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今日の話は、リテラシーだとかいう概念についてのお話です。これを書くにあたっては、散々悩みました。なぜかっていうと、僕もわかんないことだらけだからなんです。おいおい、わかんないことを書こうとするなよ、って感じだね、全く。 まぁ、これからいろんなことを書いていくと思うのですが、最初に一言だけ言っておきます。これから、僕はリテラシーっていう概念を批判的に考えようと思うのですが、それは「概念」への批判であって、メディアやテクノロジーを教育に利用することの批判ではないということです。これについては、全く否定はしていません。むしろ、学びや教育の姿がより「アタラしくPlayfulなものになるなら」、大いにやりましょう、と言いたいです。このことだけは、最初に断っておきます。 さて、最初に僕は「リテラシー」がわからない、悩んでいると書きました。それでは、なぜ僕が「リテラシー」について悩むかっていうと、たとえばですよ、検索エンジンのGOOで「リテラシー」を検索しますよね。すると、なんと、こんだけのリテラシーが「じゃんじゃじゃーん」と出てきます。
世の中には、こんなにリテラシーがあふれているのですね。「犬も歩けばリテラシーにあたる」っていう感じです。こんなに習得しなければならないリテラシーがあるなんて、まさに現代に生まれるってことは、ハッキリ言って不幸としか言いようがない。 まぁ、そうはいっても、アダルトリテラシーとかいう「お冗談でしょリテラシー(No Kidding Literacy)」はほおっておいたとして、この中からメディアやコミュニケーション一般に関するものをひろっていったとしても、以下のように何でもアリの世界です。
以上のようなリテラシーの洪水を見てもらうとわかるとおり、情報教育をめぐって様々な人々が、様々な場所で発言しているのを聞いていますと、このリテラシーいう概念、ガンガンでてきます。もちろん、これらの概念の大部分は、もはや一般的に使われる概念なんでしょうね。でも、僕なんかは、そのコトバをきくたびに「はて?」と思っちゃうことがあるんですね。 で、こうすることにしました。この概念について、まぁ、若干の説明をしたあとで、いくつか疑問を述べていこう、と。説明といっても、「屁のつっかえ棒」にもならない説明ですが、まぁ、これに関しては「申し訳ございません、僕が悪いもんね」と陳謝するしかないですね。 さて、まずは、リテラシー(Literacy)っていうコトバですが、先ほどの洪水を見てもらうとわかるように、どうも一般的には「基本的な能力」をさす意味で使われているようですね。「アダルトリテラシー」は「オトナの基本的な能力」って意味になっちゃうんですが、それが何を指しているかは、未だ子どもの僕には知る余地もありません。でも、ここでは、ハッキリ言って面倒くさいので「リテラシー=基本的な能力」とおさえておきましょう。 そして、先ほどあげた数々のメディア&コミュニケーション関係のリテラシーの中で、極めて頻出頻度が高いものは、情報リテラシーと映像リテラシーとコンピュータリテラシーくらいかな、って思います。 僕のもっている心理学事典(有斐閣)には、リテラシーについてこんな記述があります。
リーダース英和辞典には、「リテラシー=読み書き能力」と書いてあって、最初はそのように使われてきました。ユネスコ憲章にある「リテラシー」もそのような概念として定式化されている。でも、さっき引用した心理学事典によれば近年「リテラシー」は「文字メディア」には限定されてないわけです。「映像」「コンピュータ」はてには「情報」という風にどんどん拡張されていっています。ポイントは、リテラシーの概念っていうのは、どんどん拡張し続けていっているってことですね。 一方、メディアリテラシーという奴もあるんですよ。メディアリテラシーっていうのは、社会心理学とかメディア研究とか、そういう方面からでてきた概念で、メディアを批判的に見たり、利用したりするチカラっていうんでしょうか、そういうことを表している概念です。 たとえば、新聞とかテレビっていうのは、ものすごく限定的な事実、これは括弧付きの「事実」なんですが、そうしたある現象を編集者のフィルターをかけて切り取られた「事実」を伝えます。ある現象をそのまま伝えるわけにはいきません、時間の制約がありますから。だから、ここには「編集」というプロセスがはいっちゃうわけなんですが、そうした括弧付きの「事実」の正統性を見分けるチカラっていうんでしょうか、そういうチカラの大切さを説いているのがメディアリテラシーだって思っていいんだと思うんです。もっと言うならば、編集者が恣意的に選んだ<事実>と、編集者によって選ばれなかった隠れた事実を見分ける能力っていうんでしょうか。もちろん、見分けるだけじゃなくて、そういう認識をもってメディアを利用していくチカラも含まれますが、まさにそうした複合的なというか、メディアのもつ「性質」にかかわる人間のチカラをメディアリテラシーと呼んでしまっていいのでしょうね。 で、ここで僕の疑問。これは概念の拡張の際に、よく起こることなんですが、「拡張された概念は、何でもいいあらわすようになる、逆にいえば、何も言い表さなくなる」ってことがよくおこるんです。 これは、リテラシーっていう概念についても言えて、今、ものすごく混乱していると僕は思っています。何が上位概念で何が下位概念なのか、はっきりいってよくわかんない。また、先ほどの有斐閣の定義を見てもわかると思うのですが、コンピュータリテラシーっていうのは、たぶん「コンピュータを操作する技能」ですよね、一方、映像リテラシーっていうのは、「映像の理解能力」です。「操作技能」と「理解能力」をごちゃまぜにしてもいいのかなって疑問がでてきます。 また、先ほどの有斐閣の定義では、情報リテラシーが「統合」された概念だって言いますが、よく考えてみると、これもわかんない。僕が話すコトバも身振りも、振る舞いも、すべて「情報」なのです。あるモノがここに存在しているってこと、それも情報です。情報という概念を広めにとるなら、僕らの身のまわりにあるもので、情報と言えないものは何一つありません。そのリテラシーって一体「何」を指し示すのかがよくわからないんです。 まぁ、仮にこれが「何」を指し示すことができない、「実体」を持たないものって考えてもいいんだけど、「実体」をもたないのに、つまり、何ものかを言い表すことができないのに、情報リテラシーが概念としてとりあげられる文脈では、よく「これからの情報教育は情報リテラシーをつけなきゃならん」とか「これからの情報教育では、情報リテラシーを教えなアカン」ということがよく言われますよね。 何ものかを言い表すことができないのに、それを習得させるだとか、それを教えるってことを語り得ることが、少し僕には奇異に感じたりします。さらに言うんだったら、たとえばそれを「教える」ことや「習得」させることができたとして、その人は、どういう判断基準で、ホントウに「それが身に付いたこと」を知り得るのでしょうか。ちょっと哲学的で、小難しい問いですが、そう言う風に思います。
と言うかもしれませんが、これは少し危険なことだと僕は思っています。何となく通じるってことは、逆にいえば、その「コトバ」さえだせば、あらゆる事柄が正当化されちゃう可能性をもっているからです。 なんかよくわかんないんだけど、なぜか人を魅了しちゃって、それ以上の説明を避けることができるようなコトバのことを、「言説」といいますが、まさに、この「リテラシー」っていうコトバも「言説」として機能しはじめているんです。言説研究のチチというか、まぁ、そういうことに関心を持った人に、ミシェル・フーコーというオッサンがいますが、彼なんかがまだ生きていたら、「ていうかー、フーコー、困っちゃう」って言うと思います。言わないってーの。 ちょっと話が抽象的になりましたね。具体的な例をだしてみましょうか。 たとえば、もし仮に、今、校内の研究会とかで実践を発表したA先生っていう先生がいますよね。A先生は、その日の情報教育の実践を発表しました。授業はわりかしオモシロイものだったんだけど、なぜ、そのメディアをこの授業でとりあげたのかが、イマイチわかんない授業だった。で、授業後の研究会で年輩の先生であるB先生は彼にこう言いました。
B先生のこの質問はハッキリ言って痛い質問です。要するに、「なぜ、あんた、ああいう授業をしたの?、僕にはその意味がわかんなかったよ」と言われているってことですから。つまり、授業をしたのに、その授業の意味は、それを見ている人に伝わらなかったってことです。でも、すかさずA先生はいうわけですね。
このA先生のコトバって僕は危険だと思っています。このコトバで彼は、年輩の先生B先生の質問には「答えていない」ことがわかると思います。B先生は具体的に、「あの場面で「あれ」を取り上げたあなたの意図は何ですか?」と聞いているのに、A先生は「情報リテラシー」というコトバ、つまり「言説」で、このあまりに「具体的な質問」を問いずらししています。 つまり、何が危険かっていうと、「実体のないコトバほど、人を何となく納得させてしまう=人からの批判が受けにくくなる」ってことなんです。なんでも「情報リテラシー」て言えば、よくなっちゃう。それで、果たして情報教育という領域における子どもの学びが、より深いものになるかなぁと思うんですね・・・。 あと、もうここまで言ってしまったら、ついでだから言っちゃおうと思うのですが、そもそも、どうも僕には「リテラシー=基礎的な能力」ってところから、そういう「ソモソモ」の根元的なところから疑問があります。 結論から言ってしまいますと、そもそもそんな「基礎的な能力」は存在するのかってことです。 これはあらゆる「基礎的なるもの」に関係する議論なんだけれども、普遍的に、どんな場合でも、どのような状況でも人間が使える能力なんて存在するのでしょうか? たとえば、コンピュータのリテラシーで考えると一番わかりやすいと思うのですが、かつてコンピュータ言語のハナガタと言われたコボルのスキルや知識を持っている人は、その知識やスキルが、今のソフトウェアの開発に直接いかせるのでしょうか? たしかにハードウェアに対する心理的不安なんかはないと思いますが、はっきり言って、現在のオブジェクト指向のプログラミング開発っていうのは、昔のプログラミング開発とは全く違ったドメインですよね、開発するインターフェースもずいぶん違います。 また、開発とまではいかなくても、コンピュータ操作ひとつにとっても、昔と今では随分違います。僕がはじめてコンピュータにさわったのは、今から18年前なのですが、そのころのコンピュータと今のコンピュータでは、ルック&フィールも随分変わってきています。特に、最近のIT業界っていうのは、何から何まで一世代で仕様や規格がどんどんと変わってきます。そういうどんどんと流転するメディアの世界の中で、「基礎的な能力を獲得せよ」っていうのは、どうも説得性に欠けるような気がするのです。 まぁ、リテラシーっていうような「基礎的な能力」が実在するのかってことは、たぶん検証も反証も不可能なので、これ以上、言わないようにしますが、もう一言いうならば、リテラシーっていうのは、人間によって「習得」とか「獲得」される類のものなのかなぁっていう疑問はあります。 むしろ、はじめから「人間はリテラシーづいている」のではないでしょうか。つまり、人間には新しいメディアに対して、それが彼にとって必然性のあるときに、状況に応じてそれに順応し、それを理解し、彼なりの利用を行えるだけの性質というか、素質は最初から存在しているのではないでしょうか。 しかし、それが発揮できないのは、そのリテラシーがアタリマエに発揮できるような「道具づくり」や「環境づくり」や「雰囲気づくり」が、これまでなされてこなかったのではなかったからでしょうか。 たとえば、見てすぐにわかるようなインタフェースをしていない機械に誰もさわりたいとは思わないはずです。Play Station2のように簡単ならば、すぐに普及します。また、ロックアウトされたコンピュータ室では、ジャブジャブとメディアとふれあうことは無理じゃないでしょうか。それに何かトラブルをおこしたときに、「やれ、モラルがたりない」だ「やれ、責任をとれだ」だの言われるようなところでは、人はメディアに触れようとはしないのではないでしょうか。 どうも、僕にとっては、これからの社会に必要なリテラシーというものを「決定」し、「あんた、こんなリテラシーをつけちゃいなさい!」というより、人間がアタリマエにメディアとつきあえるような「場(Ba)」をつくることの方が重要なのではないかなぁと思うのです。まぁ、人間は最初からリテラシーづいているっていう、僕の意見は、若干クレイジーかもしれませんが、どうも僕にはそのように思えて仕方がありません。 --- リテラシーについては、またもや言いたい放題言ってしまいました。なんか自分でもよくわかっていないので、これは最初に表明したとおりなんですが、トンチンカンなことを書いているかもしれません。どなたか教えてください。 |