- Fragment 13. 放送教育はおわらない
2000年の教育工学会、正しくは「教育工学関連学連合大会」は終わりました。 鳴門で「渦潮」もみたし、地元企業「大塚製薬」の「超バブリー美術館」も見たし、「温泉」にもはいったしで、なかなか満足です。遊んでばかりいたわけではありません。「引っ越しのサカイ」なみに「キッチリやるべきことはこなしてきた」のでご心配なく。 ところで、学会ですが、今年は連合大会ということもあって、いろいろな発表がなされていました。基本的には、「授業研究」から「論文に数式ばかり書いてある論文(何が書いてあるのか、数的感覚に疎いのでわからない)」まで、発表されている内容は、本当に多種多様です。 自分の発表の合間に、プラプラといろいろな発表を見に行きましたが、今回の学会で一番オモシロかったのは、放送教育関係のセッションでした。なぜって、放送教育のセッションは、だいたいどのセッションも論争というか、矛盾や葛藤が一番表出していたように思うのです。これが非常にオモシロカッタ。NHK出版から出版されていた雑誌「放送教育」が、惜しまれながら休刊を迎えたことも、たぶん、理由のひとつなのでしょうか。とにかく、このセッションが熱かった。 ところで、先に僕は「矛盾や葛藤が表出している」と書きましたが、別に、僕自身がそうした矛盾や葛藤を喜んでいるのではありませんよ。「放送教育」という名前や理念は別にして、僕は放送番組をとても大切な学習のリソースだと思っています。逆に言えば、「矛盾や葛藤なくして、発展はあり得ない」のです。ここにゴダイゴの「ガンダーラ」ではありませんが、希望と期待があります。 さて、話は元に戻りますが、僕は放送教育が専門ではないので、いわゆる「正しい理解」ができているのかは自信がないっちゃーないんだけど、今回のエッセイでは、放送教育のセッションを聞いて僕が考えたことを書こうと思います。 放送教育を専門にしているヒトにすれば、「振り向きざまに延髄切りをかましたくなること」を言ったりするかもしれませんし、僕の理解は「ゾウリムシが屁をこいたレベル」なのかもしれません。もしそうだったら、是非、教えてください。メールお待ちしております。 ところで、放送教育のセッションですが、まず僕の考えを書く前に、どんなことが話題になっていたか、少し「おさらい」してみることにしましょう。だいたい、こんなことが語られていました。
だいたいこんなところでしょうか。少なくとも僕のいたセッションでは、暗示的か明示的かは知らないけれど、こうした事柄が問題になっていました。 まず1ですが、これは近年のNHKさんの番組開発方針に対する葛藤でしょう。NHKさんとしては、
ってことを主張してらっしゃるようですね。それに対して、いわゆる「放送教育」を長年やってきたヒトからは、
という主張がなされている。この両者の葛藤がまさに顕在化していたように思います。 これに対する僕の意見なのですが、マコトに狡いんだけど、この葛藤に荷担できるほど、僕は放送教育のことをよく知らないし、正直に言ってこの葛藤には興味がないので、率直な答えを述べることはできません。ただし、この両者の葛藤には、ひとつだけ気になることがありました。それは、両者の主張ともに、主張を支えるロンリが明確でない点です。 たとえば、前者の「動画データベース派」のヒトは、以下のようなロンリで動画データベースの正当性を主張します。
以上の文章のアヤウサは「より深い学習」という部分ですね。データベースになって検索性に優れたからといって、それを使った学習が「より深い学習」になるかどうかはわからないのです。それは必ずしも評価実験をへて検証されていませんから、「事実」ではなくて「期待」であることがわかります。つまり、ロンリにリープ(Leap)があります。 後者の「これまでの番組づくりでいいんじゃないの派」の意見も、やはり危ういと僕は思います。簡潔にいうと、主張は以下のとおりでしょうか。
これも少し考えると、オカシイですね。「ひとまとまりの番組であること=ぶつぎりにしないこれまでの番組」でありさえするならば、視聴者は泣けるのでしょうか。視聴者は「ブツギリにしない番組」故に魅了されるのでしょうか。そして、動画データベースには、それができないと結論づける根拠はあるのでしょうか。さらに言うならば、放送教育をとりまく現状はどんどん変容しつつあるのに、なぜ原点に戻らなければならないのでしょうか。このロンリにもリープ(Leap)があることは否めませんね。 次に2についてです。2は「放送教育を語ることばの不在」ということですね。つまり、「どのように放送教育という領域を語っていけばいいのか」、そのオサホウに混乱が見られるということです。誰かが発表後に僕にもらしていたことなのですが、「放送教育の発表は、結局、この番組はいいとか悪いの形而上学的な話になっちゃう。この番組はいい、とか悪いとかいう個人の印象を述べられてもなー」ということですね。つまり、問題は放送教育を議論する際の議論のオサホウが、印象論に陥っていないか」ということです。 これによく似た混乱が、かつて文学理論の世界にも起こりました。いわゆる「印象批評」とよばれるヤツですね。くわしいことは書きませんが、「文学を批評する方法が、個人の印象によって可能ならば、その批評が可能な人間は、超越的審級(神様)なんじゃなかろうか」という議論がなされ、批判されたのです。 それではこれまで放送教育はどのように語られてきたのでしょうか。それは以下の2つの語られ方だったように僕は思います。
1の印象批評は言うにおよばずイケてないとして、2の番組の構造分析というのは何でしょうか。 これは簡単にいうと、番組のコマギレ、あるいは番組そのものを分析の単位にして、その番組の深層をなす構造を抽出し、その構造と「学習者の学習、理解」を対応づけようとする研究のことを言います。要するに、「抽出された番組の構造がよければ、学習者の学習や理解が促進される」と考えるのですね。 「(番組名)の分析」と論文名につく研究はおおよそそのような系譜の研究と考えて間違いないと思われます。こうした研究の対象になるような番組というのは、間違いなく「笑っていいとも」とか「あいのり」じゃありません。いわゆる「よい番組」と関係者の間で評価されている番組が研究の対象になります。 この研究の背後には、事象間の深層には「つながり」や「構造」があるはずだ、と考える「構造主義」の思想が色濃く見られ、僕はそうした思想がどうして放送教育の言説空間に持ち込まれたのかに密かに興味をもっているのですが、、まぁ、それは今はいいでしょう。ともかく、そうした研究方法が、放送教育のメインストリームの研究として今まで行われてきました。 しかし、2の系譜の研究に対しては、僕は2つの点で気になることがあります。それは以下のような2点です。
1の「番組そのものの位置づけの変容にかかわる分析単位の問題」というのは、簡単なことです。僕は先に放送教育のメインストリームの研究というのは、「番組の構造→学習者の学習や理解」という図式をもとに研究がなされていると書きました。 ポイント2つあって、この図式の従属変数が「学習者たちの学習や理解」ではなく、「学習者の学習や理解」であるということ、独立変数が「番組そのもの(の構造)」におかれているとううことですね。 でも、少し考えてみれば、これには少し疑問が残ります。放送番組というのは、基本的には学校で利用されることを念頭につくられています。学校では、子ども達がたくさんいます。そうしてみると、この図式の従属変数は「学習者個人」ではなくて、「学習者たち」が分析の単位になるべきではないでしょうか。 また、放送番組が利用される状況っていうのを少し考えてみると、やはり疑問がでてきます。通常、放送番組が現場の先生に利用されるときっていうのは、番組のすべてが利用されるわけではありません。現場の先生方は、自らの教授活動の中に放送番組をリソースとして時に部分的に「埋め込みつつ」授業を行っています。要するに、ビデオ等を使った番組の部分的な利用が多いってことです。 また、最近は、放送番組はインターネットと連動しています。放送の内容は、即日、インターネットにて公開され、時には学習者同士の相互作用もWebに公開されちゃいます。かつては、番組だけを利用することも多かったのでしょうが、最近の小学校では、番組のWebと番組を組み合わせて授業を行っているところも多いと聞いています。 まとめると、放送番組の実際の利用方法は、番組はリソースとして部分利用される、あるいはインターネットなどの他メディアと連動されてリソースのひとつとして利用されています。これらのことから、「番組そのもの」を独立変数とおくことは事実上不可能になってくるのではないでしょうか。 2の「フィードバック情報の宛先性の問題」というのは、「その研究の成果は誰にどのように還元されるのか?」っていう問題です。これまでの放送教育の研究方法論においては、そのフィードバックの宛先は「番組制作者」か「現場の先生」でした。つまり「この番組は○○な構造をもっていたから、学習者の○○の理解に役にたちましたよー、だから、今度もこんな番組つくってね、ディレクターさま」という感じか、「この番組は▽▽な構造をもっていたから、学習者の▽▽な理解は増進しましたよ。先生、この番組使ってくださいよ」だったわけです。 ところがここにも少し疑問があります。というのは、これらのフィードバック情報がディレクターや現場の先生に本当に利用されていたのか、という問題です。 これは甲南女子大学の上田先生に前にお聞きしたのですが、たとえば、「お母さんといっしょ」の番組の制作にあたっては、「キャプションをどこにいれるか」「どの色を使えば子どもは愉しむか」といったようなことまで、キチンと研究者が仮説検証を行ってつくったそうです。「キャプションをどこにいれるか」とか「どの色をつかうべきか」という基礎的な事柄ならば、いざ知らず、「番組の構成と構造」という非常にデカイ事柄を、研究を参考につくりあげていくというのは、かなり大変なことのように思いますが、このあたりはどうなのでしょうか。 さて、ここまで例のごとく言いたい放題、僕の疑問を述べてきました。僕の学部時代の指導教官は、「おぬし、代替案のない批判は、批判とはいわん!」といつも言っていましたが、これに素直に従って、最後に僕も代替案を述べてみたいと思います。さしあたっては、これ以降の議論の前提として以下の事柄をあげておきます。
さて、この4つの前提をみたすような研究の方法論とは何でしょうか。 その答えは、やはりエスノグラフィーであるように僕には思えてしまいます。番組が実際に使用されている現場において、学習者たちがどのように振る舞い、どのように学習活動を行っているのか、そして、番組やWebは、彼らの活動の中にどのように組み込まれているのか。こうした問いを、エスノグラフィーによって明らかにしなければならないのではないでしょうか。 分析単位には、「複数の学習者たちの学習活動」そのものをおきましょう。そして、番組を学習のリソースとしてとらえて参与観察を行いましょう。子ども達や先生は、番組を使ってのみ学習をしているわけではありません。番組は、他の学習のリソース、たとえば、Webや教科書などといった様々なアーティファクトの中のひとつなのです。そして、こうしたアーティファクト間の協調が、授業の流れを生み出します。 研究者は、実際に番組が利用される教室に赴き、その授業を参与観察することで、「リソースとして番組がいかに学習者、教授者に利用されているか」を研究すべきではないでしょうか。そして、それこそが「番組の評価」として定式化され、研究として蓄積されるべきものなのではないかなーと思うのです。こうした情報は、番組の制作者や現場の先生方にとっては有益な情報になるのではないでしょうか。「あー、オレの番組は、こうやって利用されているのか」「あーなるほど、こういう風に番組を授業の中に埋め込めばいいのか」という具合に。 じゃあ、オマエやってみろ、という感じですが、ちょっと待ってよー。でも、なかなかオモシロそうな気はしています。いつの日かチャレンジしてみたいと思います。 |