コーチングとは一体「誰のもの」なのか?

 コーチングは「リーダーシップ開発」にどのような効果をもたらすのだろうか?

 関根さん(ラーンウェル代表・中原研OB)、舘野さん(立教大学)、斎藤さん(中原研M2)らが中心になって、ここ最近のコーチングに関する実証研究(英語論文)をよむ研究会が、東大で、1月・2月・3月と月1・3日間にわたって開催されています。

 こちらには20名程度の、志ある実務家・研究者の方々にご参加いただいております。心より感謝をいたします。

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 研究会では、みんなで手分けしながら、

 コーチングがリーダーシップ開発に対してどのような影響を持っているか?

 という実証研究の知見をザザザと読んでいます。リーダーシップ開発の手段のひとつとしてコーチングが用いられるようになって久しいですが、その効果とはいかほどか。最近の英語論文を手分けして読んでいます。

 僕自身も英語文献要約を担当していますが、こうしてまとめて知見を読むことはないので、とても勉強になります。

 しかし、個人的にはそうした実証研究の議論もたしかに面白いのだけれども、コーチング研究には、もうひとつ大変興味深いことがあります。

 それは、

 コーチングとは、いったい「誰のもの」なのか?

 という素朴な問いをめぐる答えが、それぞれの論文や著者によって「微妙に異なっている」だろうことが予想できることです。
 
 それは「表だって」表面化しているわけではありません。でも、たとえば変数のとり方や、論文の書きっぷりから「コーチングに対して、この著者がどのような思いをもっているか」が推察できるのです。

 もう少し具体的に申しますと、

 コーチングとは

  どんな専門知識や技術を有している「誰」が
  どのような資格制度のもとで
  サービスのクオリティや品質を担保され
  どのような権限で他者に介入することが

 許諾されるのか?

 ということに関して、コーチング研究の関係者の中には「考えの違い」が多いのではないかと考えます。
 
 ものすごく「極」にふった議論をいたしますと、敢えて先ほどと「逆方向」に考えた場合は、こうなりますね。

 コーチングとは

  専門知識や技術など必要のない
  在野の発達支援技術であり
  徹底的なアマチュアリズムによって運営されるべきである
  よって、質やクオリティには差があり
  かつ、
  どのような人にコーチされるかによって
  その後の効果もポジにもネガにもかわりうる
  しかし、
  それが「コーチングらしい」ってことなんだ
  そもそももともと
 「コーチング」ってそういうムーヴメントから生まれたじゃないか

 いかがでしょうか。
 コーチングに関して先ほどとは「逆の発想」をする場合も、まったくゼロではないんだろうなと思うのです(もちろん、クオリティは高ければいいにこしたことはないのですが・・・)。

 実際は、先ほどの「プロフェッショナリズム文化」と「アマチュアリズム文化」のグラデーションの中の「どこか」に、コーチングを為す人々のそれぞれの考えが「定位」しているのではないでしょうか。

 論文を読んでおりますと、こうした事柄関して、コーチング研究業界?内部に、様々な「葛藤」が見て取れるような気がいたしました。

 もちろん、すべての葛藤が論文上に明示的に記されているわけではないですが、丹念に実証研究を読み込んでいけば、このことは、研究会の誰しもが感じることではなかったかと思うのです。

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 よく知られているように、コーチングは1960年代の人間性回復運動(Human Potential Movement)、アブラハム・マズローらの人間主義心理学、ロジャースらの来談者中心療法、さらにはヒッピーを代表とされるカウンターカルチャー(対抗文化)の中に、その萌芽をみてとることができます。
 
 それは、当初、人間の内部に「内なる力(Natural Resource)」が存在し、それを伸張させることができるとする、ある種の信念のもとにはじまったムーヴメントでした。
 そのムーヴメントの中心地のひとつが、カリフォルニア州・エサレン研究所であったことはよく知られている事実です。

 文献を読んでおりますと、このことを理解するためには、当時の時代背景に関する理解が必要になります。

 時代はベトナム戦争が泥沼化している真っ只中。
「体制に対する抵抗」「他者に管理される自己」からの逃避、「自己成長を重視する価値観」、そして、「アマチュアリズムを尊ぶ価値観」「反専門家論」などが根源に存在していることが、容易に見て取れます。
 これらの価値観は「役に立つものの折衷主義」「科学的探究に対する猜疑心」などの価値観と共振しながら、当時、様々な「自己成長のテクニック」を生み出しました。

 コーチングは、もともとそうした起源のなかで生まれた副産物でしたが、後日、ビジネスに取り込まれ、商業化、体制化され、組織化され、紆余曲折をへて、今に至っていることはよく知られていることです(少なくとも海外では)

(ここは本当はめちゃくちゃ興味深いプロセスなのですけれども、短いブログでは、はしょります。去年の夏から、僕は、この関係の本を、日本語・英語あわせて乱読していました。ようやく出口が見えてきて、コーチングの歴史や思想に関する全体像が見えかけてきたような気がします。ちなみに、これはワークショップとよばれる「在野の学習」の起源でもあり、組織開発の源流でもあると思います)

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 論文の中では、

 コーチングとは、専門知識をもったプロフェッショナルが為すべきものである

 とする人々(Professional Coaching)と

 いやいや、

 コーチングは、一般の市井のビジネスパーソンやマネジャーが為すべきものである

 とする人々(Managerial Coaching / Developmental Coaching)が、それぞれの背後仮説を隠しながらも、さまざまな実証研究を展開しています。

 いや、表だっては何もないんですよ(笑)。
 でも、コーチング関係の論文を読んでいると、

「なぜ、この著者は、このリサーチクエスチョンを提示したのかがわからなくなるとき」

 があります。

 そんなときには、論文の背後に「コーチングとは誰が為すのが正統か?」ということに関する「支配的な考え」や、それに対する「抵抗」がみてとれるような気がします。

 ちなみに、このことは、Cox et al(2010)らのハンドブックの「コーチングの将来」に関する一節においても展開されていますね。

 この一節で展開されているのは

 コーチは「専門職」かどうか

 ということに関する議論になります。

 ま、論文上、あるいは文献上、「表」だって何があるわけではない、別に何もないのですが(笑)、一口に「コーチング」と言っても、それぞれの「背後仮説」は、相当に違っているのだろうな、と勝手に推察しました。これは、僕だけではない、研究会で多くの方が痛感したであろうと推察します。

 コーチングとは、いったい「誰のもの」なのか?

 そしてもう一歩、問いをすすめるのであれば、

 コーチングとは、いったい「誰のためのもの」なのか?

 まことに興味深いことです。

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 今日はコーチングについて、つらつらと書きました。

 研究会は3月にあと1回ございますが、引き続き学んでいきたいと考えています。
 インプットの機会は僕にとってとても貴重です。関係者の方々、参加者の方々に心より感謝を致します。ありがとうございました。

 そして人生はつづく