Essay From Lab : Fragment 6. 物語、学習、そしてテクノロジー

2000/04/06 Update

 
 「物語、学習、そしてテクノロジー」って、アンタ、イカれてるよ

 と言われそうですが、実は、この「物語」、あるいは、「物語る行為」っていうのは、僕の研究をかたちづくる立派な分野であったりします。うちの研究室では、

 それって、まさにナレィティヴ(物語ること)だよねー

 とイカれた標準語で吠えまくっているために、もう僕が「物語」といっても、誰も不思議に思わなくなりました、ていうか、あきらめたんかい! 

 今日は、この物語と学習とテクノロジーの話です。最初に結論から言ってしまうと、以下のようになってしまいます。

 物語や物語る行為っていうのは、実は学習にとって、結構、重要らしいっちゅうしょや。学習を支援するテクノロジーを開発するってときはさぁ、この物語だとか、人間が物語る行為っていうのをコンセプトとしてデザインしたら、結構、イケるかもしれんべさ

 なぜか知らないけれど、結論が北海道弁になってしまいました。でも、「学習」とか「テクノロジー」とか、そういうムズカシイコトバに北海道弁はどうもしっくりきませんね。わかりにくかったかもしれないので、もう一度、箇条書きにしましょう。

 1. 物語、あるいは物語ることは、学習にとって効果的だ
 2. 学習を支援するときには、それを利用すると、結構いいかもしれない。

 言いたいことはたったこれだけのことです。

 さて、物語の説明なのですが、ここで僕は一人の心理学者を紹介しなければなりません。その人の名前はブルーナーというんですが、みなさん、知っていますか。もし心理学や教育学をやっている人で、この人の名前を聞いたことがない、という人がいたら、その人はハッキリ言って「モグリ」です。心理学や教育学をやっているのなら、名前を聞いたことがないってことが「許されない」ほど有名なオッサンです。

 で、ブルーナーという人は何を言っているか、っていうと、こんなことを言ったんですね。

 どうもさ、何でかは知らんけど、人の学習とか思考には、フタツのモードがあるんだわ。ひとつは形式的で論理的な推論を行うモードと、もうひとつは物語モード。

 ここでブルーナーがいった「形式的で論理的な推論を行うモード」のことを、ホントウは「パラディグマティックモード」と言います。後者は「ナレィティヴモード」って言うんですが、その名前はどうでもいいです。要は、なんか人が考えるときには、「論理的な推論」を行うか、「物語」にして考えるか、どっちかなんだってブルーナーは言いたいのですね。具体的にいうと、こんな例はいかがでしょうか。たとえば論理的な方っていうのは、三段論法を思い浮かべてくれるといいんじゃないかな。三段論法は、「A=B、B=C、よってA=C」っていう奴ですね。

 あの娘は、メンクイ
 オレはイケ面じゃない
 よって、あの娘はオレを好きじゃない!、あべし

 っていう感じです。対して、後者の方は、物語っていうか、お話であり、たとえであったりします。どこまでもファンタジアっていう感じです。

 たとえば、僕がいつも思い浮かべる例としては、「ベクトルUFO」っていうのがあるんです。これはなかなかイケてる「ベクトル」の解き方で、北海道の受験生で聞いたことがない人はいないくらい有名です。札幌予備学院という予備校の先生が教えているんですが、この方法を使うと、数学のベクトルの問題が誰でもあっというまに解けてしまうんです。ベクトルの問題を解くときには、「UFO」をヘロヘロと問題用紙のすみっこに書いて、それを問題文にあわしてとばすだけでよいっていう、かなり笑える方法です。数学のベクトルっていうモノスゴク「形式的」で「論理的」な問題が、「ヘロヘロUFOを問題文にあわせてとばす」っていう物語になってしまうんですね。そういうことです。

 あるいは、こういう例はどうですか。たとえば、コンピュータを全然使ったことのない人に教えるときに、僕らはコンピュータのインタフェースを「机」とか「引き出し」とかにたとえるでしょう。ファイルを移動するときも、「こっちにもってくる」だとかって、人間の動作に例えたりするはずです。
 Windowsではそうはいかないかもしれないけど、Machintoshのもともとのインタフェースってそういう「メタファ」をガンガン使用していますよね。
 コンピュータの世界っていうのは、もともとは「A:\」なんていう記号が支配する「形式的」で「論理的」な世界で、なかなかとっつきにくいけど、そういう「メタファ」を使用する、言い換えるんだったら、「物語」にしてしまうことってよくあると思うんです。

 で、ブルーナーは続けます。

 でもねぇ、学校ではさー、ていうかー、これまでのー教育ではー、この2つのうち、物語モードの方は圧倒的に、これまで無視されてたんだよねー。ていうかー、どっちも学習にとっては必要なんだけどー、今まで無視されていた片方をもっと見直そうって感じぃ。

 ブルーナーがいわゆる「女子高校生」風のしゃべりをしたかどうかは知りません。少なくとも、彼は「ガングロ、ヤマンバ、厚底靴」ではないので、あしからず。

 このブルーナーの指摘は、まさにその通りって感じですよね。これがわからない方は、受験のことを思い出してみてください。昔から、物理とか数学とかができる奴って、国語ができる奴よりも尊敬されたと思うんです。物理とか数学って形式的かつ論理的な推論のカタマリみたいなもんですよね。「形式」とか「論理」とかの「粘土」をこねたら、まさに物理とか数学になるって感じです。それができる奴は、なぜか「アタマのよい奴」になってしまうのは、それだけ「形式性」だとか「論理性」だとかいうやつが、教育の現場で重視されていて、かつ、人間が学習しにくいってことなんです。

 でも、実は数学だって物理だって、それができる人っていうのは、形式的かつ論理的な推論に従って、つまりルールに従って、それを解いているわけではないのです。実は、物語をつくって解いたり、何かブッタイを人間にたとえたりして解いたりしているのですね。たとえば、簡単な例でいくと、磁石を子どもに教えるときには、N極とS極がなぜ反発しあうのかを、人間の性に例えたりしませんか。

 男と男は離れるんだよー
 オンナとオンナは離れるんだよー
 でも、男とオンナは、ほれ、くっつくべさー
 えっちー

 って例えるでしょ。誰も、子どもに「同極の磁石同士は反発する」って命題をそのまま教えないわけですね。それはわかりにくいから、そうしないのであって、それを物語にしちゃうと、なぜか人間はスッと「おちる」、つまり納得できるんですね。

 さて、物語が学習にとって効果的だってことはわかったとして、じゃあ、次は物語る行為ってことにいきましょうか。つまり、「語り」ですよね。これも人間の学習にとっては、非常に強力な武器になると、僕は思います。たとえば、何かをやったあとに、それを自分のコトバで意味づけてもらう、そういうこととして、これから「語り」というコトバを使いますが、これが、人間の学習にとっては結構キクわけですね。

 たとえば、僕、女性雑誌とかを見ていていつも思うんですけど、なぜ、あんなに体験談とか恋愛のエピソードが、毎号毎号語られ、それでいて読者にあきられないんでしょうか。話なんて似たり寄ったりのもんなんです。それこそ、純粋に形式的なルールにしたがって、そうした体験談やエピソードを分類すれば、おそらく30通りくらいのパターンしかないでしょうね。でも、なぜか、相も変わらず人は語りたがろうするし、そうした語りを聞きたいと思って、雑誌を買う人がいるわけですよ。

 つまり、何が言いたいかっていうと、人は自分の経験を物語る動物なのです。そうやって、学習しようとしている。で、そうした人の語りをもとに、他の人も学習しようとしている。その語りが迫真性に富むもので、オモシロければオモシロイほど、そうした学習の効果は大きくなるものと思われます。

 なんか変な例をだしてしまったので、ちゃんとした例をだしましょうか。僕の修士論文では、授業を改善したいやる気マンマンの現場の先生をネットワークで結ぶっていう試みをしました。まぁ、ホントウは全然違うんだけど、メールみたいなもので、お互いにやりとりをしていく、そうした中でみんなで授業や教育のことを考えてきましょーやっていう試みをしたんですね。そのときに現場の先生方が書いてくれるメッセージっていうのには、フタツの種類がありました。

 一方は、ひたすら今日一日の授業であった「事実」を羅列して報告しようとするもの。具体的にいうと、「今日の授業の導入はこうで、発展はこうなって、結果はこうなりました」っていうメッセージです。
 もう片方は、授業を「エピソード風」に語るもの。「実はさー今日、あの子どもがこんなことを言ってねー、オレはそのときこう思ってネー、でも、こういうことも考えられたかナー」っていうようなメッセージです。

 これからがオモシロイのですが、これら2つの種類のメッセージのうち、他の先生からのレスポンス、つまりウケがいいのはどっちだと思いますか。僕の試みでは、後者でした。つまり、事実を報告するだけでなく、エピソード風に、物語風に授業を語ってくれた方が、レスポンスをかえしやすく、盛り上がるわけです。結局、僕の修士論文では、このネットワークを3ヶ月運用したのですが、前者の「事実報告」のメッセージの方は、最初の1ヶ月くらいでパッタリと消えてしまい、後者のようなメッセージが大半をしめるようになりました。さっきの話でいいますと、やはりこの場合も、人間は自分の経験をエピソディックに語ることに興味をもち、そして、他の人は、そうしたエピソディックな語りに興味をもち、多くを学ぼうとするのです。

 さて、これまでの話をここでまとめましょうか。重要なことは、物語や物語る行為っていうのは、学習にとって結構重要なんだよってことだけです。それ以外の事例は、忘れてもらってもかまいません。で、最後にこうした事実を踏まえて、それとテクノロジー支援の話にいきたいと思います。

 これはどういうことかっていうと、これまでテクノロジーによる学習支援っていうのは、どうしてもパラディグマティックな方法で行われてきたように思うのです。

 たとえば、CAIっていうのは、その典型ですよね。コンピュータ上に算数のドリル問題がでてきて、それを学習者が解くわけですよ。ナカハラ君という生徒さんにしましょうか。ナカハラ君はアタマがちょっと弱くって、「104−8」っていう計算がどうしてもわかんない。要するに「繰り上がり、繰り下がり」っていう概念が理解できないわけですね。未だに覚えていますが、小学校のときに、僕、この問題、なぜかできませんでした。きっと本気でアタマが弱かったんだと思います。で、当然の事ながら、ナカハラ君は間違えちゃうわけです。コンピュータは答えますね。

 100の位から借りてきて云々・・・

 つまり命題風に、手続きを説明し出すわけです。ハッキリ言って、全然わかんない。

 まぁ、すべてとは言いませんが、テクノロジーで学習を支援するってときに、これまではパラディグマティックな方法が重要視されていたんだと思います。人間のアタマの中は知識やルールの「たくわえ」場所であり、それさえ「たくわえて」おけば、あとはそれを組み合わせることで問題解決をはかることができるハズだって、考えられていたから、そういう支援の仕方が圧倒的に多かったんですね。

 ところが、今まで見てきたとおり、人間は必ずしもパラディグマティックに思考しているわけではなく、時に物語のチカラというか、そういう曖昧で迫真性にとむものによって思考しており、学習しているのです。だから、それを支援するってときには、そう言う物語や物語る行為自体を、テクノロジー開発の設計コンセプトにすると、いいんではないかなぁと僕は思います。

 たとえば、今、チマタで話題になっている「総合的な学習の時間」ですが、教育現場は混乱していますよね。どうやって、それを教えていいのだか、わからないって嘆いている先生方って多いと思うのです。そのときに、「総合的な学習の時間っていうのは、かくかくしかじかの歴史的背景をもっており、それはこういう性格と定義をもっている」と言っても、なかなかわかりにくい。イメージがしにくいわけですね。そうではなくって、「総合的な学習の時間」を実際に授業している例とか、それを既に実践している先生方の語りのパワーをテクノロジー開発に利用できないかって思うわけです。

 情報教育にしても同じです。現場で情報教育ははじまることをターゲットにして、今、いろんな教材がつくられています。中には、パソコンの操作を手続きとして教えるものもあります。ですが、そうではなくって、パソコンを使えばどんなファンタジアが広がるのか、背後にどういう世界が広がっているのか、っていう物語をもって、まずは学習者を魅了してあげる。または、たとえば、その道のプロにパソコンを語ってもらって、そういう事例というか物語の中から学んでもらうっていうのもいいかもしれません。

 最後は結構曖昧になってしまいましたが、僕はそういうことを考えています。方法としての物語に注目して、テクノロジーを開発していきたいと思っています
 


NAKAHARA, Jun
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