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2004/11/4 Update 世界の大学危機 本書は、もともと、著者の所属する桜美林大学 国際学研究科 大学アドミニストレーション専攻の大学院生のためのテキストとして編まれた本。
イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ等の大学が、歴史的にどのように生まれ、発展してきたのか。そして、何が課題で、それをどのように乗り越えようとしているのか、について概観している。 筆者によれば「大学が危機に直面しているのは日本だけではない」。もともとは、エリート養成機関として、あるいは、イギリスであるならば階級の再生産のための装置として構築された近代大学。しかし、経済が成長するにつれ、それは激しい大衆化の波にさらわれ、危機に瀕している。 --- 読んでいて印象的だったのは、本当にアタリマエのことなんだけど、「大学」といっても一様ではないのだな、ということ。我々が知る大学もまた歴史的構築物にすぎず、その意味が変容し続けている、ことを知ることができる。 大学は現在、大衆化の波の中で、学問の卓越性を保持し続ける、というアポリアを課されている。どこかに「大学とはかくあるべし」といった万能な規範があるわけではない。それを海外に求めてみても、それ自体が様々な問題を抱え変容を余儀なくされている。畢竟、大学の未来をつくるのは、今の大学に関与する同時代人たちである。 2004/11/3 Update 現代大学生論:ユニバーシティブルーの風に揺れる 僕にとって、読書は仕事である。だいたい新書1冊であれば、行き帰りの電車の中で「読み」終える。「読む」といっても、それは文字通りの「読む」ではない。 研究が一応仕事であるから、一ヶ月に本当に膨大な書籍や資料に目を通す必要がある。だから、僕の読書は、いつも悲しいかな、それは職業的な「読み」にならざるを得ない。ざっと目を通して、書籍の中でもっとも重要な部分を抽出するような読み方になってしまう。 しかし、そんな中でも、オモシロイ本はじっくり「読んでしまう」。アメリカにいた頃に、著者の溝上さんから献本頂いていた本、「現代大学生論」は、そんな本のひとつであった。本当にじっくりと時間をかけて読んだ。 著者も述べるとおり、この本の要旨は「アウトサイド・イン」「インサイド・アウト」という2つの大学生の生き方にある。この概念については是非、お読みになっていただきたいのだが、従来の大学生は、外部世界に準拠して自己の心的同一性を確保する「アウトサイド・イン」であった。それが、今、「インサイド・アウト」へと変容してきている。「わたしが何をしたいのか」「私とは何か」というインサイド・メンタリティを若者たちが重視しはじめた。溝上さんは、各時代時代の「大学生論」や「社会状況」を歴史的にひもときながら、その変容のプロセスを記述している。 中でも印象的だったのは、下記の点である。 彼によれば、従来の大学生論、大学生の語られ方が、「大学はレジャーランドである」「大学生は遊ぶことしかあたまにない」など、数十年前に確立された言説のもとに構成されているのだという。しかし、そろそろそのような大学生論も曲がり角にきている。なぜなら、現代の大学生は、何よりも学業を優先するまじめな学生、そのまじめさ故に、いかに生きるべきかを見失う学生 - いわゆる「ユニバーシティ・ブルーの風に揺れる学生」が多くなってきている傾向にあるからである。それなのに、多くの教育改革、大学生論は今をまさに生きている大学生像に迫っていない。著者の指摘は鋭い。 大学の教育改革を考えたいと思う人とって、本書は、必読であると思う。 それにしても、溝上さんの精力的な仕事には感服した。彼がとても、信じられないくらいに忙しい人であることは知っている。いったいどこに、このような著書を書く時間があったのだろうか。そのことは、不思議でたまらない。今度、飲む機会があったら、是非、そのことをお聞きしたいものだと思っている。 2004/05/1 Update 学習科学とテクノロジー 先日、AERA2004で入手した本たちを、ようやく読み終えた。Learning sciences & Technologyに関する、比較的最近の本たちだ。 ワインを飲みながら読んだので、多少酔っぱらっており、時に「うむむ、このデータはすごい」「ほほー、アンタはエライ」とか吠えながらの読書!?であったが、楽しい時間であった。まさに、エンジョイよ。
帰国後、これらの本をネタに勉強会をしてもいいかなと思っている。いつになるかはわからないが。 2004/04/29 Update Communities of practiceの、あるいは、Knowledge Managementのサクセスストーリーとして、よく引き合いにだされるのがバックマンラボラトリーである。 バックマンラボラトリーは、従業員1800人。メンフィスに本社をもち、23カ国にラボをもつ多国籍企業。製紙会社などから化学に関する研究開発を委託されている。 バックマンの化学者、技術者たちは、仕事に行き詰るとK'netixとよばれるオンラインフォーラムに集う。世界中から集まった技術者たちが、自らの専門性や経験を持ち寄り、オンラインで議論し、研究開発プロジェクトに従事する。かくして生まれる新技術は年間で20以上、年商400億を超える。 本書は、そのバックマンラボラトリーのCEOが、どのようにKnowledge Sharing Cultureを社内につくりあげていったのかを解説している。
2004/05/01 Update Organizational Behavior(OB)についての入門書。非常にわかりやすく、示唆にとむ。コンピタンシー、モティベーション、キャリア、評価、リーダーシップなどの概念を平易に解説する。これらの概念をいい加減に解説する本は多い。また、必要以上に難解に解説する本も、これまた多い。その意味で、この本はとても貴重だと思う。 時に力強く書かれている文章からは、OBに対する筆者らの思いがあふれ出ている。また、挿入されているいくつかの引用は、「研究すること」そのことに対する示唆に富んでいてオモシロイ。
2004/04/01 Update 本のタイトルとなっている「アーサー王」は、騎士たちを円卓にまねき、様々な政治をコラボレーションによって解決しようとした型破りな人物。この本の主題である「協調的な会話は、組織をいかにスマートにするか」の象徴的な事例として何度も繰り返し語られている。 パーキンスによれば、組織とはインタラクションから構成されている。組織の知性とは、メンバーが自らの専門性や経験を、協調的な形式で持ち寄り、シェアできるかに依存している。 しかし、そうはいっても「人が協調すること」はとても難しいことである。コラボレーションに相互にコミットするという文化と、そうしたコラボレーションを率いるリーダーシップが欠かせない。 本の内容はだいたいこんなところか。 --- 一口でリーダーシップといっても、様々なものがある。 2004/03/11 Update Emotional design 今年のお正月に出版されたドナルド=ノーマンの「Emotional Design」を読んだ。 ノーマンといえば、認知科学の生みの親のひとりであり、元・アップルフェローであり、かつ、「誰のためのデザインか?」などのベストセラーで知られるカミサマみたいな人である。 人間には、Cognitive systemの他に、意志決定に影響を与えるAffective systemがある。道具やインタフェースは、Cognitiveにわかりやすく使いやすいだけでなく、Affetiveに快いものでなければならない。結局、Usabilityとは、Emotionの影響を強く受けてしまうのだ。だから、人工物のデザインは、Pleasurebleで、Funで、Enjoyableなものでなければならんぞ、というのが、本書の骨子であろう。様々な事例や、3種類のデザインモデルなどを用いて、この主題を繰り返し説明していた。 僕の中で前作との整合性はまだとれていないけれど、読んでいてオモシロかった。賛否両論はあるだろうが、オモシロイ。まさにEmotionalにDesignされている本である。 本書の一番最初にでてくる「決してお湯を注げないポット」が欲しい。
2004/02/18 Update 物語とe-Learning 人は物語(ストーリー)から学ぶ もし仮に、僕が、「あなたの研究の背後仮説は何ですか」、と問われたなら、真っ先にあげる命題がこれである。 エスノグラフィーを書いたいた学部時代、そして、教育工学研究に取り組み初めた大学院時代、さらには書籍執筆の機会を得るようになってからも、僕のアタマから、この命題が離れたことはない。 先日、ある雑誌でロジャー=シャンクの対談原稿に出会った。おー、これはよい機会だと思い、シャンクの書いた下記の本を開いた。前はとばし読みしていた導入部分を読み直した。 この本、シャンクが自らの理論に基づき、e-Learningに書いたものである。「e-Learning by doing」という彼の哲学がビシバシと反映された本で、事例も豊富。大変読み応えがある本だ。 僕が特に印象深かったのは下記の1文。
そうなんです、これよ、これ。 僕の背後仮説のキーワードが「物語」であること、そして、これまで執筆してきた書籍などで、なぜ、学び手や作り手の「生の声」にこだわるかってきたかは、すべてこの思いに由来するのです。 人が本当に何かをわかるためには、まずは、その人の内側から発せられる、その人の声に耳を傾けてみる。そして、あたかもその人に「なってみる」。それは決して怪しいイカサマチックなことではなく、人間の記憶形式が物語的である故に生じることなのだね。 で、シャンクさんはe-learnig教材をつくるとき、徹底して関係者のインタビューにこだわるわけです。失敗事例も含んだ、試行錯誤シミュレーションを中心とした教材をつくるわけ。この本には、彼の教材の開発方法の実際、それをもとに開発した教材のインタフェース画面等についても載っています。 2004/02/17 Update 実践共同体(Communities of practice)
上記のような理念的、概念的問いの先には、下記の問いが待ち受ける。
一般に、エティエンヌ=ウェンガーの主張する実践共同体は、「インフォーマルな集まりで、どこからともなくニンニキニキニキと人が集まって、ある日突然、智恵をつくりだすかのような組織体」として理解されているが、これは全くの誤解である。 ウェンガーがいみじくも述べるように、そこにはいわゆる「マネジメントのパラドクス」が存在する。 それは相互貢献に基づく自発的な発展を見せるが、決して、「真空」の中に生まれるものではない。それをカルティベートするためには、コミュニティを見極め、育て、インフラを整備し、評価していく必要がある。 僕の研究は、協調学習研究である。人々がいかにして協調して学ぶかを考えることは、「学習者のコミュニティをどのようにしてつくるか」について考えることでもあった。数少ない僕の経験から言っても、この指摘は恐ろしく正しいと思われる。 また、ナレッジマネジメント、ナレッジクリエイション、知識コミュニティ、blogコミュニティ、コミュニティ・マネジメントなどなど・・・今日も生み出される、様々な造語と「実践共同体」を全く別の領域を扱った概念として考えることは、間違っているように思う。 よいコミュニティでは、知識も創造される。知識が創造され、そこに優秀なファシリテータがいれば、そこで生まれた知識は、コミュニティメモリーとしてアーカイブされ、マネジメントの対象となることもある。そのインフラとしては、最もよいふさわしいツールが選択されればよい。 要するに何が言いたいかというと、こうした似た概念は、それぞれが全く異なっているものではない。人間は人間であり、彼/彼女が生み出す知識は知識。学習は学習である。 こうした造語の中には、同一の問題領域を論じる際に、それを語る側が言説の差異化を行うために、政治的かつ経済的に生み出された概念であるものもある。振り回されてはいけないと僕は思う。 要するに、何が目的で、どんな人たちを集め、どんな活動のもと、何を生み出したいのか?という根本的な思いが、コミュニティをつくりだす側に問われている。 実践共同体をどのようにしてつくりだすか? 下記の本は、このアポリアに取り組む上で参考になると思われる。
なお、僕がHarvard bussiness reviewの論文を読んだときにつくったメモを公開します。このメモ、あくまでメモで、翻訳ではありません。僕自身の意見や問題の捕らえ直し、自分の研究に引きつけた拡大解釈などが随所に確実に含まれています(どこに入っているかは忘れた・・・)ので、くれぐれもご注意ください。引用などを行うときは、必ず原典にあたってください。 2004/02/02 Update オトナの学習 オトナの学習について考えるための2冊を紹介。どちらも刷を重ね、もはや古典となっている。Merriamの書籍では、1)成人教育機関の分類、2)成人がそのような参加するプロセス、3)加齢と発達などのように、対象者がオトナである故に取り上げるべき問題が、扱われている。その一方で、3)人間の学習のメカニズムなどのようによりジェネラルな知見もまとめられている。Knowledの著作は、彼の打ち出した成人教育学の知見の集大成。どちらかといえば、前者を読んでから後者を読んだ方がわかりやすい。
2004/02/05 Update 続・インストラクショナルデザイン インストラクショナル・デザインについては、前にも特集しました。 日本でも2年ほど前からでしょうか、ID(アイディー)、IDer(アイディヤー:インストラクショナルデザイナーのこと)という言葉、いろいろな人の話から聞くようになりました。日本にはIDerがいない、という指摘が、いろいろなカンファレンスでなされていますね。 ところで、このインストラクショナルデザインに対して、僕自身の感想を述べますと、以下のように一言で表せます。
上記のように、インストラクショナルデザインは教材開発のメソドロジーとして役にたつと僕自身は思っています。多くの人はそんな感じに思って居るんだろうと思うんですけど。 ですが、インストラクショナルデザインに対する批判は、随分前からあります。最もラディカルな批判は、「そもそも教授・学習過程をデザインすることはできない」、つまり教授のデザイン不可能性について言及したものですが、ここでは、あまり建設的ではないので、それには触れません。それをいっちゃ、おしまいだろ、と思うからです。崩壊するものは、インストラクショナルデザインだけではすまんぞ。 米国国内で典型的に展開されている批判は下記のとおりです。
まぁ、どの批判ももうーんなるほどね、というところもあり、そうかぁと思うところもある。イチャモンチックなところもあるわな、中には。 というわけで、既述したとおり、これは一度やってみた方がいいと思うんです、自分で。やってみて、ふむふむ使えると思えば、使えばよい。使えないと思えば、使わずともよい。僕はそう思います。 あんまり難しいことではないと思うのです。たとえばお子さんがいらっしゃる方ならば、単元のひとつを教えるときに、インストラクショナルデザインのプロセスの一部を意識して教えてみればいいと思います。 下記は、海外でインストラクショナルデザインの教科書になっているという書籍のリストです。
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NAKAHARA,Jun
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