教室にコンピュータやテレビ電話をはじめとした新しいメディアが導入されるということは、今までの「学び」や「教え」のありかたを根本から変えていく可能性があると言われています。そうした近年の教育現場の動向は、時に「情報教育」などと呼ばれたりするのですが、それでは情報教育とはどのように捉えられるべきものなのでしょうか?
このプロジェクトでは、「情報教育」を「出来事」として捉えたいと思うのです。これまでその「出来事」の渦中にいて実践を行っていた現場の先生方に、それを語ってもらうことによって、それが一体どういうものであるのかを考えることが本プロジェクトの目的です。本研究に成果があるのだとしたら、それは「情報教育」という「出来事」がいったいどういう意味をもっていて、これからどこへ向かおうとしているのか、ということについて、このプロジェクトの成果を読んでくれた人に考えてもらうための「材料」や「きっかけ」に他なりません。答えが決まっているわけではありません。答えをつくるのは、このプロジェクトの成果を読む人々なのです。
情報教育を「出来事」として捉え、その出来事を現場の先生方に語ってもらうことによって、その出来事の「本質」を把握する材料を提供することが本プロジェクトであることは先に述べました。そして、こうした考え方はこれまでの「情報教育」をめぐる議論の中では、なぜか注目されてこなかった新たな視点だったりします。思うに、これまでの「情報教育」をめぐる人々の議論は、「制度」と「技術」という2つの側面に集まっていたのではないかなぁと思うのです。
第一に、情報教育を「制度」として捉え、情報教育の定義や目的や効果、現代的意義などにかんする議論がありますね。こうした議論のことを「制度としての情報教育」と呼ぶことにしましょう。たとえば、「情報教育の目的とは・・・である」だとか「情報教育の効果は・・・である」というような言い回しを特徴とする議論のことです。
一方、情報教育を「技術」としてとらえ、「情報教育をいかに実践するか、どう普及させるか」に注目する議論があります。第二の議論であるこの議論のことをここでは「技術としての情報教育」とよびましょう。「情報教育を実践するためには・・・が重要である」
とか「情報教育のコツとして・・・があげられる」などいう言い回しが、この種の議論の典型的な語り口です。
このように、これまで情報教育は「制度的側面」や「技術的側面」から人々の話題になることが多かったように思います。そして、「制度としての情報教育」「技術としての情報教育」は時にまざりあいながら、様々な場で熱心に語られ、普及されてきました。しかし、ここで異なった種類のこれら2つの議論には、実は、あるひとつの共通点があることに気づかされます。それは、これらの議論がおもに「研究者の視点からの語り」であったという点です。そこには、実践者の視点からの語り、つまり実践者が自分の経験や見たこと、感じたことなどのエピソードをもとに「じぶんの情報教育を語る」という営みが抜けおちていたように思うのです。もちろん、それはこれら2種類の議論を否定するものではありませんが、我々はここに注目したいと思うのです。
本プロジェクトは、既存の情報教育をめぐる議論において、あまり注目されることのなかった「実践者の視点からの語り」をもとに情報教育の像をつくりあげること、つまりは情報教育を実践者にとっての「出来事」としてとらえ、その現実を把握することを目的としています。このプロジェクトでは、研究者から生じた明確な視座や明示的な処方や理論をあざやかに「見せつけること」はいたしません(もとより、そんなことは筆者らにはできません)。何度も繰り返しいいますが、本研究において筆者らが語り得るものは、実践者自身が明確な視座や明示的な処方や理論をつくりだすための示唆に富む材料やきっかけにすぎません。
なんだ、結局考えんのかいな、すぐに役にたたないなら、意味ないじゃん。
とおっしゃるかたもいるかもしれませんが、そういう意味で「役に立つ」というコトバを使うのなら、本プロジェクトは役に立ちません。このプロジェクトが提供できるのは、考えるための「材料」や「きっかけ」です。しかし、この「材料」や「きっかけ」こそが、「実践に役立つ可能性」のあるものであると、筆者らは思っています。そして、その可能性は、すぐには開花しないかもしれませんが、読者の数だけ自由にかつ無限に広がっているのです。 |