|
最初の立ち上げなので、とりあえず5本は書いとこう、と思ったのですが、これで5本目になりますね。「まぁ、これだけよく脈絡もなく、あとからあとから適当なことが言えるもんだなぁ」、と我ながら感心してしまいますが、「とりあえず版の最後」は、ちょっとテレビ、すなわち、これまで「放送教育」と言われていた方面のことについて語ってみたいと思います。「放送教育」が今後どういう風に発展していくのかなぁということについて、僕なりに考えてみたいなぁと思っています。また、最後が「アルビン・トフラー、未来を語るモドキ」になってしまうかもしれません。そうなっても許してくださいね。 でも、ひとつ重大な問題がでてきました。実は、僕、「放送教育」のこと今まで体系的に学んだことがありません。本も数冊しか読んだことがないんです。だから、ここで書くことは、もしかしたら「ついでにトンチンカン」の「間抜作」なみにアホなことを言っていることになるのかもしれませんが、まぁ、誤解を恐れず、とにかく書いてみましょう(ついでにトンチンカンを知らない若い読者の方、是非、読んでください。全くタメにならないけれど、あまりのアホさ加減に腰が砕けます。失恋したときにいいかもよ)。どなたか、これを読んだ方で、「オマエは全然わかっちゃいない、なんだこのタコ!」と思われる方がいたら、是非、教えてください。書いているだけではつまんないので、これをきっかけに仲良くなりたいです、わたくしは。 さて、放送教育が今後どのように発展していくのかなぁということなんですが、結論から言っちゃうと、「放送」という概念が崩れていくのではないかなぁと思うのです。誤解されると困るのですが、それは「教育テレビ」のような「放送」が意味を失うと言っているわけではありません。というよりも、概念が変わると思うのです。概念が変わって、より新しい意味の<放送教育>ができあがってきて、より新しい現代的意義を獲得するものと思われます。 つまり、こういうことです。今まで、放送教育では、莫大な予算をかけて全国の子どもたちにむけて、つまり学校にむけて同じ教育コンテンツをある決まった時間に配信していました。こうした教育コンテンツっていうのは、どうしても市場化できない領域であるために、国が政策としてそれを支援していたと思います。そして、それを見る全国の子どもたち、それを利用する教師たちは「視聴者」と言われていました。 ところが、現代はまさにポストモダンですね。既存のあらゆる意味や物語が、疑いをさしむけられ、再構築されていく、そんな時代であったりするわけです。リオタールという人は、こうした自体を「大きな物語の喪失」と言いましたが、まさに、既存の体制を支えていたような「大きな物語」が解体され、再構築される時代なんだと思います。 具体的には、まず、国家は自らの事業規模を縮小していく政策をとっています。いわゆる新・保守主義という奴で、「小さな国家」をめざし、すべてを市場化原理にゆだねようとするわけですね。かくして、放送教育を支えていたクニという奴が、最近怪しくなってきているわけです。僕、このところ忙しくて、あんまりニュースを見るヒマがなかったのですが、小渕首相、大丈夫ですか。お大事に。 それにテクノロジーの進歩もめざましいですね。特に、コンピュータネットワークの発展は、それを一応専門とするものでさえ、ホントウに予測不能で、「秒進分歩」です。 また、コンピュータネットワークが放送と融合し出すと、これまたもうひとつ厄介なことが起こってくるように思います。それは「視聴者」という概念の瓦解ですね。月並みでホントウに申し訳ないのですが、ネットワークというものは、双方向なものなのです。別に英語にしなくてもいいのですが、英語で言うなら、極めて「Interactivity(インタラクティヴィティ)」が高いメディアなのです。そうなると、一方向的に「送られてくる映像」を「視聴」する人間として位置づけられていた「視聴者」という概念が、どうも変わってくるような気がします。「視聴者」というよりは、「参加者」と言った方がよいかもしれません。 また、放送教育という概念を支えていた「効率性」という概念も、どうも疑わしくなってきているように思います。これは放送教育だけに言えることではないのですが、かつての教育現場では、いかに「独立した個人」の「アタマ」の「中」に「将来必要だと思われるできあいの知識」を「効率的」に「ため込むこと」ができるか、という関心から、様々なテクノロジーが開発され、またコンテンツが開発されてきました。しかし、近年、教育現場ではそうした考え方が見直されているように思います。「独立した個人のアタマの中に知識を効率的にためこむこと」よりも、「複数の学習者たちが相互にかかわりあいながら、知識をつくりだすこと」の重要性が主張されているわけですね。そうした関心から開発されるテクノロジーは、たとえ「ゆっくりとした営みであったとしても、学習者同士が知識をつくりだすこと」を支援する、そうした営みに「必然性」というか「きっかけ」をを与えるという意味において、「効率性」という概念からはほど遠くなってきているように思うのです。 さて、ここまで言いたい放題言ってきましたが、「放送教育」がちょっと揺らいでくるんじゃないかなぁーくらいのことは言えたでしょうか。もちろん、このアタリのことは、放送教育をつくっているディレクターの方やスタッフの方々は、100年も前からみんな気づいていて、日々新しい番組づくりに努力なさっていることと思います。今年度からNHKではじまる学校放送の内容もWebですべてCheckさせていただきましたが、本当にみなさん果敢に挑戦なさっているなぁという思いがして、アタマが下がる思いです。 それでは、これで最後になりますが、「放送教育」っていうのは、今後、どのように変わっていくのでしょうか。前回に引き続き、またもや「未来学」っぽい占いで終わるのですが、すこし僕の思うところを述べさせていただきたいと思います。それは以下の3点に集約されます。
あーあ、また言いたいことを言ってしまいました。本当にすみません。でも、自分のアホさ加減を公開することで、人からご指摘を受けるのが、僕好きなんで、許してください。 第一の「通信」と「放送」のサカイがなくなっていく、という主張は、自信があります。というか、今でも、そうなりつつありますよね。T1程度のネットワーク帯域が確保できて、画質はVHSよりちょっと悪いくらい、それで画像の大きさは320×240(つまり、テレビの大きさの4分の1)でいいというのなら、今でもそうなっています。今後、「ブロードバンド」とよばれる情報伝達様式が主流になってくると、今よりその程度は加速するものと思われます。 第二の「Narrow Cast」とか「On-Demand」とか「Interactivity」についても、それほど説明を要しないでしょう。放送は英語にすると「Broad Cast」ですよね。同じコンテンツを一斉に「ひろく」「多くの人々」に対しておくるっていう意味です。それがおそらく「Narrow Cast」化してくるってことは、それを必要としている人々に対して(On-Demand)、それなりのコンテンツがおくられてくるようになるってことです。 第三の命題が一番説明を要すると思うのですが、結局「NarrowCast」「On-demand」「Interactivity」化してくる放送っていうのは、どういうものなんだろうなぁと考えると、それは「情報を必要としている学習したい人々のあつまり」、つまり「学習するコミュニティ」を対象としたインタラクティビティあふれる放送ってことになるのかなぁと思うのです。 学習するコミュニティのメンバーたちは、ネットワークなどのインタラクティヴなしかけを利用して、放送にまさに周辺的に参加してくるものと思われます。そして、そうした場における放送の意義っていうのは、そうした人々に「正確でできあいの知識」を伝達するっていうよりは、学習する人々が学習を行うときの「必然性」とか「きっかけ」をあたえるような「学びのナヴィゲーター」的な側面にあるのではないか、と思うのですね。 たとえば、今、ここに「環境問題」について学ぼうとしている人々がいる。仮にそういうコミュニティがあったとします。そうしたコミュニティで学ぼうとするときに一番困るのは、それを学ぶ必然性というか、きっかけというか、つまりコンテキストの問題なのかもしれない、と僕は思います。つまり、なぜ「ヨソゴト」ではなく、「自分自身の問題」として「環境問題」について学習するのか、それを学習すれば、どんな世界が自分の目の前に広がってくるのか、そうした世界を垣間見ることで、自分の生き方やアイデンティティがどう変わりうるのか、どうした問いに対して答えを与えてくれるようなコンテキストをいかに提供するか、ってことが実は学習にとっては極めて重要なように思うのです。映像のもつ豊かな物語性というのでしょうか、こう学習者の動機を「喚起(Evocate)」していくような特徴というのは、そうしたコンテキストの提供に最適なのではないかなぁ、と僕は思います。 さて、「放送教育」について僕は全く体系的に学んだことがない、といいながら、またもやツラツラと書いてしまいました。「いい加減にしろ、このタコ!」と思っている方も多いと思いますが、すみませんね。もうそろそろやめようと思いますが、これら3点を満たすような放送のあり方って、一体どんなものなのでしょうね。ハッキリ言って、申し訳ないのですが、全く僕にも想像ができません。でも、だからこそ、これからも考えていきたいなぁと思っています。 |