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1999/07/03 びばりーひるず だんだんとこのページの意味が変容してきたような気がする。最初は、修士論文の進行状況を書こうと思ってたんだけど、どうも、最近の日記は、修士論文「以外」のことを書いてるな。あと、誰にむかってこの日記を書いているのかも、よくわかんなくなってきた。誰のために僕は書くのか?・・・まぁいいか。真剣に悩んでもよくわからんものは、ふんばっても、はっちゃこいてもわからん。いつものように忘れよう。 さて、最近、楽しみにしているもの、それは土曜日のビバリーヒルズ青春白書である。あれっ、もう大学生になっちゃったから、青春白書じゃないよな。なんだっけ。まぁいいか。わかんないのですべてまとめて「びばりーひるず」と呼ぶことにします。このドラマは、すごいですよ。なんか、世界が違う。「ムトウ踊るマハラジャ」が映画ファンを驚愕させて、奥歯ひーひーいわしたみたいな衝撃が走ります。だって、まずいっつもパーティしてます。これだけでもすごいのに、主人公グループ(男3人、女3人)の恋愛の仕方も、すごいね。グループで、交換なんだもん。「順列組み合わせ」じゃないんだから、やめなさいって。あとねぇ、金もってるんだな、みんな、「びばりーひるず」だからさ。昨日の話だったら、あれっ、また名前忘れた。まぁいいや「女1号」がいて、こいつが若干21歳で、クラブを経営してるっていうんだから、「殺意」がわくね。なんだかよくわかんないんだけど「今日中に、小切手で10万ドルはらいます」とか言っちゃってる。おいおい、10万ドル(1200万)って、おまえ、「子ども銀行」とか「モノポリー」じゃないんだからさぁ。 もう、いいや。別に、悲しくなんてないんだから。
1999/07/07 七夕
きょうは「七夕」だ。 北海道では、七夕は8月7日である。僕は、北海道人だから、七夕は8月7日だ。しかし、内地では、それは7月7日と相場が決まっている。オリヒメとヒコボシが、一年に一回逢瀬を重ねる大切な日だというのに、地域によって違うということは、彼らは一年に何度も逢っていることになる。めでたくも何ともない話になってしまうなぁ。まぁ、いい、若人よ、励め。7月7日の方が、数字のゴロ的に「かっこいい」な。北海道でも、そうすりゃいいのに。
1999/07/07 藤田まことと踊る大捜査線 「踊る大捜査線 - The Movie -」を見ました。面白かったです。ワク刑事がしぶいねぇ。「正しいことをしたければ偉くなれ」なんて、しぶいじゃないですか。 まぁ、それはそれとして、僕は映画なんかを見るとき、どうしても「作り手」の方からしか見ることができないんだけれども、そういう観点から見ると、刑事ドラマとしての「踊る大捜査線」は、これまでの刑事ドラマとは全然違う側面をもっていつつも、あるところでは共通しているという感じなんだと思うんです。 つまり、まず、共通しているところは、「人間性に支えられたストーリー展開」ですね。これは、ハリウッド映画の「刑事」と日本の刑事ドラマの「刑事」を比べると、すぐにわかります。ハリウッドの刑事は、どこか、「専門職」なのですね。だいたい、ものすごいスキルだとかタレントをもっているんです。とくに、シュワルツネッガーだとかがでる奴だとかスタローンがでる奴は、だいたいそうです。まぁ、映画によって、それは「肉体」であったり、「コンピュータのスキル」であったりするんですが、とにかくハリウッド映画の刑事は、「専門性(Expertise)」をもっているんです。ロバート・デ・ニーロの「恋に落ちたら」なんかは、例外だけれども。 それに対して、日本の刑事ドラマというのは、「ヒューマン」なんです。人間性というのか、人情というのか、そういうものをもった存在として、主役の刑事が役立てされていることが多いんですね。つまり、基本はハシダ・スガコ、イズミ・ピンコの「渡る世間は鬼ばかり」なんですよ。もっというと、時代劇なんだな。藤田まことの「さすらい刑事旅情編」を見て下さい。あれは、現代的にリメイクされているけれど、まさに時代劇であり、イズミ・ピンコです。犯人と刑事の人間性のあり方、その交渉中に生じる葛藤がモティーフになっているのであって、事件自体はどうでもいいんですね。 「踊る大捜査線 - The Movie -」は、藤田まこと路線とはちょっと違ってて、主題は、犯人じゃなくて、警察の内部におこる人間の相互交渉だと思うんです。それぞれの刑事は、歴史をもっていて、まぁ、もっていない人もいるんだけど、その歴史の延長上に位置づけられた刑事同士、警察内部の葛藤や矛盾が主題になっています。だから、ワク刑事こと「イカリヤ・チョウスケ」の「正しいことをしたければ偉くなれ」なんていう台詞がでてくるんです。 どうでもいいけど、「ミズノ・ミキ」でしたっけ、あやのさんをやっているのは。僕のタイプです。かなりイケてる。 ・・・・・とここまで書いて終わろうとしましたが、そろそろ話を修士論文の方に戻します?まぁ、それはヤボってもんだ。それでは。
1999/07/13 もう笑うしかない もう「笑う」しかないという状況が、僕の場合、一年に5回ほどやってくる。 「本当におまえは、ヤマアリ・タニアリの怒涛のような生活をしている」と、よく言われるが、そんな生活をおくっている本人にとってみれば、決してそんなことはない。ゴーイング・マイ・ウェイそのものだ。日々、マリアさまに見つめられているような生活そのものである。 ゴーイング・マイ・ウェイの生活をおくっていて、安穏と安らかにくらしているつもりでも、もう「笑う」しかない瞬間は、確実に年に5回訪れる。今日は、そんな日だった。 昨日の夜から、今現在に至るまで絶えず、いろいろ動き回っていた。学会の原稿締切も近いし、他にためていた仕事も多々あったから、それはそれでしかたない。そんなときは、もう「笑う」しかない。キレて、研究室のシンセサイザーなんかを弾いていた。 どうでもいいことだが、僕は幼稚園から中学校に入るまでピアノを習っていた。上京してからというもの、全然弾いていないから、あんまり無理すると、もう指が「こむらがえり」になってしまう。「ピキー」とかいってる。「北斗の拳」で、ヒコウをつかれた「見るからに悪そうな奴」が「ヒデブ」とかいって爆発する前の瞬間の音に、その音は似ている。まぁ、よい。 そういえば、最近、「シャイン」と「ピアノレッスン」をまとめて見た。いい映画だった。その曲を、調音して、今日はシンセで弾いていた。映画ばっかり見ているようだけど、これがなければ、今の僕は「はひー」とかって、もう死んでいる。うちの研究室のマツカワにとっては、「暗号ソフト」をつくることが、唯一の楽しみかもしれないが、僕にとっての唯一の楽しみは、映画を見ることだ。マツカワ、きもっ。作れっていったの俺だけど。 映画を見ていると、おもしろいもので、僕は、いつも「ツクリテ」の立場で、それを見てしまう。一生、「ツクリテ」でいたくて、僕はこの大学院を選び、大阪にきた。映画を見るときは、その初心を思い出してしまう。そんなことを思い出すときが、ふと、笑ってしまう瞬間だったりする。 |