Essay From Lab : 小ボケと正統的周辺参加(LPP)

「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Partcipation): LPP」という「学習理論」がある。この正統的周辺参加を「理論的」に「詳細」に紹介するのは、僕の力量を超えているので、それは差し控えるが、簡潔にいうならば、学習をある「文化的実践(cultural practice)」への「参加」ととらえることで、従来「個人の頭の中」の「情報処理」に限定されていた、「人間の学習」を「コミニュティにおいて価値があると考えられる技量の学習」・「コミニュティにおける自己認知(関与の度合い)」・「コミニュティにおけるアイデンティティ形成」の3つを統合したものととらえている。簡単にいうならば、何かの「実践」を共有する「集団」が仮にあったとして、そこに新参者として参加する者は、その中で「あるワザ」を会得し、だんだんと「集団」の「周辺」から「中心」に至る過程で、「自分のアイデンティティ」を形成していくということだ。

よく誤解されていることだが、LPPの「文化的実践」というのは、別に「堅苦しいこと」ではない。僕の理解に関する限り、「文化的」というのは、「社会・集団から価値のあると認められているモノ」なら何でもよい。また、これも誤解であるが、「集団」といっても、それは「所与」のものでなくてもよいわけで、人々が瞬間瞬間に構築しうる「社会的構造感」に派生するモノなら、何でもよい。また、LPPには「よいLPP」も「悪いLPP」もない。実践あるところに必ず「社会的に価値あるワザの学習」と「アイデンティティの形成」は生まれる。極端な話、犯罪者集団における学習もLPPなのだ。また、LPPは「How to モノ」の「処方(prescription)」ではない。それは、「学習をどう見るか」という「視座(perspective)」である。また蛇足ながら、つけ加えるならば、LPPは決して「周辺的参加」から「十全的参加」に至る「linerな学習過程」ではない。そこには、古参者と新参者のディレンマなど、様々な「矛盾」と「葛藤」が含まれている。また、「コミュニティ」という概念にも注意が必要である。「コミュニティ」は決して、ひとつの社会的価値や社会的に構成された意味-すなわちひとつのコンテキストを十全に共有するメンバーからなる、可視あるいは不可視の集団ではない。それは、ときに様々なcontextを含み、学習は、そのcontextを越境して成立する。

さて、具体的に例をあげて説明しよう。適当な例としては、僕の来年の生活はまさにLPPであることが予想されているので、それを取り上げることにしよう。実は、僕は来年から大阪大学の大学院に進学することがすでに決まっている。9月に大学院の試験があって、運良くパスすることができた。

しかし、何にも不安がないわけではない。最大の不安として、ボケ・ツッコミがある。僕は北海道生まれなので、上京したときも東京弁=標準語という奴には、非常に悩まされた経験をもっている。しかし、北海道弁は、きわめて東京弁と似ているが、ボケ・ツッコミは北海道にも東京にもない!!

僕は、おそらく、大阪にいって、意識的か無意識的かはわからないが、大阪で価値のあるとされている会話形態=ボケ・ツッコミを試行錯誤を通して獲得していくだろう。生粋の大阪人たちの繰り広げる「華麗なボケ・ツッコミ」をお手本にして、「彼らみたいなりたい」という気持ちを胸に抱きつつ、僕は生活して行くのだろう。はじめて自らボケ・ツッコミができたその時は、恐らく「自分も大阪人になりつつあるのだ」という「アイデンティティ」を形成するに違いない。そして、さらに年月がたてば、僕は「コボケ」も「ヒトリ・ボケ・ツッコミ」も「ボケボケボケ・ツッコミ」もできるようになるに違いない。その時、僕は自分を「一人前の大阪人」と認知するのだろう。そこに至る道は、非常に険しい。時には、生粋の大阪人に葛藤を覚えたりするのかもしれない。しかし、それでも、僕は学んでいくのであろう、時にLPPの「すさまじさ」に時におののき、時にはげまされながら。

Appendix.

本稿は、1997年12月当時に執筆されたものであり、現在の筆者の状況と一部違っている箇所が存在します。

◎LPPについての参考文献

・Lave & Wenger 1991. Situated Learning -Legitimate Peripheral Partcipatipn-. Cambridge Uiversity Press. 佐伯ゆたか(訳) 1993. 「状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加」(産業図書)

また、Sfardは、従来の情報処理アプローチによる学習論と、情報的認知アプローチによる学習論を整理して、前者を「Acquisition Metaphor」、後者を「Participation Metaphor」とするメタファ論を展開しました。詳細は、以下の文献を参照下さい。

・Sfard, A. 1998 On two metaphors for learning and the dangers of choosing just one. Educational Researcher, vol. 27, 4-13.


NAKAHARA, Jun
All Right Reserved 1996-