2007.11.4 09:45/ Jun
大学院ゼミ。
学部時代に聞いた「教育史」の基礎のような章をよんだ。「教育学」「教育の専門家」といったものが、どのような歴史的過程をへて、立ち上がってきたのか、という話。
「内容に関する専門家」からは独立して、「教育の専門家」が、社会的に求められるようになったのは、20世紀に入ってからのことだという。
日々増え続ける大量の知識を、多くの人に伝達するためには、どのように行えばよいか、という喫緊の課題に対応する人材として、「内容の専門家」からは独立して、「教育の専門家」が必要になった。
もちろん、この背景には、産業革命以降の急速な社会システムの転換と、先の第二次世界大戦があることは言うまでもない。
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「教育学」も「教育の専門家」も、それほど長い歴史を有しているわけではない。教育学は、法や医などの他のディシプリンと比べて、その学問的基盤が脆弱だと言われているが、それは歴史的必然でもある。
基盤は脆弱であることはいたしかたない。
むしろ、「基盤のもろさ」というヴァルネラビリティを逆手にとって、激変する世の中の様々なイッシューに対応できる「しなやかさ」をもつべきだと、僕は思う。そのためには「世の中」との回路をオープンにするべきだ。内部論理だけで通用する自己定義を行えば、「脆弱な基盤の上に、世の中の問題にも対応できない」という二重苦を背負うことになる。
まだ、はじまったばかりだ。
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