「本当の自分」は決して見つからない!?:「生きる意味」より「死なない工夫」!?

 僕が大学時代に学んだことのひとつに、

 「本当のちょめちょめとは何か?」
 「真のほにゃららとは・・・・・何か?」

 という問いの立て方を疑えというものがあります。

 これをむちゃくちゃシンプルにワンセンテンスで述べるならば、

 「本当の・・・・」
 「真の・・・・・」

 というものは、たいてい「怪しい」ということです。

 このことはややこしく言えば、「形而上学的な問いの立て方」をするんじゃない。たとえば構造主義的に物事を見なさい、ということになるんでしょうが、今、ここの段階では、そういう「ややこしい問題」は、うち捨てておきましょう。

 現在は、オックスフォード大学で教鞭をとられている苅谷剛彦先生(社会学)から、僕はこのことを学びました。

 昨今、センセーショナルなタイトルで新書「文系学部廃止の衝撃」を上梓された吉見俊哉先生(社会学・・・わたくしめの上長です)ではないですが、人文社会科学をで獲得できるものが「視点」や「視座」や「価値の相対化や創出」であるのなら、僕は、人文社会科学学徒のひとりとして、こうした「視点」を学びました。


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 先日ふとしたところで、南直哉さんの書かれた「老師と少年」という新書を手にしました。
 

 老師と少年は、思春期なのか「本当の自分とは何か?」「生きるとは何か?」などの崇高な問いについて思い悩む少年が、ある老師の庵をおとずれ対話をしていく物語です。
 少年の素朴な問いーしかし思い悩む問いーに対して、老師がかえす言葉がひとつひとつ重く、なかなか味わい深く読むことができました。

 「本当の自分とは何か?」について思い悩む少年に、老師は言います。

 「本当の」とつくものはどれも決して見つからない。
 それは「今ここにあること」へのいらだちにすぎない
 (p34)

 なかなか刺さる一言です。
 前段の「本当のちょめちょめ」「真のほにゃらら」を疑え、という内容がここでも出てきます。老師によれば、「本当の・・・」とつくものは「今ここにあることの苛立ち」だといいます。

 その上で老師はいいます。

 「本当の自分」を永遠に知ることはできない。
 「会ったことのない人」は探せない。
 (p32)

 もし本当の自分があるとすれば、
 「わたしという物語」をつくらせる病としかいえない。
(p33)

なるほど。ここで老師が言いたいのはこういうことでしょう。

 自ら逢ったことのない「本当の自分」に、相対したときに、逢ったことのない自分は、それが「本当の自分」であると同定できない。

 また「本当の自分」とは「わたしという物語」をつくらせる病のようなものである

 老師はそう喝破します。
 ここから先は、書籍の方をご覧いただきたいのですが、最後に老師はいいます。

 大切なのは答えではなく、
 答えがわからなくてもやっていけることだと、彼が感じることだ
 /やっていく方法は自分で見つけるしかない。

 「生きる意味」より「死なない工夫」だ
 (p112)

 うーん、渋い。

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 今日は、「本当の・・・」という問いの立て方を疑え、というお話しから、南直哉著「老師と少年」について感想を書きました。

 いつか我が子が大きくなって、「本当の自分」を探しはじめたら、渡してあげたいなと思う良著でした。

 あなたは「本当の自分」を探していませんか?

 そして人生はつづく