2007.12.7 09:35/ Jun
昨日、某大学で、小学生になる子どもをお持ちの大学院生さんたちと喋っていたら(先輩ママたち)、オモシロイことを聞いた。
僕は首都圏の出身でもないし、当然、小学校受験をしたこともないので知らなかったけれど、その方々曰く、「小学校のお受験で実際に測られているのは、親の教育力ではないか?」ということだった。
もちろん、「測られている」といっても、「親力尺度」みたいのがあるわけじゃない。試験問題自体は、子どもの年齢の発達段階からすると「少し上の課題」が設定されることが多いらしい。当然、試験に回答するのは「子ども」である。
たとえば、小学校受験であれば「お話作り」や「余りがある割り算」などが出題されるという。
お話作りでは、4枚のカードがわたされ、そこに描かれている主人公の顔の様子、情景描写などから、起承転結のある首尾一貫した作話を行うことが求められることがあるそうだ。
余りがある割り算は、たとえば、「16枚のおせんべいを3人でわけたら、1人何枚ずつ配ることができ、何枚あまりますか」といったもの、だそうだ。いずれも、小学校低学年から中学年くらいに学ぶことが適当とされる教育内容である。
しかし、「お受験」ではこれらの「難しい問題」を、敢えて出題するのだという。発達段階的には難しいとされる教育内容を、いかに子どもに教えることができるか。親を試すためにである。
(このあたりは階層の再生産や文化資本の話が当然関係してくる。しかし、このエントリーでは、敢えてそこには焦点をあてない)
「ややこしい内容」を子どもに教えるためには親に忍耐力が必要だ。また、子どもとよい関係を築いていることも必要である。また、子どもをノセる技術があることも必要だし、難しい概念を簡単にパラフレーズする力が求められる。
かくして、お受験をめざす子どもたちが通う塾では、子どもの授業のあとに、親を対象にした授業が設定されることが多いとのことであった。
—
以上、僕が大学院生さんたちから聞いた内容は、僕自身に経験がないこともあり(親としても子としても受験を経験したことがない)、どれだけ一般性があることかはわからない。
でも、話を聞いていて「さもありなん」という気はした。もし仮に僕が有名小学校の先生なら、同じことをするだろうから。
僕だったら、幼児の段階で個人の「アタマの回転のよさ≒認知能力」を問うても、あまり「将来の才能開花」を予測する変数としては意味をなさないだろうな、と考える。
それよりは、子どもの認知能力を伸ばせる親なのかどうか、親には教育力があるのかどうか、家庭環境はしっかりしているかどうかを問うた方が、よっぽど予測可能性が高い。
もちろん、上記は仮説である。しかし、
テストでホントウに「測られているもの」は何か?
を考える題材としては、なかなかオモシロイ。
そう、その試験では、「子ども」ではなく、親である<あなた>が試されている。
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