2011.5.4 18:09/ Jun
大阪・万博公園・国立民族学博物館(みんぱく)で開催されている「ウメサオタダオ展」に、家族で出かけた。
梅棹忠夫先生といえば、希代の人類学者にして、比較文明論、文明生態学を縦横無尽に論じた「知の巨人」。彼によれば、人類学の本質とは、下記のようなものになる。
■人類学者は、つねに世界の各地におもむき、人間現象の様々なヴァラエティを探し出して、それを極めて実証的な方法で研究し、記述する。そして、それを、他の人間研究家たちの学説のまえに差し出してみせる。人類学というものは、人類学以外の、人間に関する諸科学にとって、まことにイヤな存在であるかもしれない。どのような分野であれ、社会科学者、人文科学者たちが、自分たちの身の回りの人間を材料として研究し、その結果をまとめて人間に関するひとつのテーゼをたてると、それに対して、人類学者が、そのテーゼに合致しない実例を、世界のどこかから探し出してきて、つきつけるのである。そういう事態が、ほとんど例外なくおこるという覚悟をしておかなければならないのである。人類学者は、人間諸科学における「学説の破壊者」であり、「学説形成の妨害者」である(梅棹 1974)
なるほど、こうして見ると、学習研究においても、この事態は同様である。1980年代後半、「情報処理アプローチ」あるいは「認知主義」という名のもとに追求されていた「人間の学習」に関する研究群が、いわゆる、「状況的アプローチ」とよばれる人類学の方法論を用いた研究群によって、強烈なアッパーカットを食らわされたことは、よく理解できる。人類学は、「学習研究」においても、「学説の破壊者」の役割を無事果たした。
しかし、梅棹の活動は、人類学だけにとどまることをしらなかった。知的生産の技術、情報産業論、ジェンダー論にも及び、後年、国立民族学博物館を設立したことに尽力なさったことは非常に有名な話である。
■知的活動が、いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが、現代なのである。 / 人間の知的活動を「教養」としてではなく、「積極的な社会参加のしかた」として捉えよう、というところに、この「知的生産の技術」という考え方の意味があるのではないだろうか(梅棹 1969)。
■さて、情報処理の段階から、もう一歩進むと、情報創造の段階に入る。家庭を発信局とする情報創造が行われ、そのための装置がつぎつぎとつくられるだろう(梅棹 1972)
■女が妻であることをやめるというのは、何も結婚しないということではない。結婚という制度派、なかなか消え去るまい。しかし、妻という名のもとに、女に要求された様々な性質は、やがて過去のものとなるだろう。/ 女は妻であることを必要としない。そして、男もまた、夫であることを必要としないのである。(梅棹 1959)
■博物館というのは、いわゆる「市民のための研究機関」でありまして、「市民の啓蒙機関」ではございません(梅棹 1977)
これらの記述・発言は、今となってはあまり新鮮味を持たないものなのかもしれない。しかし、そう感じた方は、記述・発言がなされた「年号」を見ていただきたい! 1950年 – 1970年という時代に、すでに、現在を予見していることに気づかされる。
もちろん、これら以上に梅棹先生の業績はたくさんあり、枚挙にいとまがありません。もっとも代表的な著作は、と問われれば、一般に流通しているものとしては、下記なのかな、と思います。もしよろしければ、ぜひ。
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「ウメサオタダオ展」では、梅棹先生の学究の歴史を振り返りつつ、彼の使ったフィールドノート、カードなどがおしげもなく陳列されていた。
「知の巨人」はどのようなフィールドノーツをつけたのか。僕はどうしても、それをこの目で見てみたかったのだけれども、今回願いが叶い、感激した。その緻密さは、驚愕に値するものであった。精緻な、あまりに精緻で美しく。
特に印象深かったのは、梅棹先生が中学校の頃にとったノート。びっしりと並ぶ文字と図。梅棹流記録術は、彼の幼い頃に由来するのではないか、と思った。
梅棹先生はいう。
■ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようとする努力はあきらめて、なるだけこまけに記録をとることに努力する。/ “自分”というものは、時間がたてば、”他人”と同じだ、ということを忘れてはならない。(梅棹 1965)
■何事も、書き留めておかなければ、すべては忘却のかなたにおきさられて、消えてしまう。歴史は、だれか他人がつくるものではなくて、わたしたち自身がつくるものだ。わたしたち自身が、いまやっていることが、すなわち歴史である。(梅棹 1970)
■なんにも知らないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目で見て、その経験から自由に考えを発展させることができるからだ。知識は歩きながら得られる。歩きながら本を読み、読みながら考え、考えながら歩く。これは一番よい勉強の方法だと考えている。(梅棹 1960)
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これらが結実したものが、のちの「知的生産の技術」だと思われる。
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会場には、「京大カードを書いてみるコーナー」があって、TAKUZOも遊んでみた。下記は、その日、TAKUZOが、アフリカ地域の展示コーナーで発見したことをまとめたカード。「けん(剣)」をもっているアフリカの民族について書かれてます。TAKUZO曰く、「カード書くのは面白いねー」。
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梅棹先生曰く、
■ひとつのアドベンチャーが終わったら、つぎのアドベンチャーの計画にとりかかる。それは、連続して何かある究極の目的につながるものである必要は全くないのだ。そのときそのときに、全身全霊をあげて「遊ぶ」だけのことである。(梅棹 1991)
■思想は「使う」べきものである。思想は「論ずる」ためだけにあるのではない。思想は、西洋かぶれのプロの思想家の独占物ではないのであって、アマチュアたる土民の誰かの自由な使用にゆだねるべきである。プロにまかせてはおけない。アマチュア思想道を確立するべきである。(梅棹 1952)
■行動しながら読書し、読書しながら行動する
おそらく、梅棹氏は、次から次へと、異なる領域・異なるフィールドを越境し旅を続け、自分の理論を大胆に提案し、「遊び」続けた人なんだろうな、と思った。
しかし、そのダイナミックな越境の様子は、すべての人に好意的に受け止められたわけではなかったのかもしれない。
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■どこかで誰かが書いていたんだけど、”梅棹忠夫の言っていることは、単なる思いつきに過ぎない”って。わたしに言わせたら、思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、要するに本の引用。ひとのまねということや。/学問とは、ひとの本を読んで引用することだと思っている人が多い。/ くやしかったら、思いついてみろ
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何とも快活な回答である。
しかし、畢竟、「越境」とはそういう類のコンフリクトを含みうるものではないか、とも思う。「みんな仲良く、お手々つないで、チイパッパ」というわけにはいかないのが、「越境」のひとつの本質なのだ。その「すさまじさ」と「生じる葛藤」を理解せずに語り得ぬものが、「越境」という知的運動なのだと僕は思う。
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できれば、中原研究室の大学院生諸氏と、この展示に来たかった。見学後、みんなで「研究とは何か」「知的生産とは何か」を議論できたら最高だったな、と思った。
もし、研究を志す人で、もし、関西に出かけることがあったら、ぜひ立ち寄ってみると、元気になると思う。
最後に、梅棹先生の生涯を貫いたものについて。
■一番大切なのは、インコグニチ(未知なるもの)ということ。デジデリアム・インコグニチ(未知への探求)、これが一番大事なことなんや。学問やってても、これは一貫している。未知のものと接したとい、つかんだときは、しびれるような喜びを感じる。我が生涯をつらぬいて、そういう「未知への探求」ということが、すべてや。こんなおもしろいことはない(梅棹 2009)
デジデリアム・インコグニチを貫いた90年の人生であった。
2010年没。
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そして、僕の人生は続く。
追伸.
みんぱく(国立民族学博物館)は、大阪大学吹田キャンパスから、すぐそこにある。よく研究室を抜け出しては、ここに来て時間をつぶした。太陽の塔の後ろ姿もよく見た。
将来に曙光すら見えずとも、皆で研究に打ち込んでいた頃。今から十数年前の話である。そこを、今、僕は息子と訪れている。訳もなく、懐かしく、そして、嬉しく思う。
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