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1999/12/02 京都への旅 修論リライト宣言をしてから、数日がたった。そのあいだ遊んでいたわけじゃなくって、毎日毎日朝がくるまで修論を書いていた。誰もいない静かすぎる6畳の部屋でひとりコンピュータにむかっていると、本当にいろんなことを考える。邪念じゃないんだけど、そういう心に移りゆく「よしなしごと」を、とりあえず棚においておいて、やっぱり、それでも、論文を書く。おかげで、コーヒーとタバコの消費量が5倍になっちゃったけど、峠をひとつこえたかなぁって気はしている。健康に悪い。
先日、京都にいってきた。静岡県の現役の高校の先生で、今年は京都大学に研修員として内地留学している鈴木さんにお会いするのが目的だった。鈴木さんと僕の密かな文通がはじまったのが、今年の春のこと。エスノグラフィや状況的認知の話で結構盛り上がっていた。鈴木さんは、内地留学中、エスノグラフィーを方法論にして研究をすすめるのだという話だった。でも、今回お会いするまで、やりとりしていたのはネットワーク上で、一度もお会いしたことのない方だった。どんな方なのかなぁと思って、ちょっと不安だったりした。 エスノグラフィーを書く人に悪い人はいない。僕だけが例外という、なんとも笑えない話もあるが、鈴木さんは、本当に誠実な方だった。京都大学や、JRの「京都に行こう」のCMで使われた法然寺、銀閣寺を案内していただいた。晩秋の京都はかなりいいかんじでした。おまけにおみやげをいただいたり、ごちそうまでしていただいて、本当に申し訳なく思っています。懲役100年です。 鈴木さんの今年の研究は、ここで大きな声を出して言えないが、僕は正直に感服した。これは別に懲役100年がついたから言っているのでは断じてない。僕はその手の社交辞令が何とも苦手だ。鈴木さんのデータコレクションの真摯さ、問題関心の明確さ、その社会的意義。どれをとっても本当に緻密でいて、大胆だ。おまけに夕ご飯では、人生にかかわる貴重な話が聞けた。尊敬する人がまたひとり増えたなぁと心から思った。 晩秋の京都、初冬の京都。短かったけれど、本当によい旅だった。僕も修論をきちんと仕上げなくては。税金泥棒って言われちゃうぞ。
1999/12/2 矛盾と葛藤だらけの<世の中>に いつかどこかで、こんな話を読んだ。 今、一組の男と女がいる。彼らは、バーのカウンターで煙をくゆらせ、互いの目をあわせることなくコップに残り少なくなったバーボンを飲んでいる。そんなときのタバコの煙を「紫の煙」というのかどうかは、そんな経験のない僕にはわからない。彼らの背後には、時代遅れのオールディーズが流れている。オールディーズを「時代おくれ」と指摘することが、この場合、トートロジー(同語反復)になっていることは、今、問題とはならない。 女「あなたは、自分の半分だけを他人にあずけて生きていった方がいいわ」 この物語をいつ読んだのかは、全く記憶にない。それに、この会話の意味が、その当時の僕に理解できたはずはない。が、このたった4行の会話は、なぜか、僕の心の中にずっと生き続けていた。意味がわからない言葉でも、人間は潜在的に記憶できるものなのか。この4行の会話を思い出したのは、ついこのあいだ、それとは全く関係のない認知科学の英語の文献を読んでいたときだった。その文献にいわく、おおよそ、人間の活動は、活動システムとよばれる6つの構成要素からなるシステムで把握することができ、そのシステムの発達と質的転換は、システムを構成する要素間の矛盾や葛藤が起源になるという。その筋の人には殴られそうな解釈をすれば、「あるモノの発達や質的転換には、それをささえるシステムの矛盾や葛藤が必要である」ということになる。 世の中はどうもそういうものらしい。
1999/12/6 フキュウするということの意味 一応、修論が書けました。とはいっても、近いうちに富山にいって、先生からデータを集めなければ、これ以上は、書けないよーだ、というところまで書いたということです。残り、1章と1節。最後の一章は、グリコ的にいえば、オマケみたいなものなので、いよいよ佳境にはいっているということです。 さて、今、ビジネスホテルの一室で、これを書いているわけですが、僕はどうもホテルにくると、思考がさえてしまうんです。貧乏性なので、いやいや、実際に貧乏なのですが、覚醒しちゃって全然眠れません。有料放送をみると、余計に寝れなくなってしまいそうだし、なにより、朝のフロントでの精算が恥ずかしいので、やめておきます。ということで、僕が最近考えていることを、またつれづれなるままに書きましょう。 僕が最近考えているのは、「普及」という問題です。英語でいうならば、「spread」とか「popularization」とかいうのかな。別に英語にする必要はないんだけど、あぁ、貧乏性だね、英語にしちゃいたくなっちゃうってーの。すみません、もうやめます。 さて、この「普及」なのですが、どうして、僕がこの問題を考えるのかっていうと、研究発表などをすると、よく会場から指摘を受けるからです。このあいだの岡山での研究発表のときも、以下のような指摘をいただきました。 「ご発表興味深く拝聴しました。で、ひとつ質問なのですが、このご研究が、中原さんの手を放れて多くの方々に普及するとき、このヤリカタで、普及がはたせるでしょうか。」 要するに、一番に言いたいことは、「そのヤリカタで多くの人々が使えるようなシステムとして普及できますか?」ということです。で、そのとき、僕はなんといったかというと、以下のとおりです。 「あくまで私見ですが、僕らの研究のような教師の学習共同体の普及を考える際、顔もしらない学習者が参加するようなネットワークシステムというのが、僕はそもそも頭にイメージできません。私見として、そういうカタチでの普及は不可能だとおもっています。このような共同体が草の根的にいくつもの地域で起こることが僕は理想だと思うし、それで多くの人々がかかわれるようになるなら、僕は、その路線での「普及」をめざしたいと思います。」 ここで問題になるのは、フキュウには少なくとも2種類あるということです。全国の人々が参加できるような統一的なシステムを構築し、均一にその利用可能性を高めるという意味でのフキュウと、草の根的な共同体への参加のアクセシビリティを確保・維持し、それを重層的にいくつも転回する意味でのフキュウ。前者を「システムとしてのフキュウ」、後者を「共同体としてのフキュウ」と名付けましょう。 ここでは、話が濃くなりすぎるので、これ以上の言及はさけますが、実は、この両者ともがメリットをもち、そしてデメリットをもっています。どちらがいいかは、僕の「私見」としては後者ですが、どうも、The Third Wayがあるようにも思っています。それが何かは、今の僕にはわかりません。 フキュウすること。そのフキュウにどのような形態があるのか、そろそろ考えていきたいと思っています。
1999/12/6 サイコなわたしの最近気になること 論文を書いているせいか、最近、以下のような、よく人が何かを語る場合の論法が気になって仕方がないです。サイコになっちまったのか?でも、この論法ってあり? 現代は○○な時代である。よって、我々は○○しなければならない。 なんか変だと思いませんか。「現代は○○な時代であっても、我々が○○しなければ道理はない」ってことだってありえるような気がしませんか。でも、この論法って、人を「ストン」と納得させちゃう論法ですよね。人を納得させることができればいいのかなぁ?
1999/12/14 悩みについての<悩み> 中原君は悩みがなさそうでいいねぇと言われることがある。人にはどうもそう見えるらしい。一応、そう言われたときは「そんなこともないですよ」と答えることにしているが、内心は、「悩みがないわけないじゃん」と思っている。研究のこと、人間関係のこと。前者にだって後者にだって、悩みなんて、死ぬほどある。特に僕の生活の大部分を支配する前者なんて「行き詰まること」だらけだ。井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」と言ったそうだが、僕に言わせれば、「悩みだけが人生だ」と言ってもいい。 僕の場合、悩みを抱えているときは、絶対にしゃべらない。何も語らない。自分の中で考えて考えて整理をつけたあとじゃなきゃ、語りたくない。もちろん、そうしても悩みが消化できるわけじゃないけれど、かえって煮詰まってしまうことはあるけれども、たまには飲んで飲んで忘れたくなることもあるけれど、僕は、自分の納得のいくまで考えた上で、そのときがくるまで、そのことを人に語りたくない。だから、僕が「あのときは、実はさぁ・・・」というときは、僕の中で、その悩みは去っている。だいたい悩みなんてものは、誰かに相談したり、告白したりするときには答えなんかでている。 僕は自分の抱える悩みについて、あるいは、人間という存在についてあるポリシーをもっている。何を若輩ものがと思うかもしれないが、僕が生きてきた24年間、ほんの短い24年間の歴史からみれば、そのポリシーは必然的であり、真実である。いつ崩れるかもわからぬそのポリシーをほんの短いセンテンスで要約するなら、「人間は、究極的かつ最終的には一人なのだ」というものだ。独我論(ソリプシズム)に酔っているわけじゃない。孤独にたそがれているわけでもない。なぜなら、同時に「一人ではいたくない」とも思うからだ。このアンビバレンツな気持ちを、ことばでうまく表象することはできそうにない。でも、本当にそう思っている。 今日は、なぜ、悩みを語らないのか、それを深く考える日だった。言い換えれば、悩みについて<悩む>日であった。この<悩み>については、全く自分の中で整理されていないから、多くは語らない。語ることなんて、そもそもできないのだ。なにが問題でそれをどうしてよいかわからぬのが悩みであり、本当に自分がそれについて悩んでいる限りは。
1999/12/15 音楽、JA○ゴメン Welcome to the Hotel California Last thing I remember イーグルスの名曲に「ホテル・カリフォルニア」という曲がある。 ギターの他にピアノを弾くと人に言ったら、結構、驚かれる。デリカシーのかけらもない「野武士」みたいな顔をしているので、意外なんだろう。でも、僕には、ショパンやリストを弾くスキルはない。ギターもそうだけど、僕のピアノは相当あやしい。黒鍵は可能な限り使わないことをよしとするからだ。黒鍵は面倒くさい。黒鍵を面倒くさいとかいっている僕は、やっぱり怪しい。 きっと音楽の才能はあんまりないのだと思う。結構、練習したこともあったけれど、結局ピアノも中途半端、ギターも「沼(友達の大沼くん)」には勝てなかった。ちょっとしたライヴなんかやったりした時期もあったけれど、それきりだ。大学にはいってから、あんまりピアノやギターを弾かなくなってしまったので、今の僕にできるのは、CMやドラマで使われている曲を「耳コピー」をして、それを適当に、ピアノやギターで弾くくらいだ。大学のスタジオでたまぁに弾いているのは、セブンイレブンやファミリーマートで小耳にはさんだ最近の歌謡曲を耳コピーしたものだ。それしかできない。 音楽というものを聞き始めたのは、ずいぶん、早い頃だと思う。うちの従兄弟がBeatlesに狂っていたので、その影響でBeatlesばかり聞いていた。結局、「横浜銀蠅」も聞かされることになったけど、あんまり好きにはなれなかった。第一に、意味がわからない。横浜に銀蠅がいて、だから、どうした? Oldiesといえば、ミスタードーナツだ。あんまり関係ないけれど、ミスタードーナツを「ミスド」と省略する男をに初めて出会ったのは、高校2年のときだった。びっくり仰天した。一番の親友で、今は、大蔵省の関連会社?あれっ、会社なわけないか、まぁ、「お上」のことは全く関心がないのでどうでもよい。とにかく今は、お金をあやつっている土田君だ。ミスタードーナツといいなさい。 朝起きたときに、一番に僕はCDをつける。最近では、フェイウォンの「夢中人」という曲がお気に入りだ。広東語だから、全然意味がわからない。歌詞はわからないし、寝起きだから声もでないんで、「ハヒホヒ」なんて曲にあわせてスキャットをしている。ユキサオリもびっくりだ。この曲も知っている人は多いと思う。フォン・カーウェイの「恋する惑星」の主題歌です。あとは、Quentin Tarantinoのオムニバスサントラにはいっているパルプフィクションのテーマを聞く。朝から濃いな。 最近は、コンピュータ上にMP3にCDを落として聞くことも多い。JA○の人には謝らなければならないのだけれども、飛行機のヘッドホンが、気づいたら、なぜかパンツの中にはいっていて、返そうと思ったけれど、パンツの中にありましたとは言えずにペチッてしまいました。勝新太郎?それをコンピュータにさしこんで、MP3を図書館などで聞いている。許してください、一番ボロそうなのでした。 最初はホテル・カリフォルニアからはじまって、最後は、なぜか、飛行機のヘッドホンと勝新太郎の話になっている。なんで、こんなことを告白してるんだ?
1999/12/17 ムテキング 高校時代と大学の学部時代は、ずいぶん飲んだものだ。旭川の「さんろく」で、札幌の「すすきの」で、渋谷の道玄坂で、本郷の白糸で。あのころは、浴びるほど飲んでも次の日に「酒カス」状態になることはなかった。1升くらいなら余裕だったし、学部時代などは、週に2回から3回飲みにいっていたけど、次の日は何事もなく平穏な日々を暮らしていた。ムテキングと呼ばれていた。
1999/12/18 CSCL'99 CSCLというコトバを聞いたのは、僕が学部3年の頃。CSCLの各種の文献、たとえば、CSCL'95のProceedingsやベライター&スカーダマリアのCSILEの文献を当時の助手の杉本さんから借りてきて、夢中で読んで全く眠れなくなってしまった日もずいぶんあった。僕の性格では、知的に興奮すると全く眠れなくなる。否、知的じゃなくても興奮すると眠れなくなるかな。 スタンフォードで行われていたCSCL'99が盛況のうちに終了したという。CSCL'97の2倍の参加者があったというから、本当に盛況だったのだろう。修論のために行けなかったが、CSCL2001だけは絶対に行くことを心に決めている。2年後が、今から待ち遠しい。 BASQUIATプロジェクトという新しいCSCLの開発がいよいよスタートした。中原、西森氏、杉本氏、浦島氏がプロジェクトのメンバーである。「役割」と「ボードシステム」をむすびつけた新しい同期型のCSCL。昨日は、ネットワーク関係の仮試験を杉本さんがやってくれた。全く問題がなかったとのことだったので、こないだのプロトコルとC/Sシステムの設計でうまくいくだろう。肩の荷が少し下りた。BASQUIATは、2000年1月の完成をめざして、今、急ピッチでプログラミングが進んでいる。僕らのCSCLがカタチになる日は、そう、遠い日の話なんかじゃない。
1999/12/19 あやちゃん、結婚、おめでとう その人の声を聞いたのは、3年ぶりだった。札幌からの突然の電話は、結婚の知らせだった。こないだあったのは、3年前の四谷で確か君の入社式のときだったかな。まぁ、連絡がないのは元気な証拠と思っていたけど、ホントに元気そうだった。 あやちゃん、結婚、おめでとう
1999/12/21 他者、あまりに他者的な
19の頃 先日、富山に向かう車の中、西森さんと演劇の話をしていた。こう書くと僕はいかにも演劇について少しは知っているように思わせてしまうのかもしれないが、実は僕は演劇を知らない。だから、「話をしていた」というよりも「教えてもらっていた」という方が日本語として正しい。 演劇界というものが仮にあるのだとして、そこに「のだひでき」とか「ひらたおりざ」という人がいたり、「ゴドーを待ちながら」という名作があったりすることは僕でも知っている。興味はあるから、本は少し読んでいたし、学部の同期に詳しい奴がいてずいぶんと教えてもらった。だけど、結局、学部時代、僕は演劇を見る機会を一度ももてなかった。否、正直に告白すると、敢えてそういう機会を持とうとはしなかったのだろう。よって僕は演劇を知らない。 それが演劇なのかどうかは僕にはわからないけれど、大学3年の頃、「たけうちとしはる」風の「からだのレッスン」という授業を夏の教育学部の集中講義で受講した。丁度、O-157が流行した年だった。なぜ、その年にO-157が流行したのかを僕が記憶しているのかはここでは恥ずかしいので述べない。 三四郎池の横にある道場で4日間にわたって集中講義は行われた。しかし、そこで繰り広げられた光景をすべて語ることは僕の記憶力を超越している。否、超越しているのは僕の記憶力ではなく、表現力だ。とにかく不思議な時間だった。 3人の人間が僕に背を向け3メートル先の畳の上に座っている。先生は僕に彼らのうち一人に「呼びかけろ」という。その際に、名前を呼ぶことは禁止されている。だから、「ねぇ」だとか「ちょっと」だとかって呼ぶ。先生は僕が呼びかけたあとに、前の3人に向かってこう問いかける。 「中原君が、自分のことを呼んでいるなぁって思う人は、今、手をあげてください。」 誰も手をあげない。続けて先生はいう。 「中原くんの声は前にいる3人のどの人にも届いていないみたいだね。声をだすとき、あなたは、前にいる3人の一人のことをアタマに思い浮かべた?きちんとアタマに思い浮かべて、その人を呼ぼうと思って声をだした?もう一回やってみて」 誰しも自分の声が他者に対して「届かない」と言われるのは、思い切りショックな出来事だ。「すいません、鼻がつまってるもんで」とか「すみません、北海道弁が抜けないもので」とか「ボケ」ようかとも思ったんだけど、静かな道場は僕にその手の「ボケ」を禁じている。結局、僕の声は最後まで3人のうちの「ひとり」には届くことはなかった。当時、僕が仲良くしてもらっていた内地留学の「横山さん」や「佐藤さん」は、何度かの試行錯誤のすえ、他者に呼びかけることができた。僕は彼に少しだけ嫉妬したけれど、そのあと、「飲み屋」に連れてってもらって、きれいさっぱり、その「嫉妬」を忘れた。 声が届くということ。他者に対して何かが伝わるということ。 僕の声、届いていますか?
1999/12/22 すごい時代になってきた 留学生のWeeさんからシンガポールの情報をもらった。無線LANに接続された「eduPAD」という電子ノートパッドが学校に導入され、学習者たちがそれを使い学習をする時代が、シンガポールでははじまっているらしい。 すごい時代になってきた。でも、一応研究者の卵としては、あんまり関心ばかりもしていられない。それを使えば、どんな学習が展開できるのだろう?それを使ってドリルをやっているなら、それに僕は全く関心はない。僕の関心はテクノロジーを導入することにはなく、学習がどう変わるか、にある実態が知りたいなぁと思う。
1999/12/24 スーパー雷鳥車中にて 富山への出張のため、スーパー雷鳥に乗った。僕がのっている5号車はほとんど人がおらず、時に売り子さんが「ますずし」や「コーヒー」を売りにくるほかは、ほとんどと人の往来がなかった。 外は白銀の世界。車中で読もうと持参してきたACMのSIGCHIのBullitainもすべて読み終わって、何もすることがない。こういうときは、いろいろなことを考えてしまう。これから書こうとする論文の体裁、そして、最近読んだ本のこと。最近、寝る前にGoffman, E.(アーヴィン・ゴフマン)の著作を読んでいる。先日、梅田にでたときに買い込んだものだ。その難解さは眠り薬としてはちょうどよく、だいたい1冊を1週間くらいで読んでいる。 金沢から2人の男女が5号車に乗り込んできた。パイナップルみたいな丸いめがねをかけた20前後の男の子と、「林家パー子」みたいなピンクのコートに身をつつんだ女の子である。二人は手をつなぎ5号車のちょうど中間あたりの席に腰をおろす。彼らのパーソナルスペースは異常なくらいに狭い。 しばらくして、5号車の中間あたりから、一瞬「チュッ」という音が僕の耳にはいってきた。「耳かき教」の熱心な信者である僕は、耳のかきすぎであまり耳が聞こえないのだけれども、その僕の耳にも聞こえてくるほどの音であった。それからは断続的にその音は聞こえてくる。「あっ、やらかしてるな・・・」と僕は思った。 面白かったのはその後だった。僕が席をたちガタンと音をたてるたび、いすのかげから遠くに見える彼らの頭が遠くに遠のく。面白くて4回くらい繰り返した。最初は、5分に一度「ガタン」と音をたて、次第にその間隔を短くしていく。4分に一度・・・3分に一度・・・。 僕が知りたかったのは、度重なる刺激に対して人がどう反応するかである。それは、科学者的な関心であって、僕の性格が悪いせいじゃない。結果は・・・、どうも男と女というものは、最初のうちに人目を気にするようだが、次第にその刺激になれ、ついぞ、その刺激を無視してしまうようである。僕たち/私たちだけの世界の構築は進んでいく。 まぁいい。今日はクリスマス。 So This is Christmas....
1999/12/26 ホンの少しだけの贅沢 今から約2年前の春、僕は安田講堂での卒業式にでた。蓮見重彦総長のアリガタイお話は、あまりに難解だったけど、フランス文学者っぽいその文体と内容は、かつて4年前に武道館での入学式に、はじめて氏の論述を聞いたあの頃よりは理解可能であった。入学式の時は、はじまって2分で寝てしまったが、卒業式はきちんと最後まで起きていた。僕も4年間で少しは成長したんだなぁと思って、ほんの少しだけ感動した。 安田講堂をあとにし通い慣れた教育学部に戻ると、学校教育学コースの打ち上げがはじまろうとしていた。僕の顔を今でも覚えてくれている2人の事務の「おねえさん」?、そのほかコースのスタッフと卒業生とが、卒業記念にアルコールありのちょっとした昼食をとるというものだった。やがて会は佳境にはいり、コースの先生方から「卒業生に贈るひとこと」がはじまった。そして、その中の一人の先生のことば、佐々木正人先生のコトバが僕の心に今でも残っている。 「みなさんは、これから、そうでない人もいるかもしれませんが、おおよそ、社会人というものになります。社会人になったら、学生のときとは違って、ホンの少しだけ生活が楽になるときがきます。社会人になったら、このホンの少しの贅沢を楽しんでください。」 佐々木先生の「卒業生に贈るひとこと」は本当に短いもので、これだけだった。でも、僕の心にはなぜかこの短い言葉が今でも残っている。 「ホンの少しの贅沢」って何なんだろうなぁって考えるときがある。僕はまだ社会人になっていないし、これからどうなるのかもわからないけれど、たとえば、そうなったとして、僕が享受する「ホンの少しの贅沢」って何なんだろうって考える。僕は根っからの貧乏性で「贅沢をせよ」と言われても、「はて?贅沢」なんて問い返してしまいそうな性格だから、この問いにはホントウに悩まされる。そんな悩みは社会人になってから悩め!と叱責する御仁もいらっしゃると思うが、「悩む」だけならいいじゃん、悪いの? ホンの少しの贅沢。 さんざん考えた末に僕がだした結論は、紅茶だった。僕は紅茶好きなのだ。紅茶のメーカーなら結構知っているし、いろんな銘柄も飲んでいる。飲んでいるといっても、別に自分で買ってきているわけじゃなく、モライものなんかを飲んでいるくらいのものだ。知っているといっても、「予習・復習好き」の僕だから、どっかで仕入れた知識を暗記しているだけのものだったりする。それに、なにせ、僕のマンションは「ものすごいウサギ小屋」なので、紅茶をいれるポットやカップがあるわけじゃないし、ちゃんとした紅茶を買ってきても、それをおく場所がない。本格的に紅茶を楽しめる場ではないのですよ。 そうだ、まず、それらをそろえよう。今は「関西スーパーで198円のこの世のものとは思えないダサいカップ」を使っているので、これをもうちょっとマシなものにするか。あと、いつも飲んでいるのは、LIPTONの20パック198円のものだけど、これをせめてフォートナム&メイソンの「EARL GREY」にしよう。 さんざん考えた「ホンの少しの贅沢」。
1999/12/27 人生時計 最近お気に入りの原田宗典氏のエッセイを、睡眠前に読んでいたら、「人生時計」というエッセイがあった。人間の寿命を72年として換算すると、自分の年齢を「3」で割った数が「人生時計」における自分の「時刻」ということになるのだという。僕は今24歳だから、「3」で割ると答えは「8」になる。つまり、僕は「人生時計」の「午前8時」を生きていることになる。63歳の人ならば、「3」で割ると答えは「21」になるから、「午後9時」を生きていることになる。午後9時といえば、火曜日ならば「火曜サスペンス」がはじまる時間だ。夕食を食い終わり、風呂からあがってきてビールを片手に浴衣でテレビに向かう感じかな。僕は「午前8時」だから、ようやく眠りからさめて、「さて仕事にでもいくか」という感じで腰に手をあてて「牛乳」を飲んでいる感じになるのだろう。 なるほど、人生はまだ長い。
1999/12/28 前略、ヌマへ 今年も年賀状を書く頃になってしまった。年賀状に関して僕は、書く枚数を決めていて、それは毎年変わらず「30枚」と決めているから、「その次の年に絶対に逢わないと思われる人で、今後もつきあいを続けていきたいと思う人」か「昨年ホントウにお世話になった人」にしか年賀状は出さない。それこそ、すべての知っている人に年賀状を書いていたら、2000年の師走になってしまう。 今年は誰に年賀状を書こうか、としばらく思案しているうちに、今はもう全国各地で働いている高校時代の旧友のことを考えた。大学の4年生あたりからあまり頻繁に故郷に帰らなくなってしまったため、音信が不通になってしまった者も中にはいる。また、大阪にうつるときに住所を連絡するのを忘れてしまったために、それっきりになってしまった者もいる。 その中でも今もっとも連絡をとりたいと思っているのは、ヌマだ。彼は本名を「大沼」と言い、僕らはいつも「つるんで」悪いことばかりしていた。高校時代の僕らと言えば、2時間目が終わった頃に「早弁」をかまして、昼休みは「6条軒」で「中華丼大盛り」を食って、そのまま近くの川にいき、その橋のたもとで「タバコ」を吸うのが3年間の毎日の日課になっていた。中華丼を食ってばかりいたわけじゃないぞ。僕にギターを教えてくれたのは彼だったし、今となっては大笑いだけど当時は本気だった自分たちの恋愛のことを語り合った夜は幾度とも知れない。そういえば、二人でフォークギターを抱えて「ライヴ」をしたこともあった。 ヌマはとにかく「無鉄砲な奴」だった。結構というか、かなりケンカっぱやいし、思いこんだら頑固な奴だった。いつだったかクラスの「打ち上げ」で「しこたま」飲んで街の噴水で泳いだこともあった。日本酒の一升瓶を片手に札幌の中心街で飲んだこともあった。悲しいことにその場に僕も居合わせているわけで、彼の「無鉄砲さ」に苦笑しつつ、自分の「無鉄砲さ」も情けなくなってくる。でも、とにかく楽しかった。 かつての友達の中には、大学にはいって「変わって」しまった奴もいる。いい奴なんだけど、たまにあっても話すことはギャンブルと自分の仕事のことだけになってしまった奴もいる。もちろん、彼らにも彼らの生きるコンテキストがあって、それぞれにリアリティがある。もちろん、僕はそれを責める気にはなれない。でも、その中でヌマは全然変わらない。変わらないどころか、彼といると高校時代を生きているような錯覚に陥ってしまう。 前略
1999/12/31 The Long and Winding Road to Master Thesis The Long and Winding Road to Master Thesis とうとうその「長く曲がりくねった道のり」も終焉を迎えるときがきたようだ。修士論文が完成しました。印刷も完了した。ネットワークでの配信用ドキュメントも用意した。年の瀬なので大学の事務があいていないため、提出はできないけれど、あとは年が明けてからの提出を待つだけである。 本当に長かった。総文字数123652字、クライアントアプリケーションのコードがA4用紙で124枚、サーバーのスクリプトがA4用紙で28枚。本当に長く曲がりくねった道だった。 この長く曲がりくねった道のりを僕は一人で歩いてきたわけじゃない。いろいろな助けを借りてここまでようやくたどりついた。このページの最後は、いろいろと僕を支援してくれた人々に対する謝辞をここに記すことで迎えたいと思う。以下、論文の巻末から謝辞を引用させていただきたいと思う。
The Long and Winding Road to Master Thesis この長く曲がりくねった道のりは今終わった。しかし、まだ僕は語り足りない。しゃべり足りない。よって、このページは昔から書きためていたエッセイや雑文のページと合体させ、「Narrative From Laboratory」として新たな歴史を刻むことにした。 この世の中には、まだまだ語られることを待っているものがある。 |