2011.8.26 12:13/ Jun
最近、「グローバル人材育成」という言葉が、人材開発・人材育成の世界のキーワードになっていますね。
「グローバル人材を、どのように育成すればよいと思いますか?」。
僕のところにも、いくつかご相談が寄せられています。非常に難しい問題ですよね。
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企業が今後グローバルに市場展開・製品開発しなければならない理由は、痛いほど承知しています。しかし、一方で、この「グローバル人材育成」という言葉(言葉というよりは、むしろ、その言葉にまつわる思考停止)に、僕は、非常に「危険な香り」を感じます。
ひと言でいうと、「グローバル人材育成」という言葉を使った瞬間に「思考停止」しやすいからです。
「新聞も、経営者も、他の人材開発担当者も、みんな、これからはグローバルだって言っているし、やっぱりグローバル人材育成の時代なんだ・・・」
と考え、
「でも、その育て方なんて、どこから手をつけていいか、全然わかんない。グローバルって何だ?」
となり
次に・・・
「グローバル人材育成とは、”ローカルでこれまで行ってきた人材育成のやり方”とは違うのだ。だから、違ったことをしなくてはならないのだ」
という「都合のよい認識」を受け入れ、「外部の会社」が売り込みにかかる「それっぽい処方箋」を採用するということにならないでしょうか。
(この認識は、グローバル人材育成を売り込む側にとって、最も都合のよい言説として機能します)
「講師を全部外人にしてみよう」
「新興国に若手をおくりこまなけれならない」
「マネジャー研修を中国でやらなあかん」
「インドの現地の人が過ごす日常を見にいかなければならぬ」
と「それっぽい処方箋」が実施されます。
もちろん、それらの処方箋がダメと言っているわけではありません。それらの中には、成果をあげているものもあるのでしょう。
しかし、熟慮なくこれらが実施された場合、そこにどの程度の教育効果があるのか、冷静になって考える必要も、一方であるでしょう。
こういうと怒られるかもしれませんが、僕は、熟慮なく実施されるこれらの施策を
GPM
と読んでいます。
GPMとは
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GPM:外国(G)ポットン(P)モデル(M)
ですね。
「グローバル」なのだから、「外国」に人をポットンすればいい、それで諸問題はすべて解決される(Catch ALL!!)、と考えてしまうということですね(笑)。
日本企業の場合、現在、多く派遣される国は、だいたい、中国・インドと決まっていますので、
CPM:中国(C)ポットン(P)モデル(M)
IPM : インド(I)ポットン(P)モデル(M)
といっても過言ではありません。
皆さんの企業は、「根拠レス」に「グローバル人材育成」、それも、「CPM」「IPM」になっていませんか? それがダメとは言いませんが、よく聞く話です。
なぜかは知りませんが、最近流行っています。これだけ企業経営に「ゆとり」がないと言われながら、新興国の工場・市場、市場、スラム・貧民街など、「何となく、それってグローバルだよね」という場所に社員を派遣して、「グローバル人材育成」をしたことになっちゃう事例が・・・。
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ちなみに、亜種には「GFM」というものもあります。
GFMとは、
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GFM:外国人(G)ふれあい(F)モデル(M)
です。こちらは、外国人に「ふれあい」さえすればOKということですね。
もちろん、GPM、CPMでも、IPMでも、GFMでもいいんですけど、それらに意味がない、といっているわけではありません。外国人との出会いや、外国に出かけることは、人材育成の要素として重要でしょう。ただ、それだけで「教養が身につく」「国際感覚が身につく」「今ある会社の問題が解決される」と考えてしまうことは早計だということです。
これからはグローバルでの市場展開・製品開発が必須であるならば、少し冷静に熟慮の果てに処方箋を選びたいものです。
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グローバル人材育成を考えるにあたり、まず行わなければならないことは、「グローバル人材育成」という、わかるようでいて、わからない言葉の使用を停止することだと僕は思っています。
実際「グローバル人材育成」といっても、多種多様なのです。
現地で採用した現地の人をどのように成長させるのか?
若手に早いうちから海外業務経験をさせるのか?
現地法人をたばねるマネジャーを育てるのか?
あらゆる「人材育成」が、「グローバル人材育成」というひと言で「代表」され、一瞬、目くらましにあいます。
ここで僕が提案しているのは、昔?、お正月にタモリとサンマが、英語を使わず、ゴルフ18ホールを回る、という番組をやっていました。それと同じです。
思考停止を誘うワードは利用を停止する。その上で、なるべく問題に具体的に迫り、考えてみる、ということです。
ひと言で言ってしまうと、
「もう、グローバル人材育成って言うな!」
ということです。
正しくいうと、グローバル人材育成という言葉に惑わされ、思考停止することはリスクを伴う、ということです。
そのうえで熟慮に熟慮を重ね、「5つのポイント」について、具体的に考える必要性があると僕は思っています。
まず第一のポイント。
それは「会社のグローバル戦略」とは何かを明示することです。グローバルエグゼクティブの育成に関する数少ない書籍にモーガン・マッコールらの専門書がありますが、彼がまず重要視することは「会社の戦略」です。
要するに、これから展開されるグローバル人材育成が、「会社の戦略」にそったかたちで行われる必要があるということです。
会社は、どこに市場を展開して、そこで、どのような法人を立ち上げたり、買収したりして、そこにどのような人を雇用したり、どのような年齢のどのような階層の日本人を派遣し、どのようなビジネスを行おうとしているのでしょうか。
そこをまず明確にした上で、処方箋を考えることが必要です。これは当たり前かもしれませんが、意外になされていないことです。何となく、中国の白物家電の工場に行って、「日本の製造業はヤヴァイですよ」と煽ってみたり、何となくインドに行って「想像もしない貧困生活してますね」となってしまいます。
何となくグローバル、何となく外国、何となく英語
これはよくあるパターンです。
それにならないようする必要があると思います。
何となく中国の大連
何となくインドのIT企業
何となくグロービッシュ
は典型的なパターンです。もしそのままならご注意を!
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第二のポイント。
それは、グローバル人材育成であろうが、ドメスティック人材育成であろうが、「人が学ぶ原理は、それほど変わらない」ということです。そんなもの、変わってもらっちゃ困るんです。
学ぶことは学ぶこと。
世界でも、日本でも、それは同じです。
それ以上でも、以下でもありません。
特に、この世界は、「私の教育論」が跳梁跋扈する世界です。海外で活躍した人、英語を使いこなせる人の「わたしの教育論」が、渦巻く世界です。
(例えば、英語学習については、100人が100人、やり方が異なり、。それぞれの自分の英語学習論(Self theories)をもっているでしょう。つまり、王道なんてない、ということです。ひとつだけあるとするならば、英語学習の秘訣とは”英語の利用・知覚をやめないこと”であるとしか言いようがないかもしれません。英語学習とは、”英語の利用・知覚をやめない”ために、自分のやり方を自分なりにもつことである、といえるかもしれません)
こういう状況においては、可能性のひとつとして、敢えて「人が学ぶ原理」に立ち返り、物事を考えてみることが重要だと思います。
ここでは詳細は述べませんが、経営学習論でよく述べられる下記の5つのポイントは、グローバルであろうが、何だろうが、十分一般性のある原理だと思います。
1.人は職場における仕事の中で成長する
(ワークプレイス)
2.仕事になるべく早くとりかかれるよう、初期には組織適応の支援、帰任時には再適応の支援が必要である
(アダプテーション)
3.背伸びの仕事経験が人を成長させる
(エクスペリエンス)
4.経験とセットに内省・学習棄却を行うことが重要である
(リフレクション)
5.人を成長させるのは、多様性のある他者からの支援、コミュニケーションである
(カタリスト)
ワークプレイス、アダプテーション、エクスペリエンス、リフレクション、カタリスト。だとするならば、これをグローバルにどのようにアレンジするのか、を考えるポイントとして押さえていく必要があると思います。
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第三のポイント。
それは、「今ある資源を見直す」ということです。日本企業は、今、製造業を中心に国内生産拠点から海外生産拠点への移動を検討しているところもありますが、日本企業の躍進は過去30年、海外と無縁ではなかったはずです。
海外に赴任した経験のある社員。現地法人と合弁会社を立ち上げたことのある社員。タフな交渉を海外の企業としたことのある社員。敢えて、今、グローバルと称して、新たなものを外部から導入しなくても、組織内部に、人材育成の資源となるものはないのでしょうか?
前にフィンランド教育のUSTでも述べましたが、
「今あるリソースを、いかにAssociation(連合)させるのか?」
という観点は、新たなリソースを導入する前に、考えてもよい視点のはずです。
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第四のポイント。
それは、グローバルで活躍したあとの道筋(キャリア)をしっかりと準備することです。
海外に出て行くのはよいけれど、帰ってきてみると、自分の居場所はない。こういう話は、僕と同時代を生きるマネジャーからよく聞くことです。
会社で偉くなっているのは、結局、本社にずっといた人なのだとしたら、挑戦しようという気も失われても、責めることはできないでしょう。
僕は、物事を「個人の資質」に還元してしまう考え方「個人還元主義」が、あまり好きではありません。
むしろ、個人は社会・状況を見極めたうえで、「合理的判断」として、自らの振る舞いを決定している、と考えます。
例えば、あなたの組織の社員が、あなたの目から見て「内向き」に見えるとします。一般には、そういう現象を目にした場合、「うちの社員は、みんな内向きな性格だ」という風に、「個人の資質」として考えます。
が、必ずしも、そうでない場合があるということです。むしろ、「内向き」という現象は、社員が、今、自分がたっている社会的状況・組織内の状況を「合理的」に分析・判断したうえで、選択されている、と考えてみることも一計かもしれません。
もしかすると、「内向き」という現象は、「海外に行ってしまえば、その先が見えなくなる」という「あなたの会社・組織の要因」から生まれているのかもしれません。
あなたの組織は、海外で挑戦することでメリットがある組織ですか?
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第五のポイント。
それはグローバルに活躍する社員を経営者が望み、声を荒らげるのであれば、その言葉は、声を発する「経営者であるあなた」にも帰ってくるということです。これを僕は「学習言説の再帰性」と呼んでいます。
あなたは、わたしに変われ、という
あなたは、わたしに学べ、という
あなたは、わたしにグローバルな視点をもて、という
あなたは、わたしにグローバルに飛び出せ、という
そういう、あなたは、どうなのだ??
あなたは、新たに変わろうとしているのか?
あなたは、新たに学ぼうとしているのか?
あなたは、新たにグローバルな視点をもとうとしているのか?
あなたは、新たにグローバルに活躍しようとしているのか?
そういう、あなたは「本気」なのか?
そういうことです。
以上、5つのポイントでした。
また皆さんのご意見をお聞かせください!
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追伸.
お盆も終わり、センターの仕事、大学院入試など本格化してきました。大変忙しい日々を過ごしています。
研究的にも、大学院生と書いている書籍の原稿〆切、上田先生(同志社女子大学)との共著の執筆スタート、溝上さん(京都大学)との共同研究の調査実施に向けた準備、など本格化してきました。
僕一人の仕事は、遅々としていますが、何とか頑張っています。単著「経営学習論」の方は一応、殴り書きで7章まで書き上げましたが、こちらはまだまだですね。そういえば、今度、「日本労働研究雑誌」に論文を書くことになりました。11月〆切だそうです。
そして人生は続く。
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