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2004/07/03 Update
先日、ジャーナリストの菅谷明子さんとMITでお逢いし、お話しをしました。菅谷さんは、数年前、海外の教育現場で注目されていた「メディア・リテラシー」を紹介するご著書を出版された方です。近年では、公共図書館についての御著書も上梓なさいました。 当日お話しした内容の多くは、菅谷さんが今後進めていきたいと思われている「大学教育」についてでした。 いつものごとく、僕は、まとまりなく話していたのですが、その中でひとつだけ、自分が今回留学しなかったら起こらなかったであろう認識の変化に気づきました。 それは・・・うーん、既にどこかで書いたのかも知れませんが、「大学には、社会の公共の知的基盤をつくる責務がある」という考え方です。結論からいいますと、どんなに大学が競争的立場に置かれたとしても、そうした考え方を決して捨ててはいけないのだと思うようになりました。現在大学は「公共の知なんてどうでもいいし時代遅れだ。これからはお金をもらってサービスを提供するのが大学なのだ!」という考え方が体制をしめている。しかし、僕は、それが過度に行き過ぎるのは問題があると思っています。しかし、同時に、「公共の知をつくるのだ」という名目でこれまでの大学のあり方が、「そのまま」あり続けるのも問題があるとも思っている。 結論を最初にいいますと、これからの大学は、「サービス提供機関としての大学のあり方」と「公共の知を生み出す大学のあり方」、両者のバランスをうまくとりながら、マネジメントされるべきだと思っている、ということです。ペーペーの助手が大学一般を語るなって? 若いやつが教育のこと考え、語って何が悪い!・・・オマエは若くないって・・・失礼しました。 閑話休題 正直にいいますと、かつての僕にはこういった考え方は薄かった。タテマエではもちろんわかってるつもりでしたが、それが自分とどういう関係があるのか、僕にはわからなかった。 留学する前の僕は、「大学は、社会に教育をサービスとして提供する」のだと考えていました。もちろん、すべて信じていたわけではありません。むしろ、この問題をトレードオフ(二者択一)の問題として把握していたという方が、正確かも知れません。 この2つ、一見しただけでは、さほど言っていることは変わらないのかも知れませんが、ひとつだけ重要な差異があります。それは、「責務」という言葉と「サービス」という言葉の差です。 後者が「サービス」というからには、サービスを受ける主体と、サービスをうけるかわりにやりとりされる対価があるはずです。そして、必然的に「サービスを受けられる人」と「サービスを受けられない人」が絶対にでてくる。 それに対して、前者は「責務」です。私立大学でも公立大学でも、大学が税金で運営されていることは否めぬ事実です。そして「責務」という言葉のウラには、「一応、社会のみんなの役にたつこと」を目指すっていう理想があります。サービスをうける主体は必ずしも個人をさしません。 とまぁ、ここまで単純な二分法で考えてきましたが、重要なのはここからです。 アメリカの大学 - 過剰な一般化ですね、ハイ・・・少なくとも僕がこれまで見聞きしていたMITやハーバード大学では- 「サービス」と「責務」をうまく使いこなしながら、大学経営や研究室運営を行っているように思うのです。要するに、どっちかを2者選択するのではない。要するに2分法をこえて、うまく両者の機能を両立させようとしているように見えるのです。 ある場面では、知的資本を企業などに提供するかわりに、莫大な研究費を企業や外部団体から獲得する。あるいは、自らの智恵を「サービス」として切り売りする。これがサービスとしての側面ですね。 その一方で、地域の人たちや、学問領域に関心のある人たちを巻き込んで、いろんなプロジェクトを立ち上げたり、フリーで議論に参加できる様々な機会を提供している。これが「責務」の側面。 でも、ポイントは「責務」といっても、別に堅苦しくない。「エライ先生の議論を壇上から拝聴させていただきます」式のムサクルシイ会議ではなくて、そこにはCokeとAu Bon Painのサンドイッチがあって、それらをつまみながら、智恵を交換しあう場。そこはイヴァン=イリッチ風にいうならば、コンヴィヴィアリティあふれる場ということになるでしょうか。 こちらにきて、僕はそうしたことを試みている研究者を何度も見てきました。彼らはファカルティとして人々の尊敬を集めていた。
2004年4月1日、ニッポンの国立大学は明治以来の大改革を断行しました。実は、その真っ最中に僕はボストンにいたわけで、それがどのようなものであるのか・・・そのインパクト、僕にはまだわかっていません。 でも「民間の経営手法を取り入れる」だとか、「学長の権限を強くする」「大学間に競争原理を導入する」だとか、まぁ、いろいろ言われています。もちろん、これまでの大学には様々な非効率な部分があったように思われますので、そうした様々な経営手法を、僕は、すべて否定することはできません。程度問題なのですが、そうした原理は「全く不必要」であるとは僕には思えないのです。 しかし、重要なことはこの改革の背後には「大学は教育サービスの提供手段である」という考え方が色濃く出ている。そして、その色が濃いだけに、ともすれば、「大学が社会の公共の知をつくる責務をもつ」という側面が忘れられてしまう可能性がある。 つまり、問題がトレードオフとしてとらえられ、「公共の知なんてどうでもいいし時代遅れだ。これからはお金をもらってサービスを提供するのが大学なのだ!」と単純に考えられることが、一番怖い気がするのです。 単純な事例をだしましょう。 たとえば、これまで大学の個々の研究者が行う研究会には、必ずモグリの人がいて、まぁ、いろんな社会的背景をもった人が参加していました。こういう機会がだんだん失われて、研究費を負担してくれてるスポンサーだけに限定したセミナーしかやらなくなるだとかってことが、近い将来にどんどん起こってくるかもしれない。 また、お金をもっている学生しか相手にしないようなプリステージャスなコースをつくって、そこでは一流講師や会社の重役などとネットワーキングする機会がふんだんに与えられているとかね、そういうことが起こりそうに思えるのです。
日本では、教育は「ビジネス」として把握されず、聖性が付与されやすい傾向があります。昔から「教育でお金をとるとは何事だ」という考え方がありますね。 こうした考えにははっきり言って賛成できない。これも僕にはどうかと思うのです。「学ぶため / 知るには授業料が必要である」・・・これはアタリマエのことです。こうした「教育を聖なるもの」として把握する「過剰なまなざし」が、教育産業の発展を妨げてきたし、質の向上に寄与しなかった可能性がある、僕はそう思っています。 もちろん、これを手放しで認めることはできない。ここに論理の飛躍があることはわかっている。「お金をとれば質があがる」というのは、明らかなる論理の飛躍。「市場のチカラにまかせれば、質はよくなる」と素朴に思いこんでいる人、結構多いんですが、「その根拠は?」とたずねると、「だって、競争が起こるんだから質あがるでしょ!」と返してくる。で、さらに「どうして競争だと質があがるの?」と聞くと黙ってしまう。 そういう人たちは、「市場」というものを、どこか万能かつ中立な主体に見立てているのではないでしょうか。確かに、市場のチカラにまかせれば、質があがることはある。しかし、そうならないものも多い。いわゆる「悪貨は良貨を駆逐する」というヤツです。市場のチカラにまかせても、質があがらないものも多いのです。こと、公共領域に関して市場は万能ではない。「個人のシアワセやリエキの追求」と「社会厚生の追求」のディレンマをどう解消するか、という研究領域 - 公共経済学の知見に詳しいです。 しかし同時に、すべての教育が市場化され、サービスとして物象化されるのは考えものですよね。極化(Polarization)現象というのでしょうか。これまでひとつの価値が世の中の人に信じられていればいるほど、こうした極化が起こりやすいのです。新しい案を熱狂的に信じることが、人々のルサンチマンとなるからです。 そうではないのです。僕が思うに、今の大学に必要なのは、「サービス」と「社会に対する責務」の微妙なバランスであるように思うのです。そして、そうした微妙なバランスをとりながら、組織を発展させていくマネジメントだと思います。 いつでしたか、カミサンとドラッカーの「非営利組織のマネジメント」に関する本をよんだことがあります。そのときに、こんなような一節に出逢いました。二人でなるほどな、と思ったことがあります。
「ニッポンの大学」、そして「ニッポンの研究者」は、この微妙なバランスをマネジメントできるのでしょうか。 この問題、どんな人にとっても無縁な話ではないと思います。子どもをこれから生む予定のある方は言うまでもないですが、大学を卒業して数十年たつ方、大学に行ったことのない方にも、間接的に影響は及ぶような気がします。断じて他人事ではないのです。 皆さんはどう思われますか? |