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先日、ある小学校の障害児学級の研究授業に参加させていただいた。「個に応じた授業」と銘打たれたその研究授業は、8人の子どもたちに対して、7人の先生・介助員の方がついて、それぞれの子どもに「応じた」国語の課題を「支援」するというものだった。今回は、その研究授業で筆者が非常に疑問を感じたことから話を進めたいと思う。 疑問といっても、それほど大それたことではない。ただ、そのときの先生・介助員の方々が、子どもを「支援」する際に、何気なく選びとった「身体」についてのことである。ある先生は、子どもの「うしろ」から多い被さるようにして、子どもの鉛筆を自分もにぎり「支援」していた。また、ある先生は、子どもの机の「前」に 陣取り、子どもの演習している問題を「支援」していた。また、ある介助員は、子どもの「横」にすわり何気なく子どもの様子を観察し、「支援」していた。 さて、ここで注目しなければならないのは、同じ「支援」といっても、先生が必然的に選びとった「身体」にはこれほどまでの差があることである。 後ろから多い被さっていた先生の「身体」は、子どもがやる気を失って、だだをこねるのを「覆い隠す」かのごとく、彼を「支援」していた。また、机の前で子どもの「間違い」を指摘する先生の「身体」は、あたかもティーチングマシンのように、子どもの間違いを「断罪」し、それに対する質問を許さないかのごとく彼を「支援」していた。そして、子どもの横にすわった介助員の身体は、あたかも「友人」のごとく機能し、時に「笑いのおこる会話」をさしはさみつつ、子どもを「支援」していた。 さて、これだけ異なった「支援」を目にした今、僕は「支援する」ということの意味が全く分からなくなってしまった。最近、教育現場では「指導」という言葉が忌避され、それまで「指導」という言葉であらわされていたことが、すべて「支援」に置き換えられているという現実がある。 「支援すること」って一体なんですか? |