2006.2.15 08:09/ Jun
AERAの記事で「小5が抱えるクライシス」という記事がありました。
要するに、
1.中学受験がかなり浸透している
2.塾で学ぶことが今の小5にとってはアタリマエになっている
3.塾では詰め込み型の厳しい受験指導が行われている
4.塾にいかない子どもたちは、不安を感じたり、「オチこぼれ感」を感じる
5.一方塾にいく子どもたちは、受験が失敗した場合、激しい挫折を感じる
6.子どもたちは、自分たちのまわりにある「格差」に気づき始めている
こうした指摘自体が、どの程度あたっているものなのか、僕はデータがないのでわかりません。おそらく、これがもっとも当てはまるのは、都内近郊の小学生だと思うのですが、どうなんでしょうか? 地方でも最近はそうなのでしょうか? 根拠レスな僕の推測によれば、そう一般性があるものではないと思いますが。
まぁ、こうした受験の弊害の指摘自体は、何も今になってでてきたものではありませんね。戦後、受験戦争が加速したときから、ずっと、子どもたちはそれに巻き込まれてきました。受験とは、ずっと昔から過酷なものなのです。
ですが、気になることがひとつありました。記事自体は、公教育へへの信頼感の欠如が、全体のトーンになっているのですが、下記のような指摘がありました。
塾でintensiveな教育が行われている一方で、学校では「60÷3を1時間かけて延々と教える「考えさせる授業」が行われている。テクニックだけでよいとは思わないが、子ども自身に「考えさせるにも限度がある」という指摘です。そんなとき、先生は「わかっていない子どもがいるんだから」という。
記事はこうむすびます。
「授業を簡単にして、宿題を減らせば減らすほど、やらない子どもがますますやらなくなるだけ」
そうした事態が本当なら、「わかっていない子どもがいるんだから」という先生の抗弁は、あまり意味がないですね。
むしろ、わかっていない子どもとわかっている子どもが生まれていることを、所与の事実にして、つまりは、それを前提にして、新たな教育方法を模索する必要があるように思うのです。
つまり、「わかっている子ども」と「わからない子ども」がひとつの教室で、同じ進度で教えられるべきであるという前提自体を、いったん疑ってみる必要があるのではないでしょうか。
こうした事態がもし不可避であるならば、教育方法の改善など、本格的に考える時期にきているのかもしれません。教育方法の研究者としては、そう思ってしまいます。記事の中では、習熟度別クラスが取り上げれていましたが。
いずれにせよ、具体的にどういう手法が最適なのかは、いちように処方箋をここでだすことはできません。データ、制約の中から、「リサーチに基づく、現場のフィージビリティが高い手法」を、その現場ごとに生み出す必要があると思います。こんなときこそ、日本が世界に誇る校内研究、授業研究の伝統(世界の教育研究者から注目されているのですよ!)が活かされるべきかもしれませんね。
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