2015.2.6 07:29/ Jun
時折、自分自身、生きていることが「栓の抜けているバスタブで風呂に入っている」かのように感じることがあります。
以前にもお話したことがあると思いますが、僕には、自分の生活が、下記のようなイメージされることがあるのです。
ごめんなさい、相変わらず、絵が下手です。さすが図工2(笑)。
この「栓のない、このバスタブ」には、上から勢いよくお湯を注がなくては、「いい湯だな、あー、こりゃ、いい按配だわな」とはなりません。
もし万が一「蛇口からの注水量<栓からの出水量」となってしまえば、すぐにお湯が下から「ジャジャモレ」して、最後はスッカラカンのカーラ、カラになってしまうからです。
ここで喩えられている「注水量」とは、言うまでもなく「新たな情報・知識をインプットすること」です。そして「出水量」というのは「自分が行うアウトプット」です。
この2つの量のバランスをとり、常に「注水量>出水量」の関係にしておくことがとても大切です。しかし、ともすれば「注水量<出水量」になってしまい、お湯がジャジャ漏れして、はっくしょーん、しばれるねぇ状態になってしまいがちです。
僕だけかもしれませんが、研究をしていると、常に、このバランスのことを考えます。まことにありがたいことに、講演や出版など、様々なアウトプットの機会を賜るのですが、時にふと不安になるのです。
バスタブにお湯はあるか?
ちゃんと注水できているか?
自分は、すっからかんのかーらからになっていないか?
と。かつて、何のCMだったか忘れたのですが、
いったい、僕らは何に乾いているんだろう?
といったようなコピーがありました。特に話題になっていたCMではないとは思うのですが、どうも僕には、このコピーがずっと頭に残っていて、バスタブにお湯が少なくなったとき、いつも思うのです。
僕は乾いていないか?
今、自分は干からびていないか?
と。
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今日は知的生産におけるアウトプットとインプットの関係について書きました。こんなことを言っているくらいですから、きっと、最近、自分自身に、インプットの量が不足していることに危機感を感じている証左かなと思います。とはいえ、年度末は強烈に忙しい。何とか、この局面を乗り切り、少しじっくり論文や本にあたる時間をとりたいものです。
あなたのバスタブに、お湯は残っていますか?
僕は結構危ないです(泣)
そして人生は続く
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