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今、シアトルから東京に向かう機内にいる。今日は、アメリカの独立記念日。うーむ、クワバラ、クワバラ、なかなかデンジャラスでリスキーなフライトの真っ最中なんだな。
ドキドキフライトの真っ最中であるが、「鉄は熱いうちに打て」「逃がした魚は泳いでる?(意味が違うか?)」ともいう。知的に愉快に過ごしたシアトルでの数日間で、僕が感じたことを、それが忘却のかなたに消え去る前に、ここに記しておきたいと思う。 シアトルでは、NECC2003という全米の教師13000人以上が集まる国際会議に出席した。この学会、ISTEという組織が運営しており、今年で。現場の教員だけでなく、行政関係者、企業関係者などがたーくさん参加している。本当にすごい人だ。会場は、時に一種のお祭りみたいな興奮状態になることもある。
NECC2003は日本ではあまり知られていない学会かもしれない。どちらかといえば、現場指向が強い学会があるため、日本から大学関係者があまり参加しないせいだと思われる。しかし、NECC2003は、研究を指向する者が参加しても、とってもオモシロイ学会だと思う。もちろん、別に、頼まれたたり、脅されたりされたからそういっているわけではなく、本当にそう思う。
確かに研究者が主体の学会ではないから、発表自体に緻密な仮説や検証が必ずしも含まれているわけではない。しかし、だからこそ「大胆」に、いい意味で「極端」に、かつ「素朴」に、今、アメリカの教育の現場で何が問題になっており、何が求められているのか、アメリカの教育がどの方向に進もうとしているのかが、鮮明にわかる。いや、会場の興奮の様子から、おのずと感じることができるのだ。アメリカの教育業界の動向の最先端を感じることができると思う。 この学会には、エキシビジョンも同時開催される。エキシビジョンでは全米の民間教育関連企業が集結するといっても過言ではないと思う。全米の民間企業がこの会議中に様々な新たな教育サービスのプレスリリースを発表し、プレゼンテーションを行う。エキシビジョン会場は、幕張メッセのような会場で、熱心に見て回るとそれだけで1日はかかってしまうだろう。残念ながら、日本からの企業の参加は、まだあまり多くないようだが、すでに先進的ないくつかの企業は、この学会をベンチマークにしようとしているとも聞いた。来年のNECC2004は、ニューオリンズで6月21日から開催される。
ところで、毎年1度、この学会に日本の小中学校の現場の先生を送り込み、英語でプレゼンテーションをさせるというNPO的活動を5年にわたって続けている今野絵里子さんという方がいる。今野さんは、NECCという組織をオーガナイズし、この活動を続けてきた。もちろん、活動は、今野さんのほか、日本語ベラベラのスペンス君、英語の発音と振り付けを先生方に指導してくれる山崎さんなど、たくさんのスタッフによって支えられている。
今年の発表者は、和歌山県熊野川町立熊野川小学校の山中昭岳先生と、大阪市立生魂小学校の中島清貴先生であった。山中先生は、テレビ会議を用いた交流学習について、中嶋先生はFLASHアニメーションをつかった逆上がりの指導についてのプレゼンだった。お二人は、国内のコンペティションに勝ち残り、NECAで発表なさった。会場は笑いとうなずきがたえず、非常にステキな発表であった。その詳細は、NECCのサイトでごらんいただきたい。
ところで、今回僕がこの学会に参加できたのは、今野さんから機会をいただいたからだ。日本からのICT教育の現状を短くブリーフィングすること、二人の現場の先生を聴衆に紹介すること、二人の現場の先生方のプレゼンテーションをブラッシュアップする活動に参加すること、が僕の役目だった。いずれも、身に余る大役ではあったが、何とかかんとかつとめさせて頂くことができた。今、正直ホッとしている。 NECAでは、自分たちの発表のみならず、同時に開催されているエキシビジョン、様々なシンポジウムに参加させて頂いた。以下、そこで僕が感じた感想を述べる。 ■すべてはNo Child Left Behind (NCLB)のもとに 何をさしおいても、現在の、アメリカの教育界を語る上で、この言葉だけははずせない。日本語にすれば、「落ちこぼれゼロ政策」みたいな感じになるんだろうか。
すべての教育政策、教育財政、教育産業の提供する教育サービス、実践が、このNCLBを前提として戦略的に実行にうつされようとしている。NECAで知り合った現場の教師の一人に本音を聞いたところ、「NCLBがでた当時は、具体策が見えずとまどっていたようだが、ようやく、具体的になってきた。ただし、本当に自分の学校でそれができるのか、不安だ」とのことであった。
■No Child Left Behindとは? それではNo Child Left Behindとは具体的にどのような政策なのか?
アメリカ教育省のプレゼンテーションでは、NCLBの方針のもとに実行される様々な教育プランについて紹介がなされた。その中で特に現在のアメリカの教育界の動向を代表しているなーと思うものを紹介する。
■肥大化するアセスメント産業 こうした国の方針を受けて、民間の教育産業では、アセスメント支援サービス・アカウンタビリティ支援サービスなどが肥大化している。NECC2003では、ちょうど日本のe-learning
worldの2倍くらいの規模でExibisionが開催されているが、民間企業のブースでは、「Assesment drives instruction」「Assenment
support」などの言葉を、頻繁に目にした。
ちょっと前のことになるが、知り合いの米国大学の先生にこんな話を聞いたことがある。
要するに、教育産業の提供可能な有力なサービスとして、評価とかテストが注目されており、その専門性をもった人が優遇される事態が生まれているっていうことなんだろう。
■教師の専門性発達 Exisibionにおいて「アセスメント」に並んで非常に特徴的だな、と思ったブースとしては、教師の専門性発達(Professional Development)のブースがある。NCLBでは、教師の質の向上も求められているが、それを大儀として「指導力をつけなアカンですよー」「ITのスキルがいりますよー」「学位をとりませんかー」というような宣伝文句をかかげる企業が多く見受けられた。もちろん、そうした教師の学習が行われる場として、Webなどが活用されることは、アタリマエのことである。 この傾向は、2003年6月に筆者が参加した、研究系の国際会議(ED-MEDIA)でも同様だった。ED-MEDIAでは、大学のある機関がそうしたサービスを行っていた。性格はやや異なるにせよ、官民、どちらが教師の学習を支援する担い手になるのか、非常に興味深い。
■教育はどこに向かうのか? この本の10章でガードナーは、1) アメリカの教育業界が人間の能力を画一的かつ脱文脈的にとらえており、2)過度のテスト主義に陥いっていると批判している。ガードナーはその当時主張されはじめだした状況的学習論の知見をいくつか引用した上で、「文脈の中で人間の多元的な能力を評価すること」の重要性を主張した。 この本の初版が出版されたのが、1993年。それから10年後、どうもアメリカの教育は彼の期待を全く裏切るかたちで、ちょうど、この本の主張と全く反対の方向へ、狂進しているように筆者には見受けられる。 現在のアメリカの教育、さしずめこんな風にも説明できるであろうか。 人間の能力=学力であり、それは「商品」と同じようなものである。学校とは「工場」である。工場長(校長)は、これまでよりも自由な裁量のもとで工場の生産性をあげるため、経営に専念する。生産性をあげるためには、科学的な根拠をもったプログラム、運営をどんどんと工場に導入する必要がある。また、従業員(教師)の教育水準も向上させる必要がある。間違っても、工場を、勘や経験によって経営してはならないし、授業員の怠惰を許してはならない。非科学的であることは、工場の評価をさげ、ひいては、親会社(連邦政府)からあたえられる工場の資本を減少させる。科学的な方法は、親会社からノウハウとして提供される。 工場は、常に評価の目に支えられている。評価はすべての商品に対して年に1度は行われる。評価の結果がわるければ、工場は改善を求められる。あまりにひどい場合には、従業員の異動も考えられるし、工場の資本のもうひとつの担い手である株主(親)から見放される危険がある。株主は、商品ひとつにつき、一年間で7000ドルを工場に基本的に投資している。株主にも見放され、それでも改善ができなかった工場のたどる末路・・・それは授業員の総入れ替えからなる徹底的なリストラクチャリングと、民間資本への委譲である。 このように、アメリカの教育は「合理主義」「科学主義」「市場原理の導入」といういくつかの原理原則のもと、改革が進行している。その勢いは少なくとも、今回のNECC2003で見た限りは、実践的に可能な方向で、より具体的に具体的に進行しているように感じた。 日本では「総合的な学習の時間」が本格的に実施されるようになったが、一方でそうしたカリキュラムに意義がはやくも唱えられ、「基礎基本」の必要性が叫ばれるという奇妙な混乱状態が続いている。日本の教育が今後どのような方向に進むのか、あるいは、方向を見定めぬまま、すべてはカオスの中にありつづけるのか、本格的に考える必要があるように思った。 そうなんだ、僕らは岐路のまっただ中にいる。 |