2014.6.18 05:00/ Jun
経営という観点から見たばあい、俗によく「ヒト・モノ・カネ」と3つの「資源」をとり上げますけれど、これらの資源のうち、「ヒト」だけは、「他の資源とは異なる性格」をもっているようにも思えます。
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第一の特質は、「ヒトのパフォーマンス」というものは、自らが置かれている「社会的コンテキスト」によって、大きく異なる、ということです。
あるところで優秀だった人が、必ずしも、他の組織や部門で優秀であるわけではない。ある場所では、うまくいっていた人が、コンテキストが異なれば、なかなか成果を達成することができない。「個人の資質」を否定するわけでは1ミリもないのですが、社会では、往々にして、そういうことがおこります。
昨日も書きましたが、ざっくりとアタリマエのことをいうと「ヒトのパフォーマンス」というのは、結局、「個人の資質」と「社会的コンテキスト」のかけ算(交互作用)なのです。
第二に、ヒトがもうひとつ大きく異なることは、「振れ幅の大きさ」ということです。このことは、先だっての講義で、一橋大学の守島先生がご指摘になっておられました。
カネとかには、基本的には「振れ幅」はありません。ま、正確にいうと、あるっちゃあるんだろうけど、国内にいる限り10円は10円です。
しかし、ヒトはやろう!と思ってとりくむ仕事」と、「やる気がシオシオのパー状態でとりくむ仕事」のあいだには、恐ろしいほどの「開き」、すなわち「振れ幅」があります。
第一の要素とかけあわせて考えるならば、自らが置かれている社会的コンテキストに応じて、振れ幅は大きくかわります。
「自ら置かれているコンテキストに合致して、働きがいを感じて、ガシガシ働いてくれるときのパフォーマンス」と、「塩漬けになって、ひんまがって、よじれて途中で枯れてる!?ときのパフォーマンス」は、アタリマエですが「雲泥の差」があるということです。
第三に、ヒトが大きく異なるのは「ヒトは意味にセンシティブな存在」であるということです。カネとかモノには「意味は必要ないかもしれません」かもしれない。
「なぜなんですか?」と、あなたに「問いかけてくる」カネやモノはありません。しかし、ヒトには、働くことや活動することの背景に、「意味」や「目的」といったものが必要であることが多いものです。
「これをやって何になるんだろう?」
「この仕事に何の意味があるんだろう?」
もちろんヒトは「意味だけで生きている」わけではありません。もちろんヒトは「意味」だけで腹がふくれるわけではないけれど、でも、意味には敏感です。
ヒトは「意味のないもの」に熱心に継続的に取り組んでいけるほど、「辛抱強い存在」ではないのかもしれません。
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今日は敢えて、ヒトというものを、やや「戯画化」して描き出してみました。極端に描いたので、つっこみどころ満載なのはわかっていますが、20分で書くブログなのでおゆるしを。
結論として僕が言いたいことは、ヒトとは「単純な資源」ではない、ということです。「資源」として見なしたい方がいればそうしてもいいけど、それは「扱いやすい資源」ではないし、他の資源とは、少し異なる。
そんなに簡単に「右から左に動かすこと」はできないし、状況も意味も整理しなくてはならない。しかし、その「振れ幅」は大きい。ヒトが「やるぞ!」と心の底から思ったときのパフォーマンスや、「ひらめいた!」とビビビときたときのクリエィティビティは、ものすごいものがあります。
この事実をもって、「だからヒトなんてあてにならない、だから投資しない、考慮してもしょーがない」と考えるのか、それとも、「ヒトのポジティブな振れ幅を信じる」のかは、それこそ「ヒト」によりますか?
そして人生は続く
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