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1999/09/02 秋 もう秋なのかなぁと思わせるような涼しい日だった。縁あって、今日は一日外にでていたのだが、なんか「秋」を感じた。懐かしくもあり切ない日でもあった。どうも、こういうとき、人はふいにセンチメンタリズムを感じたりするらしい。いろいろな風景を見るにつけ、いろんなことを考えてしまう。 僕は昔、自分にできないことはないと、信じていた学生だった。中学のときも、高校生のときも、思い上がりも甚だしいが、いつもそう思っていた。時には、それは周りの人々にとって、「異臭」になっていたかもしれない。何度も言うが、それは青い思い上がりであった。 僕がまだ学部生だった頃、僕にはじめて挫折が訪れた。「ホントウの挫折」はそんなものではないのかもしれないが、進路振り分けのとき、自分が「行きたい」と切に願っていた学科への進学に、僕は失敗した。結果として、そのあとよい先生にめぐまれ、その先生をきっかけに出会うことができた人々との交流を考えると、それはヨカッタことだったが、そのときはホントウにショックだった。ふいに目の前がまっくらになった。 悪いことは何度も続くらしい。ここでは書けないが、2年生の冬には「さらに大きな挫折」が僕をおそった。自分が切に願っても、かなわないことはたくさんある。 とにかく、それらの出来事以来、僕は変わった。自分のアタマの上に、いつもコビトたちがいるようになり、そいつはいつも僕にコンフリクトを与えるようになった。いささか、レトリカルだが、自分の願いに対して、いつもそのコビトは、冷たい目でじゃまをしてくる。否、じゃまをしてくるというよりは、「無我夢中」の状態に自分がなることを、防いでくれているといっても、いいのかもしれない。そいつは、僕に「いい歳をして、そんな美しい物語に酔うのはやめろよ」といつも言ってくる。それを「大人になる」という表現で形容するのが適当なのかどうかは、今の僕にはわからないが、とにかく僕は変わった。「おまえは冷たいリアリストだ」と言われるようになった。 でも、最近、とくに思うのだが、「リアリストであること」や「冷静にものを考えること」が、必ずしも人のココロを豊にするわけじゃない。ときには「美しい物語」や「大きな物語」に酔いしれて、それゆえに、時に苦しみ、人は生きていくのではないか。もちろん、だからといって、リアルにものをとらえたり、冷静にものを考えたりすることが大切でないと言いたい訳じゃない。それも大切だが、同じくらい、大切なのは、「何も考えず」に酔いしれることではないか。 人は、様々な境界(boundary)を越境して生きているという。様々な思考の境界を、越境して、それゆえに、苦しみ、時に幸せを感じつつ、人は生きている。「冷たい目とアツイココロ」の境界を行きつ戻りつして、人は生きている。 秋の夜長は、センチメンタリズムに耽溺することを僕に許す。遠くで車の音がする。明日は何をして、何を考え、何に酔おうか。朝はまたくる。
1999/09/06 懐かしくなっちゃった ひさしぶりにオウチを掃除した。 あと、なんか急に懐かしくなっちゃって、B'ZとTMNのCDをレンタルしてきました。これが流行っていたころって、僕は「小学生」とか「中学生」だったんだよな。ずいぶん、遠いところまできてしまったものだね。 懐かしくなっちゃった・・・
1999/09/07 山城さん、ありがとう 僕は、どうも「人と別れる」のが苦手みたいだ。 おいおい、ディープだな、でも「別れる対象」は、別に「異性」っていうだけじゃなくて、「同性」でもそうです。どうも、人と「別れるとき」に、どういう顔をしていいか、よくわかんない。だから、いっつも、引きつった顔で別れているか、目をあわさないで、「じゃあ、ほなね」って言って、後ろを向いちゃうか、どっちかです。 誰だったか、たしかエスノメソドロジーの研究で、電話をきるときの「人々の方法論」についての研究ってあったんだけど、なるほどなって、思いました。でも、できないんだよなぁ・・・。 あっ、それと今日の出来事といえば、もう一つありました。なんと、茨木駅から阪大行きのバスにのったハズだったんだけど、「公園東口」っていう「人っこ一人いないところ」に拉致られました。助けにきてくれた山城さん、どうもありがとうございました。やっぱ、バイクっていいよなぁ。そういえば、僕もバイクのってたんだよな。北海道一周したし・・・。北海道一周ツーリングにはヌマといったんだけど、ヌマ、元気かなぁ。連絡でもとってみようか。
1999/09/08 シャケのように戻ってこい 僕の愛機VAIOが、先日、なんと液晶モニタの破損で修理工場に旅立ってしまった。修理代は12万円、それもクレジットで一括だって、保証がきかないんだとさ。それこそ、ビバリーヒルズに住んでるんじゃないんだから、一括で払えるかよ、そんなもん。仕方がないから、払うけどさぁ、なんでそんな「ちょん」と落としたくらいで割れるかなぁ。院生は、ボーナスがないんだから、余ってる金なんてないんだから。もう、いいや。とりあえず、仕事にならないし、支払いは2ヶ月後だろ。「なーむー」って、手を合わせて祈るしかないね、どっかからお金がふってこないのかねぇ・・・。 あーぁ、だんだんムカツイてきた。これは、いわゆる「構造の欠陥」だよね。だって、ノートをデスクトップみたいに使う人はいないわけで、当然持ち歩くんだから、丈夫に作れよ!付属のケースとパソコン専用のバックにいれて、「ちょん」と落としたくらいで、天に召されるとは、ちょっと「お痛」がすぎるんじゃないか、Sonyさん。それで保証きかないなんて、ユーザーをなめてるよ。でも、悲しいかな、VAIOってカッコいいんだよなぁ。IBMなんて、象が踏んでも壊れないのに。 昨日までさ、このVAIOをもって街を歩いたら、みんな振り向いたもんだ。「おっ、VAIOだね、イケてるね」ってさ。でも、今じゃ、15インチモニタを「風呂敷」につつんで、僕は街を歩かなきゃならないんだよ。どこが、モバイル? 今日は、言いたい放題言わせてください。
1999/09/09 院生の生活 合宿のときのこと。学部三年生と話していたら、ものすごいことを聞かれてしまいました。 「中原さん、院生って、いっつも何やってるんですか?」 そうだよねぇ。わかんないよねぇ。だって、大学にきたと思ったら、鬼の首でもとったかのようにノートパソコンを広げてさ、あとは2時間、仏みたいに動かないでるんだもんな。本当にその三年生が知りたいのかどうかはわかんないけど、小生の一日の生活を公開します。 ■9:00 〜 10:00 ■10:30 〜 11:00 ■11:00 〜 16:00 ■17:00 〜 18:00 ■20:00 〜 2:00 ■2:00 〜 3:00 ■3:00 〜 3:30 ■3:30 〜 5:30 こんな感じかな。土曜日も日曜日もないからなぁ、ハイ、大阪ではこんな風に生きています。
1999/09/10 ハタチそこそこで教育を語るな! 今日、ある人から、僕のホームページについて「忠告」をもらいました。もらったというか、「人づて」に聞いたという方が、正しいです。ホームページを出していると、励ましのお便りをもらったり、逆に「おしかり」のお便りをもらったりするのです。で、そのお方曰く、 「ハタチそこそこで教育を語るな!」 だそうです。これに対しては、僕は敢えて問いを返します。 「ハタチそこそこの語る教育は、あなたのおっしゃる教育を語っていないことになりますか?」 これら一連の問いに答えることができたとして、それが僕を納得させうるものだしたら、僕は語ることを、潔くやめましょう。そうじゃないのなら、やめません。やめないよーだ。 僕のホームページは、Informationのところにも書いてありますが、そのときどきに僕が考えたことを「外化」するものと位置づけています。だから、全然整理されていないし、整理するつもりもありません。ところどころ、矛盾するところもあるでしょう。だけど、そういう自分の「アホさ加減」をさらすことで、人から批判をうけたり、ご意見をいただいたりすることを、願っています。 僕が言いたいことはそれだけです。 ハタチそこそこで教育を語って何が悪い! 追伸. |