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1. What is a Learning Environment ?
「学習環境(Learning Environment)」とは一体何を意味するのでしょうか。実は、この問いは一見簡単なようで一番難しい問いのひとつです。なぜなら、「学習環境(Learning Environment)」とは実体のないいわば「虚数i」のようなことばであり、その語の使用は多義的な文脈に「開かれており」、その意味するところ、すなわちシニフィアンは、研究者の数だけ存在しているといってもよいくらいであるからです。 ただ、そうはいうものの、議論を進めるためには、「虚数i」のままにしておくことはできません。故に、本ページでは心理学史あるいは教育工学史的な観点から、「学習環境」という専門用語の由来を検証してみることにします。 心理学史・教育工学史の観点から「学習環境」という専門用語を調べてみますと、その由来は1980年代に隆盛をきわめ現在の学習論においてもその系譜の影響が見られる「構成主義(constructivism)」にいきつくことになります。 「構成主義」とはピアジェの発達研究をもとにした認識論のひとつであり、それまでの行動主義心理学が、学習を「刺激と反応の連合形成」という受動的な過程と把握したのを批判的に考察し、学習を、「学習主体」が能動的に「環境」にはたらきけ、それと相互作用することにより、学習者の頭の中の心的構造(シェマ)が変容することと捉えました。この変容を、「同化」と「調節」なんていうふうに呼びますが、ここでは詳細に触れることはいたしません。むしろ注目すべきは、学習における学習者の「能動性」それ自体を認めたことにあるのです。 さて、この「構成主義」の観点からすれば、学習を方向づけるのは、学習者の学習における「能動性」を確保することと、学習者の存在する「環境」ということになります。そして、この学習のために方向づけられた「環境」のことを、時の研究者たちは「学習環境」という概念であらわしたのです。 それでは、この学習する場を「学習環境」と把握することに何の新しさがあったのでしょうか。それを理解するためには、構成主義より前の行動主義心理学において、学習する場がどのように捉えられていたのかを理解する必要があります。 行動主義心理学における学習の場は、いわゆる「教授-学習モデル」というモデルであらわすことができます。「教授-学習モデル」は、有能な教授者が無能な学習者に情報を「伝達」し、学習者がそれに「反応」する。その反応をもとに、教授者が反応の善悪を「評価」し、学習者にその「評価」を情報としてフィードバックするというモデルでした。また、教授者と学習者の間には、教育メディアというものが存在しており、両者からの情報の伝達を「効率化」し、効果を「増幅」させるものとしての役割があたえられていました。誤解をおそれずにいうのなら、これが「教授-学習モデル」ということになります。 さて、この「教授-学習モデル」と「学習環境」という概念、両者ともに「学習が生起させる場」をあらわしているのですが、それでは決定的に異なっている点は何なのでしょうか。それは以下のようにまとめることもできると思います。
上記のようなことが決定的に違うと思うのですが、これらの違いに、近年の認知科学の知見をふまえて考察しますと、以下の命題が導き出せます。
つまり、「学習環境」という概念で、学習の生起する場をみつめた場合には、ある「意図」の反映した人工物、すなわちリソースに注目することが決定的に重要になってくるわけです。たとえば、ある先生がコンピュータのソフトウェアをつくったとします。その場合、そのソフトウェアは、学習を構成するリソースと考えて良いわけですが、その先生には、そのソフトウェアをつくって何かをしたい、という「意図」があるわけですし、またそのソフトウェアをつくるに至った彼の実践の「歴史的必然性」というのもあります。また、そのソフトは、単体で、ある学習活動をつくりだすことはまれなわけで、必ず、何か他のリソースと複雑にからみあって、ある学習活動を構成するわけです。 しかし、従来の「教授-学習モデル」においては、教授者の「意図」の問題や、「教育メディア」と「実践」歴史的な関係、また複数の「教育メディア」が協調するということ自体は無視されていたのです。 ここまでの知見をまとめますと、「学習環境」とは、「学習者が利用可能な、ある学習活動を構成するリソースの総体」ということであり、その場で利用可能なリソースを用いて、学習者は学習活動を構成することができるということになります。 |
2. What is Ethnography ?
さて、次にエスノグラフィーということについて概観したいと思います。エスノグラフィーとは、通常二つの意味があります。第一に、「フィールドワークの結果をまとめたモノグラフ(調査書)」という意味と、第二に、「フィールドワークという調査の方法、或いは、その調査の全プロセス」という意味です。これら語の定義は、研究者によってその意味するところが微妙に異なりますが、このページでは、「エスノグラフィー」という用語を後者の意味するものとして使用します。 それでは、認知科学あるいは教育工学の研究において、エスノグラフィーがなぜ注目されるにいたったのか、その経緯を簡単にふりかえってみましょう。 近年、教育関連諸科学では、研究者が、研究対象に所与の仮説を持ち込み、その検証を行うという、いわゆる「仮説検証型・量的研究」とは異なり、研究者が研究対象に己の身体を投企し、データを収集し、収集したデーターの中から仮説を生成するという「仮説生成型・質的研究」が主張されています。そして、この動向は、認知科学や教育工学においてもまさに同じ事です。要するに、研究対象の世界に研究者がとびこんでいって、そこで起こった出来事や活動や体験が、そこに生きている人々にとって、どういう意味をもっているのかをさぐりつつ、彼らのいきる世界を記述し、分析し、理解していこうという研究が盛んになっているということです。 ところで、一般に教育工学の研究プロセスは、既存のシステムを分析し、それらを改善したり、新しいシステムの新規に開発するなどの「変革(innovation)」のプロセスとそうした「変革」のプロセスによってもたらされた実践結果を「評価」するプロセスという二つのサブプロセスから成立しています。より具体的に言及するならば、「変革」のプロセスとは、学習材やカリキュラムや教授法の開発などを含む「現実化していない人工物創造のプロセス」であり、後者のプロセスでは、そうした「現実化した人工物が現場でいかに作用するか」を分析し、評価すると言うことをさしています。もちろん、実際の教育工学の研究において、二つのサブプロセスの現実は、相互に補完的であることは言うまでもないことです。 「評価」のプロセス考察するに際して、Bruceという研究者の議論が参考になります。Bruceらは、開発者が自ら設計した「変革」によって意図している実践の結果を「理想(idealization)」とし、開発者が設計した「変革」が特定の社会的設定の中で導く実践によって起こる「現実(realization)」と区別することが大切であることを述べます。「理想」とは想像上のシステムであり、「現実」とは「変革」が持ち込まれた後起こる社会な実践を意味します。「理想」は開発者の意図であり希望であり想像であるが故に、必ずしも「現実」とは一致しないのです。しかし、システムの「評価技法」としてこれまで多くの研究に用いられてきた「形成的評価(formative Evaluation)」あるいは「総括的評価(Summative Evaluation)」は、いわばこの「理想」を評価したのであって、「現実」を評価したのではないとBruceらは述べるのです。評価研究とは、あくまで「変革」が複雑な社会システムの中に組み入れられ、社会システムが変容していく過程、すなわちその「変革」がそこにいきる人々にとって、どういう意味があって、どういう変化をあたえることになるかを観察しなければならないのですね。そして、ある「変革」が社会的な実践を導いていく過程、「現実化の過程(realization process)」を考察するための評価方法論として、Bruceらが採用したのは、「状況に埋め込まれた評価(situated evaluation)」でした。 「状況に埋め込まれた評価」とは、開発されたある「変革」がいかに現実の場で作用・機能するのかを、現実の場に居合わせる様々な人々の実践を子細に観察し、彼らにとっての「変革」の意味をさぐることで明らかにしようとする評価方法のひとつです。その方法のひとつとして先のエスノグラフィーを位置づけることができます。 ここで、圧倒的に重要なのは、「評価」はあくまでも「変革」がまさにおきつつあるその場にいあわせる人々に「とって」の「意味」を中心に構成されなければならない主張ということになります。 それでは、「その場にいあわせる人々」に「とって」の「意味」を中心にエスノグラフィを書くためには、どういう「記述」を行えばそれが可能になるのでしょうか。そこで、筆者が採用しているのが、学習環境に存在する人々の「語り」と、その場で実際におこった「出来事の記述」を縦糸と横糸にしたエスノグラフィーなのです。 それはレトリカルにいうのなら、人々の「語り」を縦糸に、筆者が観察した「出来事」を横糸にしたテクスト空間として位置づけられます。その際に、筆者は「対話」によって、「語り」を生み出すことを支援し、また出来事を観察し、記述することを行うのです。これではちょっと抽象的ですので、具体的な事例をあげて筆者のエスノグラフィーを説明しましょう。 たとえば、あるAという先生が、Bという新しい実践をおこなうとします。その際に、筆者は、Bという実践をうみだす背景になった先生Aの教育的信念を「語って」もらいます。また、Bという実践の学習環境を、どのようにAが構成していったのかを、「語って」もらうわけです。それらの「語り」は、多くの場合、構造化されない面接のかたちで行われるでしょう。もちろん、それらの「語り」は、すべて記録されます。記録と言っても、いわゆる問い-答えのように構造化された記録法をもっているわけではありません。自然な「対話」の中から、そのA先生がBという実践をうみだしていく過程を解釈し、記述していくのです。もちろん、Bという実践が行われるときは、筆者は、その場に参与し、そこでどういう出来事がおこったのか、どういう学習者がいて、どのように活動していたのか、またBを構成するリソースが、学習者の活動にどのような影響を与えていたのかを記述していきます。こうして、「語り」のデータと「出来事」のデータが、記述され、蓄積されるわけですが、筆者はこれに根ざして、ひとつのテクスト(フィールドノーツ)を生み出していきます。それらのノーツは蓄積され、次回の実践を解釈したり、先生との対話をうながすための資源になるのです。 もちろん、筆者が採用する「語り」と「出来事」によってテクストを編むという記述様式の他にも、研究者によって様々な記述様式が存在します。たとえば、授業設計論(Instructional Design)的な系譜によって、学習環境を記述しようとする人々は、教えたい内容(ある認知活動)を「行動目標化」し、それに必要な学習材の関係を「マトリクス」のかたちで表現したりすることもあります。また同じくデザインにおける「教師の意図」を問題にしつつも、その「意図」を実践者の「語り」から抽出するのではなく、研究者の「客観的な観察」によって類推可能であるとする人々もいます。こうした研究方法論上の差異は、ほとんどの場合、「環境を記述するために何が必要か」あるいは「研究者がなすべき仕事は何か」という問いに対して、研究者によって無数の価値前提が存在していることに起因しているようです。前者の「マトリクス(matrix)」の記述様式を採用する研究者は、そのような簡便なマトリクスを表現することが、教師のデザインを支援するための一番のリソースになるハズであると信じていますし、「客観的な観察」で「意図」を類推可能であると判断する人々は、研究者の「経験」と「解釈」というパラダイムに絶対の信頼をおいているということになるのです。 少し話が脱線したので、話を戻しましょう。先に、エスノグラフィーを書く際、筆者は「語り」と「出来事」によってテクストを編むという記述様式を採用すると述べました。それでは、このようにして生み出され、蓄積されたテクストはどのような特徴をもっているでしょうか。それは第一に、「変革」がいかに現実の場で作用・機能するのか、すなわちそこに居合わせる人々にとっての「出来事」の意味を記述しているという点において、まさに実践の「中」の「現実」の「評価」です。また、第二に、それが教師の信念や意図を教師が意味づけるままに「語り」として記述しているという点において、「対話」による実践者の「声(voice)」が反映しています。「声」とは、この場合、「フィールドノーツにおける記述の中で引用される特定の人物の話し方の特徴やその人特有のものの見方」のことを指示する概念であり、「声」が反映したエスノグラフィーとは、実践者からの「視点」からものを描き出すことを、目的のひとつにしているエスノグラフィーということになります。そして、第三にこれらの二つの糸が縦横無尽に、首尾一貫したかたちで編み直されているという点において、それはある実践の「物語」なのです。 それではなぜ、「実践の中の評価」・「実践者の声の反映」・「物語性」という3つの特徴を有するエスノグラフィーが妥当なものといえるのでしょうか?次にこの点を考えてみたいと思います。 |
3. How Does Ethnography help teacher design Learning Environment ?
「語り」と「出来事」を縦糸・横糸にし、研究者と実践の「対話」と研究者自身による「観察」に生み出されるエスノグラフィー、先に、それらのエスノグラフィーは、「実践の中の評価」・「事例的研究」・「物語性」という3つの特徴をもつことを述べました。それでは、これらの特徴をもつエスノグラフィーを我々が採用することが妥当なことといえるのでしょうか。本節では、それについて考えてみたいと思います。 これまでの教育工学は、佐藤(佐藤、1996)がいみじくも批判するように「研究-開発-普及モデル」というモデルのもとに開発がおこなわれてきた経緯があります。「研究-開発-普及モデル」とは、開発機関を主体とし、教室を教師による実施と普及の場とするカリキュラム開発の基本的様式のことをいいます。つまり「研究-開発-普及モデル」において、教師は、研究者によってすでに開発されたプログラムや教材を「implement」する存在として位置づけられていたわけですね。開発されたものに従って、あたかもプログラムを実行するインタプリタのように、教師の営みはとらえられてきたというのです。佐藤は、このモデルに対して、以下のような問題点をあげています。
筆者が佐藤のこの主張を最初に目にしたのは、学部の3年のころでしたが、当時、開発研究を志していた筆者にとって、この主張は、非常に耳が痛い経験でした。ここで主張されていることのすべては、第一に、「開発されたもの」が実際に機能する場、その場におこった出来事を、学習者の視点から考察することの重要性です(1.4.5.)。様々な人々が交差し、コミュニケーションを営む教室は、開発システムにのみかかわる人々には想像もつかないほど、複雑な諸要因がいりくんで、その場の活動や出来事が組織されています。それは5でのべるような潜在的カリキュラムの問題であったり、そこに居合わせる人々の権力関係であったりするわけです。筆者が採用するエスノグラフィーが「実際におこった出来事」をもとに「実践の中での評価」を問題にするのもそうした理由によります。 第二に、2や3の問題というのは、カリキュラム開発の主体が教師にはないことを問題にしています。すなわち、ここで批判されているのは、カリキュラム開発に際しての教師の「意図」の問題なのです。かつての「研究-開発-普及モデル」では、教師は、パッケージ化された教材をimplementする存在として捉えられてきたので、「意図」の問題は不問にふされていたわけです。筆者のエスノグラフィーが、教師の意図や信念の「語り」を問題にし、それを「声」という概念で把握し、記述に実践者その人の「声」を響かせることを目的にしているのは、「意図」の不在という問題を解消するための方法論上の工夫ということになります。 それでは、最後のエスノグラフィーの特徴である「物語性」ですが、これはどうして妥当な記述様式と言えるのでしょうか。それは、近年の教師研究の知見に根ざしているのです。 近年の教師の「発達」をめぐる研究の多くは、教師の技量の発達が、「物語」や「事例」をもとに支援されることを明らかにしてきました。それまで行われてきた講義や構造化された指導案の書き方など、いわばトップダウン的に教師を「啓発」し、短期的に教師の技量や発達を促進しようとすることに限界が主張されているのです。むしろ、教師の発達は、教師が日々どのような活動を行い、それをどのように対処しているかなどを「物語」や「事例」のかたちで表現し、それを「協同的」に批評することで、教師の実践的知識がふかまり、専門性の向上につながる、そのようなことがとみに主張されるようになったのです。トップダウンによるプログラムで、教師の発達を支援しようとしてきた従来のパラダイムが見落としてきたもの、それは教師の日々のルーティンワークが、決して前もってプランをたてられるように構造化されておらず、即興的な複雑な意志決定を含んでいることでした。教師の仕事が、決して前もってたてられたプランを十全に実行するようなものではなく、むしろ、それを「リソース」にして、そのつどそのつど状況に応じて、ad hocに意志決定を行うものであるとした場合、それを支援しうるのは、他の教師、または自分の教えるという営みが、どのように即興的に組み立てられているのかを、事例的に、物語として表現されているという事になります。筆者の採用するエスノグラフィーは、教師の実践的知識を豊かにすることを念頭に「物語性」を重視しているのです。 |
4. The Next Step
これまで、「学習環境のデザイン」と「エスノグラフィー」をむすびつける「Phase ・」の理論について概観してきました。最後に、この理論に従うならば、研究する人間は、どのように研究対象に向かえばよいのかを、考察します。 これまで述べてきたように、この理論にしたがって研究対象にアプローチする場合、研究者は以下の仕事を積極的にすすめる必要があるように思います。
この場合、もはや研究する<わたし>は、もはや実践とは無関係のない「外」に「完全なる観察者」として位置することはできません。積極的に観察対象にかかわり、教師の「対話」のリソースとして組み込まれるという点において、もはや研究者も学習環境の一部に再社会化(re-socialization)されることになるのです。この意味で、「実践者」と「研究者」という古の「二分法」は意味をなさなくなります。そう、研究する<わたし>は、もはや学習環境のリソースのひとつであり、「研究者」であり、「実践者」なのです。 |
5. Reference
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