OJTは「人材育成課題」の「ゴミ箱」じゃない!
ちょっと前のことになりますが、人材育成に関するあるフォーラムに登壇させていただいた際、その内容で少し考え込んでしまったことがあります。
催しは、新人育成ーとりわけOJTに関する内容紹介をするもので、新入社員が入ってくる4月、OJTをどのように運営していけばいいのか、ということに関する内容が主に扱われておりました。
そのなかで、ある方が、こんなご質問をなさったことを印象深く記憶しています。
曰く
「最近の新人は、新しい発想でモノを考えられない。これをOJTで何とかできないか?」
僕は、比較的、「今の若い人達は優秀だな」と思って仕事をしているので、「へー、そんなものかいな」と思って話をうかがっておりましたが、ここで、ハッと思い当たる部分がありました。
一般に人は、OJTに対して
どこからどこまでを「期待」しているのだろうか?
ともすれば、OJTは「過剰期待」されていないだろうか?
OJTは「ひとにまつわる課題」のすべてを
背負わされていないだろうか?
すなわち、
OJTに「できること」は何で、
OJTに「できないこと」は何なのか?
これを明らかにしつつ物事を思考しないことには、
OJTは「人にまつわる課題」のゴミ箱
のようなものになってしまう
のではないか、と考えてしまいました。
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この問題にゆるく関連する内容は、以前、記事にしたことがございます。
「OJTはパワフルだけれども、泣き所もある人材開発手法」なのだよ、ということを論じた雑文です。少し長くなりますが、引用しますと、OJTの泣き所は、下記の4点になります。
OJTとは「お前が(O) 自分で(J) トレーニング(T)」!?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20160213-00054364/
1)OJTの学習効果は「師」に依存する OJTは「師- 部下間」において行われるため、外部から第三者が介入を行うことは難しいといわざるをえません。師の思うところによって、そして、師の考えにしたがって、教育が行われます。その学習効果、教育のクオリティは、「師のあり方」に大きく依存します。2)師の能力を超えることは、学べない
OJTは原則的に「師と部下間」のブラックボックスにおける閉じられた学びです。「師のわからないこと」「師の知らないこと」は、OJTにおいて学ぶことはできません。
OJTとは、そもそも「師の知識・経験がなかなか色褪せてしまわないような安定的な領域」に向いている教育のあり方です。
師や部下の存立している場所が、「不確実性の高い領域」であったりする場合- すなわち、上司にとっても「わからないこと」「知らないこと」が生まれやすい知識流動性の高い場所においては、OJTはあまり向いていません3)学習の起こるタイミングが「偶然」に依存する
部下が何かのミスをする。そうした「偶発的な教育的瞬間」に、上司と部下がともに居合わせ、さらには上司が適切なフィードバックを行ったときに、OJTが奏功します。
ということは、OJTが奏功するための条件としては、「上司と部下がともにいる時間が長い」ということになります。
伝統工芸の師弟関係を見ればわかるように、ともすれば「生活時間」をともにするような「長時間」の人間関係が、OJTの奏功する条件です。4)OJTはともすれば「単なる労働」に変わり果てる
OJTのもっとも深刻なことは、それが「単なる労働」になり果ててしまうことです。
メタファを使って言うならば、OJTは「Learningful Work」でなければならないのですが、それが容易に「Learningless job(学びもクソもへったくりもない、単なる労働)」になってしまう、ということです。
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今日の話題は、このうちの2番の「泣き所」に関連しているのかなと思います。
要するに、人材開発手法としてのOJTは、一般に
「師の知識・経験がなかなか色褪せてしまわないような安定的な領域」
に向いていて
「不確実性の高い領域ー師にとっても「わからないこと」「知らないこと」が生まれやすい知識流動性の高い場所」
には向かない
ということです。
もちろん、これはやり方にもよるかもしれません。
が、一般には限られた時間のなかで、対人関係を基盤にして実施されるOJTは「社会化(組織に染めること=組織の一員になってもらい、仕事を覚えること)」の手法としてはパワフルであるものの、それ以外の領域には拡張することはなかなか困難に思えます。
よって、
「最近の新人は、新しい発想でモノを考えられない。これをOJTで何とかできないか?」
という冒頭の願望は、僕には、少しだけ「過剰期待」に感じられるのですが、いかがでしょうか?気持ちはとてもよくわかりますけれども。
そもそも、
OJTを提供する側、管理者側は「新しい発想でものを考えられる」のでしょうか?
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今日はOJTに関する「過剰期待」と「泣き所」について考えていました。くどいようですが、運用を間違えなければ
OJTはまことにパワフルな手法
であり、かつ、日本型組織の慣行にそれなりに準拠し、フィットしたものであると考えます。
しかし、拡大に拡大を重ねるとき・・・
OJTが「ひとにまつわる課題」のゴミ箱
になってしまわないか、
あるいは
OJT指導員が「人にまつわる課題」のゴミ箱の清掃員
になってしまうことを懸念します。
ま、これは、机上の空論で、僕の取り越し苦労かもしれませんが(笑)。
そして人生はつづく
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投稿者 jun : 2016年2月17日 06:28
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