Essay From Lab : 「あそび」にナニがおこったか?

「あそび」とは多義的な(ambiguous)語である。

世は失楽園ブームだそうだが、有史以来、男女が繰り広げてきたこの種の「かけひき」も「あそび」であり、ボルトとナットの間の「ゆるさ」も「あそび」である。今日のお題は「あそびにナニがおこったか?」であるが 、僕が問題にしたいのは、残念ながらその手の「あそび」ではなく、こどもの「あそび」についてである。

painted by Yukiyo

とはいっても、何も、子どものあそびがいわゆる「外でのあそび」から、テレヴィゲームなどの「家の中での遊び」に変化したとかいう「ステレオタイプ的議論」をここで展開したいわけではない。僕が問題にしたいこと、それは、他ならぬ子どもたちが「どういう行為」を「あそび」と認定するかという一見トリヴィアルな問題である。

このことを、僕が問わざるを得なくなったのには、実は理由がある。それは、都内の小学校でフィールド調査をしているAさんが、こんな話をしてくれたことによる。

『今の子どもの「あそび」っておもしろいよね。だって、私たちが子どもの時って、外で遊ぶときであれ、家の中で遊ぶときであれ、とにかく、子供同士、ある一つの活動に夢中になっていたわけじゃない。だけど、今の子どもって、一緒に遊ぼうっていっても、同じ活動を共有したがらないんだよね。たとえば、誰々ちゃんのうちで遊ぶって言って、子どもがあつまるでしょ。でも、ある子は漫画をよんでいて、ある子はポケモンしていて、ある子はプレステしていて、要するに、みんなバラバラなんだよね。』

Aさんの言いたかったことは、要するにこういうことである。かつて、私たちが子どもだった頃の「あそび」というのは、どんな活動であれ、それを子供同士で共有していた。しかし、今の子どもが使う「あそび」という言葉には、そのような「活動の共有」がおこることは希であり、「場の共有」しか起こり得ない。つまり、子どもの使う「あそび」という言葉の意味が、「活動の共有」から「場の共有」という具合に、微妙にズレが生じているというのである。かつて「人のうちに来て、ファミコンするヤツとマンガ読むヤツは嫌われる」という常套句があったが、それらは、今や死語である。

もちろん、この観察は非常にlocalなものであって、それを手放しで一般化することはできない。もしかしたら、こういう「意味の変化」は都会に特有の現象かもしれないし、たまたまAさんが観察した地域の「特殊」なのかもしれない。しかし、我々はともすれば、子どもの「あそび」の「種類」の「変化」に気をとらわれがちで、「あそび」という言葉の「意味」の「変化」には疎いのではないだろうか?

このことを考えるためには、様々な人々の観察の蓄積が必要である。この文章を読んでいるみなさん、みなさんの周りの子どもたちは、「あそんで」いますか?まずは、それをご報告ください。


NAKAHARA, Jun
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