「支えるためのコーチング」、そして「別れのコーチング」!?

 先日、コーチングとリーダーシップ開発に関する研究会が東京大学で開催されました。
「コーチングによるリーダーシップ開発」に関する最近の英語文献をザザザと読む研究会で、20名程度の方々にご参加頂きました。
 ご参加頂いたみなさま、会を主催頂いた関根さん、舘野さんには心より感謝をいたします(ともに中原研究室OB)。ありがとうございました。

(それにしても時代が変わりましたね。研究者に入り交じり、人事の実務家のみなさんが多数参加し、英語で原典にあたり直接情報を仕入れる世界は、わずか10年前はそう多くなかったです・・・感無量!)

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 研究会ではさまざまな議論がし尽くされましたが、非常に興味深かったのは、

 コーチングによってサポートをいかにするか?

 という視点ではなく(それも面白いのですが)、

 コーチングによるサポートをいかに解除するか?

 という視点です。

 要するに、自律をうながすための外部からの働きかけをいかに「フェイドアウト」させ、実質的な「自律者」に育てていくのか、という視点が、個人的には、もっとも興味深かったことでした。

(あとで述べますが、これは、今僕がとりつかれている「マイブーム」が関連しています)

 もうすでに「自律的な自己」であるのにもかかわらず、いつまでたってもコーチに「依存」している。
 コーチのほうはコーチのほうで、もう自律が可能な段階に入っているのにもかかわらず、クライアントを失いたくないので、自律させない。
 こうした「共依存」ともいえる関係をいかに避けるかが、もっとも興味深いことでした。

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 少し文脈は異なりますけれども、これに類する研究は「メンタリング研究」にございます。

 メンタリング研究で著名な成果をあげたキャシー=クラムは、Academy of Managementの論文のなかで、メンタリングの発展プロセスを理論化しています。

 キャシー=クラムによると、メンタリングの進展とは下記のようなプロセスをとります。

1.開始段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる

2.養成段階
 ・キャリア的機能(組織階層の上昇移動)
 ・心理社会的機能(アイデンティティの確保)

3.分離段階
 ・構造的な役割関係や感情面での大きな変化

4.再定義段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
 ・分離段階をへて関係性が終了するか、相当違った
  性格をもつ、同僚関係への移行

 ここで、僕が気になるのはやはり「分離段階」です。
 ここで、メンター(助ける側)とメンティ(助けられる側)の関係は、「緊張」状態に入ります。

 それまでメンターに助けられ、キャリア的にも、心理的にも、ようやく自律をなしとげられたのにもかかわらず、その関係に「緊張」が走るのです。

「もう自分は自律しているのに、いろいろ、外からピーピー言われつづけるのもな」

「もうあいつも一人前になったのに、今までと同じように自分の時間をこれ以上削るのもな」

 といった役割変化や感情の変化が両者に生まれ、一時的に関係にひびがはいります。最悪の場合は、そこで関係が終わりということもないわけではありません。

「いかに支える」のは大切ですが、「いかに別れる」かが重要なのです。

 以上はメンタリングの話でしたが、おそらくコーチの方も、そのようなことが言えるのかな、とも思います。
 コーチングの方は、しばらくは相互に合意していた目標を、より高めていくことがしばらくつづくのでしょうけれども、どこかでその支援関係にはフェイドアウトの時期がくる。

 相手が自律的に動いていくために、いかにサポートを解除するか?

 個人的には、そんなことを思いながら、研究会を過ごしていました。

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 最近、僕は、「ちゃんと別れること」に興味引かれており、「通過儀礼論」などをよみなおしています。

「通過儀礼研究」ではよく知られているように、「大人への階段をのぼるためのイニシエーション」には、クラムの主張に類するようなプロセスーすなわち「分離することー移行することーふたたび自己をつくりなおすこと」のプロセスが内包されています。

 もっともよく知られているのは、ヴァン・ヘネップ「通過儀礼」論であり、ヘネップによると、通過儀礼は、

 1.分離期
 2.移行期
 3.統合期

 の3つのフェイズを辿るのだとしています。

 ヘネップの議論を継承したヴィクター・ターナーは、このうちの「移行期」に着目しました。ターナーによれば、人は「移行」をなすとき、コムニタスとよばれるプロセスを経験するといいます。

 コムニタスとは「かつての自分」でもなければ、「これからの自分」でもない人々が経験するのは要するに「日常の社会構造とは異なるような反構造の自由で平等な民主的な社会関係」です。

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 大人になるとは「不条理な世界」への入口に入ること
 そして
 時代が時代ならば
「戦士」として戦うことへの「入口」でした。

「のっぴきならない不条理」さと「生きるか死ぬかの世界」で、自分の頭で考え、生きていくということが、「自律」ということの本質です。

 そのためには、一時的に人は「他律」を必要としますし、また、その準備段階には、日常の社会構造とは異なる擬似的民主的な人間関係を経験するのかな、と思います。

 問題は、いかにそれを「解除」するか
 そして大地に一人たつことができるのか

 ということなのかなと思っています。

 そして人生はつづく