- Fragment 12. そうだ、すべてはつながっている!

2000/09/23 Update

 最近、僕は、システム開発か、あるいはシステム開発のコーディネーションをする仕事をいくつかこなしながら、おかげさまで非常に充実した日々を過ごしています。このごろは、<研究室>と<街>を往還しながら、より多くの人々とのコラボレーションに従事することが多くなってきました。まだまだ駆け出しのペーペーですので、ホントウに大変で、今まで経験しなかったようなストレスなんかが、たまったりするのですが、たまには日記なんかでザレゴトを書いたり、レゴブロックでロボットを作って遊んでみたり。まぁ、煮詰まってナベをコゲつかせてしまって、ジフとタワシでゴシゴシなんていう目にあわない程度に、何とかかんとか「己の精神」を「やり過ごして」いる次第です。

 ところで、先日、僕はある大学の先生から非常に大きな問いをもらってしまいました。

 いったい、何を学べば教育工学を学んだことになるのだろう?

 デカイ! あまりの問いのデカサにハンベ状態になるのを我慢してみたりしたのですが、どうやら、この問いは僕にとって、たとえ「完全に解決はできなく」ても、考えていかなければならないような気がしたので、以来、折りをみてこの問いについて考えています。考えていると言っても、電車に乗っているときとか、バイクに乗っているときに、「ヤシロアキ」とか「ジョージ山本」なんかを口ずさみながらこの問いを「反芻」している程度のものです。不謹慎ですが、そういうときに、こうした理念的な問いの思考は向いているようです。

 さて、少し考えてみると、僕の専門は、いわゆる「教育工学」という学問です。まず、それを思い出しました。「教育工学」をまがりなりにも専攻している僕が、この種の問いに答えられないのは、本当はヘンな話なのです。だって、要するに「教育工学って何ですか?」って問われていることと同義ですから。
 この種の問いに答えられないと言うことは、すなわち、自分の専門が何であるかも言い当てることができないことを意味するわけですから、それは、即、研究する者としての自分のアイデンティティ崩壊に結びつくわけで、モノスゴク深刻な事態なワケですね。アイデンティティ崩壊して、「サイコちゃん、火がボーボー」になってしまうのは、僕はイヤです。だから、考えなければならない。

 で、いろいろ考えてみました。「ヤシロアキ」と「ジョージ山本」を口ずさみながら、考えたので、演歌的に情に訴えているところがあるかもしれません。

 もちろん、一般的に考えたわけではありません。言うまでもないことですが、僕は「教育工学」一般について「十全」に語りうるほどの能力や資格は持ち合わせていないので、ここは、自分の学んできた内容に「限って」ハナシを進めてみようと思います。あくまで僕が何を学んで、一応、現在、「僕の専門って教育工学なんですぅ、ナンツッテ」と一応「ホザく」ようになったか、というハナシです。ここは誤解しないでくださいね。

 ふりかえってみました。リフレクション(Reflection)ってヤツです。ふりかえりのポイントは、次のようなことですね。すなわち、「マガリナリにも、ナンチャッテであったとしても、僕の「教育工学的な思考」をささえている学びとは、何であったのか?」ということです。それは整理してみると、以下のようになるようです。

1.認知科学
2.応用認知科学
3.デザイン/演出論
4.思想/社会科学理論
5.テクノロジー
6.教育学 / フィールドワーク

 少なくとも今の僕の「ナンツッテ教育工学的思考」を支えているのは、以上6つの学問というか、その学びであるということです。どうもそうらしい。これらについて一つずつ紹介していきましょう。

 まず第一の「認知科学」です。僕はもともと教育学部の出身です。学部時代は、この学問の「サワリ」を少しだけ「かじらせて」いただきました。認知科学っていうのは、定義はよく知りませんけれども、言語学とか心理学とか情報科学とか、いろいろな学問の混成体なのですよね。いろいろな学問的バックグラウンドをもった人々が、「人間の知的有能さ」についての研究をしているのが、「認知科学する」ってことだと思うんです。学部時代の僕は、この認知科学に興味をもったわけですね。

 賢くなるってどういうことなんだろう?
 学ぶってどういうことなんだろう?
 逆に、学べないってどういうことなんだろう?
 やる気って、何なんだろう?

 学部時代の僕はこういうことを少しずつですが、考えていたわけです。遅々としていたかもしれないし、あまりに「基礎的」かつ「根本的」であったのかもしれないけれど、学部時代の僕はこうした「そもそも論」を考えようとしていたことだけは間違いないようです。

 ところで認知科学の「そもそも論」に対して、一般に教育工学とは「人間が学んだり、教えたりするときに利用できるシステムとかソリューション」を提供するプラクティカルな学問であると言われているようです。先の認知科学的問いっていうのは、それから比べると、ものすごく「根本的」すぎて、ここから実際のモノをつくるまでの過程を考えると、腰がヘナヘナしてしまうんですが、これについて、及ばずながら考えることができたっていうのは、僕にとっては、その後の教育工学的思考に大きな影響を与えました。おおよそ、学問を「実用的学問 / 基礎的学問」にわけることほど、「愚かなこと」はないわけですが、仮にそれをいったん認めたとして、僕にとって認知科学はすべてのシステム開発やソリューション提供の基礎みたいなものになっているみたいです。

 第二に「応用認知科学(Applied Cognitive Science)」ですが、これについては説明が必要かもしれません。認知科学については、先ほど「人間の知的有能さについての研究」とご説明しましたが、応用認知科学っていうのは、たとえばヒューマンインタフェースとかCSCL(コンピュータによる協調学習支援:Computer Supported Collaborative Learning)みたいな領域を言います。

 要するに、「人間の知的有能さについての知見=認知科学の知見」をもとにして、具体的な人工物とか学習環境を考えていこうっていうのが応用認知科学ってことでしょうか。実は、日本には応用認知科学について体系的に学べる高等教育機関っていうのは、モノスゴク少ないです。だから、応用認知科学について学びたいと思う学生は、必然的に北米の知見を垣間見る感じになってしまいます。でも、そういう研究領域が「どこか遠いところ」にあるんだってことは、当時の僕を勇気づけました。オモシロそうだ。こんなことがアリなんだなーって思っていました。当時の僕にはスキルがなかったので、そういう研究はできないって思っていたんだけど、こういう領域で自分は研究をしてみたいと思うようになったわけです。だから、現在の僕の教育工学的思考に、応用認知科学はモノスゴク影響を与えちゃったりしています。

 第三の「デザイン/演出論」ですが、これも僕に影響を与えた学問です。「影響を与えた」と書きましたが、僕はセンスないです、ハッキリ言って。でも、センスを磨こうとはしています。ここは誤解のなきように。

 じゃ、どうして「デザイン/演出論」が僕の教育工学的思考に影響を与えているかっていうと、これは実際にモノをつくってみるときに絶対に必要になってくることだと思います。たとえば、今、仮に「ある学習理論」を想定して、これを下敷きに「システム」とか「コンテンツ」をつくろうとしますね。たとえば、学習用のWebをつくるでもいいですよ。そのときに、どのくらい学習者を魅了できるデザインができるか、どのくらい学習しやすいデザインをすることができるかってことは、「ある学習理論」にすべて書かれてあることではないんですね。これはいくら強調してもしすぎることはないと思うのですが、「理論」はすべてを説明しませんし、どこまで頑張ってもそれをリファレンスとして完全なモノヅクリを行うことはできません。理論が不要だ、と言っているわけではないです。理論は必要なんです。でも、理論が、これからつくる人工物のデザインをすべて決定するわけではないんです。じゃあ、何が決定するかっていうと、それは開発者であり、デザイナーなんですね。言い方をかえれば、彼らのデザイン能力というか、センスというか、演出が最終的には人工物をつくるときには必要になってくるわけです。だから、当然のことながら、教育とか学習とかのシステムやソリューションを開発する人っていうのは、デザインとか演出論の知識っていうのか、そうしたテイストをある程度は持っていなければならない、と僕は思っています。

 ただ、ここが悲しいことなんですが、僕はそういう知識や、少なくともそうした学問のテイストを体系的に学ぶことはおろか、そういう知識やワザへのアクセスもなかなかできませんでした。未だにできていません。学部時代、若干そうした授業を受けたことはありますが、言ってみればソレダケなわけです。デザインとか演出とかの大切さは、身にしみるほどわかっているのに、それを主張する僕は、それが全くできていない。モノスゴク情けないことです。

 第四に「思想/社会科学理論」があるわけですが、これも重要だと僕は思っています。幸せなことに僕の通っていた大学は、大学学部1年生から2年生までは、専門課程に配属される前に、教養学部に所属します。まぁ、言ってみれば「モラトリアム」みたいなモノなんですが、この時期にかじった社会科学の理論というか、社会思想の知識っていうのは、その後、結構重要だなーと思うようになってきました。

 言うまでもないことですが、おおよそ、人間の思潮というのは、その当時の時代背景や流行の思想に大きく影響されています。例えば、「教育システムの最適化(optimization)」という方針をかかげ、教育工学という学問が生まれ、世に認知され始めたのは、1960年代から70年代だと思うのですが、この時代っていうのは、まさに科学万能の時代、世に言う<近代:モダニズム>の思想が大流行した時代でした。そして、時代が過ぎると思想の世界では、<近代>という時代のイデオロギーが暴かれるようになっていくわけですね。いわゆるポストモダンの時代に入ります。こんな単純な理解では、思想屋さんに「刺されてしまう」のではないか、と思ってしまうのですが、ともかく、教育工学を含めたいわゆる「学問」というのは、思想の動きから無縁ではないと思うのです。「思想/社会科学理論」については、ほんの片鱗をカジッた程度でしたが、この知識っていうのは、のちに僕が大学院に進学し、教育工学と言われる学問をイチから研究し始めるときに、モノスゴク役にたったような気がしています。

 第五にテクノロジーですが、これについては言わずもがなです。プログラミングの知識、ハードウェアの知識、OSの知識、サーバ構築の知識、Webアプリケーションの知識、クライアント=サーバシステムの知識、データベースの知識。大学院にはいってから、少しずつ勉強しました。

 僕はプログラミング屋さんではないし、ハードウェア屋さんでもないので、別にこれらの領域のひとつについて極めることを目的にはしていませんが、浅く広く勉強しました。いくら学習や認知の知見について知っていても、システムができるわけではないし、コンテンツの開発ができるわけではありません。それを可能にしていくというか、現実化していくための「道具立て」がどうしても必要になるのです。

 これに関しては、僕は「多くの研究仲間=大学院生」と一緒に勉強してきました。別に基礎から学んだわけではありません。「やりたいこと」が決まって、「さてどうやって実現しようか」と技術的な検討をしてみて、「じゃあ、これについて学ばなければならないね」という具合に、「必要に応じて」学んできました。

 最後は「教育学 / フィールドワーク」についての知識です。これはホントウに勉強不足を痛感するのですが、学部時代に浅く広く垣間見させていただきました。たとえば教育社会学とか教育心理学とか、自分を鍛えるツモリで、それらの専門のゼミにでたりしてみました。チンプンカンプンだったことも多々ありますが、まぁ、いいでしょう。

 あとは「フィールドワーク」ですが、これは絶対に重要な気がします。システムやソリューションには「宛先」があるのです。つまり「誰のために役にたつのか?」「誰がどのように使うのか?」ということが考えられなければ、せっかくつくったシステムやソリューションも使用されずに終わってしまいます。幸いなことに機会を与えられ、及ばずながら僕は学部時代よりいろいろな教育の現場でフィールドワークをさせてもらいました。この経験はホントウに貴重だったと思っています。僕が小学校や中学校や高校にいたときとは想像しなかった現実がそこにはありました。被教育者としての経験は誰もがもっているものです。だから、自戒をこめて言いますが、僕ら開発者は「教育現場はダイタイこんなものだろう」という予期と思いこみが先行してシステムをつくってしまいがちなのですね。

 さて、以上「僕の教育工学的な思考をささえている学び」について、あくまで僕の経験をもとに書いてきました。以下は、その関係を図示したものです。

 なんかヘンチクリンな図ですが、少なくとも僕の経験に関する限り、「教育工学的な思考」はそれを構成する様々な周縁知識の領域とは無縁ではないのではないか、ということです。誤解を恐れず言うならば、それら関連学問の知識の有機的なネットワークの中にこそ、そうした思考が生まれるのではないか、と思うのです。つまり、すべてはつながっているのです

 もちろん、僕はそのネットワークというか、の中にいて、それらの領域を時に越境しながら、今学んでいる過程にいます。強烈に勉強不足であることはわかっていますが、だいたい僕の教育工学的思考を支えているのは、こんな感じの有機的なネットワークであるように思います。


NAKAHARA, Jun
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