2010.1.21 09:42/ Jun
三島亜紀子著「社会福祉学の科学性:ソーシャルワーカーは専門職か」(剄草書房)を読んだ。
専門職を支えるためには、科学的で網羅的な知識体系が必要だと言われている。たとえば、医者・弁護士などの専門職では、それが確立している。
ソーシャルワーカーにおいても、それを確立しようとする動きがかつてあった。本書は、ソーシャルワーカーが専門職として自律しようとするプロセスを歴史的に読み解こうとする。ミシェル・フーコーのアルケオロジーを社会福祉の領域に重ね合わせようとしているようにも読める。個人的には「専門職とは何か」について考えるための良著だと感じた。
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ソーシャルワーカーの専門職樹立は、当初、「医学」をモデルとしながら、「知識の体系化」「技術の科学化」を両輪に進行する。しかし、ポストモダンの学問的潮流(本書では、反省的学問理論)を受け、その試みに軌道修正がはかられはじめる。
反省的学問モデルは、医学モデルを継承しようとしたソーシャルワーカーの立ち位置に、文字通りの「反省」を迫った。専門家と利用者のあいだは対等な関係とされ、両者が紡ぎ出すナラティブこそが治療と位置づけられる。
しかし、治療とは「リスク」を抱えることである。そこに「リスク」が存在する限りにおいて、「治療」は科学的に適切な処遇を求められる。この処遇の適切性を担保するために生まれたのが、いわゆるEBM(根拠に基づく治療:Evidence-Based Medicine)であった。
現在ソーシャルワーカーをささえる理論群は二分化されている。著者の言葉を借りるならば「片手に反省的学問理論、片手にデータに基づく権限を手にした専門家」といった具合に、一人の人間の中に拮抗する理論体系を保持しながら、日々、実践にあたっている。そして、その理論群の境界、いわゆる閾値は常に揺れ続けている。
本書の僕なりの理解は、だいたいこんなところだろうか。
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三島氏の「片手に反省的学問理論、片手にデータに基づく権限を手にした専門家」という指摘には、非常に共感できるところがある。僕自身がその典型的な一人だと思う。
また、やや拡大解釈を行うのなら、自分が研究対象にしているビジネス領域の専門家像、あるいはマネジャー像においても、ソーシャルワーカーほど明示的ではないものの、両者の理論群が拮抗し、時折葛藤を起こしている状況にあるように感じる。
「片手に物語、片手に科学をもった専門家」
科学「だけ」を抱える、物語だけを紡ぐ「だけ」なら、矛盾や葛藤を引き受けなくてもよかったのに。しかし、もう、元いた場所には戻れない。
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