマン、パーソンズ、アドルノ、バタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコーといった、現在の社会学の若い研究者たちが魅力を感じて読んでいる主要な著者たちは、すべて複数の ー 経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の ー 領域を横断する知性たちです。
けれども重要なことは「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。
(中略)
近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに「立ち入り禁止」の札がたっています。「それは○○学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他にいきなさい」「××学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな」等々。学問の立ち入り禁止の立て札が至る所に立てられている。
しかし、この立ち入り禁止の立て札の前でとまってしまうと、現代社会の大切な問題は解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルアな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。
「領域横断的」であること、「越境する知」であることを、それ自体として目的としたり、誇示したりすることは、つまらないこと、やってはいけないことなのです。
(見田宗介(2006) 社会学入門 – 人間と社会の未来. 岩波書店, 東京 pp7-8より引用)
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なるほど。
ちょっと前のことになりますが、ある所である方と「学習に対する研究アプローチ」について議論することがあって、それはなんとなく自分の中で附におちない議論だったのですが、そこで生じた、自分のわだかまりみたいなものが、スッと解けた気がしました。
どんな問題であったか。
学習という現象に対して、心理学っぽく切り込んだり、状況論のように社会学や人類学っぽく切り込んだり、研究者によってアプローチの仕方が違う。で、最近は、脳科学、神経科学のアプローチが流行っている。で、これは「ありなのか」? やれ血流が何とかという話で、学習という複雑な現象がわかるのか?
という問題を投げかけられたわけです。
僕は即座に、ですが自信をもって「大ありだ」と答えました。その答えは今も変わりません。僕自身がそういう研究に着手しているわけではありませんが、学習科学の一分野には脳科学アプローチがありますし、その中には非常に興味深い知見があります(アタリマエですが知見の有用性は研究によります)。それをなぜタブー視するのかがわからなかった。
ですが、このときの、この問いの立てられ方「ありなのか?」と、僕の答え方「大ありだ」に違和感があったのです。で、この違和感の所在が、なんとなくわかった気がした。
「社会学入門」における見田先生の指摘は、社会学についてでした。学習や教育を研究する世界にも、いろんな「立て札」があるようです。
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