この本は、Niftyserveが創立10周年を記念した組織した「NIFTYネットワークコミニュティ研究会」の第1期・第2期の成果をもとに編纂されている。研究会のとりまとめにあたったのは、金子郁容(慶応大学)・松岡正剛(編集工学研究所)の両氏であり、その研究会構成員は大学の研究者から、企業の研究者まで非常に幅がひろい。
この本を読んで、筆者が非常に感銘をうけたのは、まず第一に「ネットワークの中での人々の動態」或いは、「CMC(computer mediated communication): コンピュータが媒介したコミニュケーション」を研究する際の、「コミニュティ(community)」という「分析単位(unit of analisys)」である。
「分析単位」とは、研究をする際の分析の「網の目」のことをいう。研究者は、分析の際、分析対象を前にして必ずある「網の目」を恣意的に確定しなければならない。「網の目」にからめとらえた「分析対象」が「リアリティ」を失わないように、その作業は注意深く行われなければならない。「分析単位」という専門用語を理解するには、筆者が、本学前助手の高木光太郎さん(現東京学芸会)から「ヴィゴツキー研究会」の時に、聞いた比喩が参考になる。たとえば、今、あなたが「波の動き」を理解したいとする。その時、あなたなら「何」をみて波の動きを記述しようとするか?おそらく、そえは「水の原子」ではない。また「水の分子」でもない。それらをいくら「見ても」、いっこうに「波の動き」はわからないからである。そして、「波の動き」を理解するために、あなたが「恣意的」に考えた、注目することにしたもの、それを「分析単位」という。
さて話をもとにもどそう。ともかくも、この本における「分析単位」は「コミニュティ」である。それでは「コミニュティ」とはいかなるものであろうか?金子郁容氏は、その著書の中でこう言っている。
『ネットワークを分析し、その動きをとらえるには、ひとりの人、ひとりの企業、ひとつの組織を対象にするのではなく、ゆるやかに伸縮する関係の集合体-それをここではコミニュティとよぶ-をユニット(単位)として考えなくてはならない。』
(同書、15p)
たしかに、これまで、ネットワークは「コミニュティ」メタファで語られることが多かった。しかし、従来の研究でいう「コミニュティ」とは「境界(boundary)」の明示的な「既存の、静的な実体」であり、「境界のあいまいな、動的な関係」をあつかってきたとはいいがたい。近年の認知科学の、特に「状況認知アプローチ」と言われる領域では、この「コミニュティのboundaryの相互構成(mutual constitution)」に関する研究が注目されている。
しかし、仮に「分析単位」を「コミニュティ」とし、それを「境界のあいまいな、動的な関係」としたとしても、これまで私たちは、それを分析する方法論(methodology)をもたなかった。この本は、その方法論にも興味深い示唆を与えている。この本で様々な研究者により採用された方法論は、金子氏によれば以下の通りである。まず、それは「定量的アプローチ」と「定性的アプローチ」がある。
上に記述した、各方法論についての説明は、このページのとり扱える範囲を大きく超えているので、差し控えさせていただくが、「電子の心地」にアプローチする研究方法論の豊かさに筆者は大きな感銘を覚える。また、各方法論が「ある現象がなぜおこるのか?」について積極的に答えようとしていることに、賛辞をおくりたい。
さて、各研究の具体的なことについては、それぞれ参照していただくとして、これらの議論を踏まえた上で、現在の「教育工学」に目を向けたい。
教育工学では、最近になって注目すべき書物が一冊出版された。「質的研究法による授業研究」という本であるが、その本の教育工学分野を担当している大谷尚氏は従来の教育工学が、・実証主義的アプローチに固執するあまり、・社会的・文化的文脈の考慮を欠如させ、・「知見の蓄積=積分性」と理論産出面の弱さをかかえていたことを指摘している。確かに、最近の教育工学の研究をreviewしてみても、大谷氏の指摘する「教育現場」の「社会的・文化的文脈の考慮」はきわめて明らかである。
「社会的・文化的文脈」という言葉の意味するところは、端的に言うならば、「教室の現実」である。多くの教育社会学研究が明らかにするとおり、教室は多様な人々の意図が錯綜する政治的かつ文化的な「空間」である。たとえば、筆者の研究によれば、教師が教室を「学習環境」として把握しそれをデザインする際、そうした環境で営まれるコミニュケーション(発話ジャンル)、活動の「質」は、あらかじめ教師が抱いている「意図」をかなりの程度忠実に反映する。それほどまでに、教師の「意図」は絶大である(中原、卒業論文)。そして、こうした知見は、教室を「真空の空間」とみなす量的研究では、その「実態」をつかむことはできても、その「理由」を可視化することはきわめて困難である。
また、筆者が日頃親しくさせていただいている共著者の山内氏は同書の中でグレイザー・ストラウス(Glaser & Strauss,1967)の質的研究法をとりあげている。グレイザー&ストラウスの方法論は、H.ブルーマーの「シンボリック相互作用論」を下敷きにして、「データ」に根ざした「理論」を如何に産出するか?という問題意識のもとにかかれている。
両氏の議論は、今後の教育工学が、これまでの「生産的な開発研究」に加えて、いわゆる「社会的・文化的文脈」への関心を高めていく「過程」にあることを予見させるものである。その動向は、大谷氏の言葉を借りれば「記述的(descriptive)な知見」から「処方的(prescriptive)な知見」への転換とも形容できる。筆者は先に「電縁交響主義」の諸研究が「ある現象がなぜおこるのか?」という類の問いについて積極的に答えようとしていると評価したが、このことは、パラダイム転換を迎えつつある「教育工学」にもいえることなのかもしれない。
テクストの「読み」は「読み手」によって常に輻輳するが、「電縁交響主義」を読みながら、筆者はそんなことを考えていた。それにしても、かえすがえすも残念なのは、おそらく「公開」されていたであろう「電縁交響主義」を生み出した各「シンポジウム」を聞きにいけなかったことである。
○金子郁容・松岡正剛・岡田智雄・中村雄二郎他共著 1997. 『電縁交響主義』 (NTT出版)
○平山満義他 1997. 『質的研究法による授業研究』 (北大路出版)
○Glaser,B,G & Strauss,A,L. 1967. The Discovery of Grounded theory : Strategy for qualitative research. Aldine 後藤隆・大出春江・水野節夫他(訳) 1996. 『データ対話型理論の発見:データから何を生み出すか』(新曜社)