2011.6.21 09:49/ Jun
「ものごとの全体像を理解すること」とは、実に、難しいことだと、つくづく感じます。
「何かのラヴェル(コンセプトでもいいですよ)」を貼って、それを理解しようとすると、一見、それですべてが説明つきそうになるのですが、でも、やっぱり、すべては説明できない。
強力なスポットライト使って、あるものに光をあてて、それを「見た」つもりになっても、すべてを把握できているわけではない。光のあたらない場所が残っている。
つまり「何かのラヴェルを貼ること」は、「ラヴェルから抜け落ちる部分」をつくること。
「スポットライトで明るい部分をつくること」は、「漆黒の闇をつくること」になってしまいがちです。
(これは、研究方法論についても言えることかもしれませんね。現象のすべてを切り取ることのできる研究アプローチというものは存在しないと僕は思っています。
つまり、あなたが「見たいもの」を決め、それを可能にする方法「見るための方法」を選ぶことは、「あなたには見えないもの」をつくることなのです。難しいねー。)
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ちょっと、これに関連するかもしれませんが、有名な「喩え話」に「象を見たことのない盲人のメタファ」というのがありますね(これ、僕の好きな喩え話です。これまでにもお話ししたことがあると思います)。
今、「一匹のとてつもない大きさの象」がいる。そこに数人の「象を見たことのない盲人」がおり、「象とは何か?」をいいあてようとしている。彼らは目が見えないので、手で象をさすり、さぐりあてようとしている。でも、彼らは、仲が悪く、お互いに対話をすることはない。
鼻をさすっている盲人は、「象とは長いしわしわの円柱である」という。「おなかをさすっている盲人」は、「象とは、ぶにょぶにょしているもの」である、という。「しっぽをさすっている盲人」は、「象とはブランブランしていて、先に毛がついているものである」という。
もう「寓意」は、おわかりですね。
すべての盲人は、自分の「見たもの」から「真実」を語っているのです。しかし「象を語り得ていない」。
盲人たちが、「象とは何かをわかりえる」ためには、
1)自分たちが見たものをいったん相対化し
2)他者との協働によって全体像をつかむことを合意し
3)それぞれの情報を持ち寄り
4)お互いの意見の受容可能性を高めたうえで
5)象が何たるかを対話しなくてはなりません
という「絶望的な努力」をしなくてはならないのですね。
うーん、こりゃ、大変だ。
でも、盲人たちのあいだに「権力関係が存在しない」場合は、まだまだ「マシ」かもしれません。民主的な関係のもと、1)から5)に挑戦することができるから。
しかし、特定の努力がない場所で、「権力から無縁になれる人間関係」とは、なかなか存在しないものです。つまり、人間関係に「権力関係」は、もれなく付随する。「タテの関係」が存在しない人間関係は、まー、存在することはかなりレアである。
だとするならば、すなわち「盲人の間に権力関係が存在しており、お互いがフラットな関係ではないこと」を当然の前提として認めるのだとすると、先ほどの「絶望的な努力」は、「さらに絶望的な努力」になることは、容易に予想がつきます。
偉そうな態度をとる人とか、萎縮しちゃう人とか。人の話を聞かない人とか、簡単に納得しちゃう人、ふつうに、でてきますから。そういうものです。
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今日の日記は、何を言いたいってわけではありません(笑)。この文章をもって、「寓意」を、しれっと、「誰か」に届けたいわけでもありません。そんな「まどろっこしいこと」を、僕はやりません。僕は「直球勝負」なので。
違うんだよ。
むしろ、「全体像がわかる」ってことは、とてつもなく難しいことなんだよなぁ、という「ため息」でございます(笑)。今、ある研究のデータをまとめていて、そのことを強く思うのです。なんか、「全体像」がはっきりしないなぁ、と。
まー、それでも、「あきらめ」の悪い僕は、「やっぱり、象の全体象って、知りたくない? 知りたいよね」と思ってしまうのですけれども。
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■2011年6月21日 Nakahara Twitter
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