「してもよいこと」を認める免許、「できること」を支える試行錯誤!?
先だって書店で「ぼくは猟師になった」(千松信也著)という不思議な本を手に取りました。
この本は、著者が大学在学中に、「猟師」になりたいと考えるところからはじまります。狩猟免許をとり、猟友会の人々や様々な人々との出会いの果てに、罠による狩猟を覚えていくプロセスを綴った本です。著者の狩猟・野生動物に対する愛情が、ここかしこにあふれている著書で好感が持てました。
まずは、へー、こういう世界もあったんだ、と思いました。ふだん何気なく食している肉が、こうしたプロセスで狩猟され、加工されていくのかと興味を持ちました。
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しかし、最も個人的にもっとも印象深かったのは、実は狩猟の部分ではありません。
何でも自分の専門に引きつけて考える「悪い癖」があるので、そういうセンテンスだけがハイライトされてしまうのかもしれませんが(笑・・・僕は、24時間、何をみても聞いても、自分の専門の人材開発のことしか頭に浮かびません。こういうのを専門バカ?というのかもしれませんね。)、僕が印象深かったのは、
狩猟免許はあっさり取れるものの、免許をとっただけでは、何一つ狩猟を行うスキル・技量がない
という事実と、
狩猟の技術は、猟友会やその他の先達との出会いと、彼らによる教え、さらには自己の試行錯誤によってしか、学べない
ということです。
実際、著者はごくわずかな事務手続きと勉強によって、狩猟免許を獲得します。しかし、そのことと著者が「イノシシやシカをとれるようになる」とは「別のこと」です。
免許は「イノシシやシカをとることを許可」してくれるかもしれませんが、「イノシシやシカをとれることを何ら保証しません」。
そうした技術は、先達の猟師に教えをこい、また自ら何度も何度も失敗して試行錯誤のうえに獲得するしかないのです。
こうしたことは何も狩猟だけでなく、多くの免許によって可能になる職業には言えることではないかと思います。
免許とは「してもよいこと」を認めることはできても、「できること」を保証しません。「できること」は先達からの学びと、自己の日々の試行錯誤の果てにようやく獲得できるのです。
本書を別の角度から読むのであれば、猟師というわたしたちの非日常の職業を事例に、このあたりまえのことも、学ぶことができるのではないかと思いました。面白いですね。
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狩猟人口は、戦後のある時期から激減しているようです。僕は専門家ではありませんが、猟友会によっては、このことに危機感をもち、若手の人材育成に無料で着手しているところもあるのだとか。
昨今、パラレルキャリアやら二枚目の名刺やらが流行しているようですが、思い切って「猟師」というのも面白いのかもしれませんね。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月29日 07:02
末期患者たちは、なぜ自分の「死にゆく様子」を語ったのか?:「何ができるか」から「何を残すか」!?
エリザベス・キューブラーロスという研究者がいます。1960年代、末期患者、数百人にインタビューを試み、
人が死にゆくプロセスとはどのようなものなのか?
を明らかにしようとした研究者です。
僕は医療には門外漢ですが、ターミナルケアなどに携わる方にとっては、彼女のかいた著書「死の瞬間」は、よく知られているのだそうです。
(朝っぱらから、こんな話題ですみません)
聞くところによると、死を追い続けたキューブラーロスは、後年、スピリチュアルなどの領域にも進出したそうで、評価は分かれる人なのだそうですが、いずれにしても、「死の瞬間」は素晴らしい本だと思います。
最近、ある研究の下準備をしている際に、ふと、再読するきっかけを得ました。よい本は何度読んでも、新たな発見があり、味わい深いものです。
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キューブラロスが、著書「死の瞬間」において、数百人のインタビューをして明らかにしたのは、下記のような「死の受容のプロセス」でした。
人が、自らの死を受け入れることには「5つの段階」があり、それは下記のようなプロセスをたどるのだそうです。
1.否認・孤立
自分が死を迎えるということが、何かの間違いだと思う段階。「これは他の人のカルテを読み間違ったのではないか」と思ったりすることです。
2.怒り
なぜ死を迎えるのが自分なのか、と憤りをみせる段階。「なぜ死にいくのは他ならぬ自分なのか」ということに怒りを覚える段階です。
3.とりひき
何かにすがろうとする段階。何とか死なずにすむように、様々な物事に働きかける段階
4.抑鬱
行為することを失い、ふさぎこむ段階
5.受容
死ぬことを受け入れる段階。
キューブラロスによれば、このように死とは「特定の瞬間」「絶命の瞬間」ではありません。むしろ、それは「プロセス」です。人は死にゆくとき、「否認・孤立」「怒り」「とりひき」「抑鬱」「受容」という5つのプロセスをへるのだといいます。死とは「Death:特定の瞬間」ではなく、「Dying(死に行くプロセス)」なのです。
キューブラーロスに関しては、後年の方向転換に加えて、この「段階説の妥当性」をめぐっても、様々な批判があるそうです。たとえば、「段階説というが、実際の死の受容のプロセスは、こんな風に線形的ではない」といった批判です。
しかし、多くの段階説とよばれるものは、いつもそこに例外が生じ、反例が出されることが宿命です。段階説を見たら、「例外だってある」「そんな線形的ではない」と批判しておけば、まず「当たる」のではないでしょうか!?。ですので、僕自身は、門外漢ながら、そういう批判にピンときません。キューブラロスの評価は、そこじゃないんじゃない、と思うのです。
今回この本を再読するにあたり、前回とは異なるかたちで、僕の興味を引いたのは、この問いでした。
なぜ末期患者は、キューブラロスに、死を語ったのか?
です。残り少ない末期患者が、リサーチという体力も気力も消耗するような、かつ自分にとってはほとんどメリットを感じないものを受け入れ、死にゆく自分のありようを語ったのか、ということがもっとも印象深いことでした。
そして、キューブラロスの業績とは、
残り時間の少ない末期患者から、多くの声をひきだし、死とは「死を受容していく長いプロセス」であって「特定の瞬間」ではないことを明らかにしたことではないかと考えました。
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「なぜ末期患者は、キューブラロスに、死を語ったのか?」
この問いに対して、キューブラロスは、こんな言葉を残しています。
「患者達はあとに何かを残して死にたがっている。ささやかな贈り物をおくって、不死を幻想できるようなものを残して死にたいのだ」
この「何かを残して死にたい」という境地は、今の僕にはまだピンときません。しかし、おそらくは、患者達は、残り少ない自分の時間のうち、いくばくかを、「後世に対するメッセージ」を「残すこと」にあてました。自分の肉体や精神は朽ち果てたとしても、メッセージやアイデアは、活字になり、多くの人に読まれるようになるだろう。「死にゆく人々」が、そこに「不死の幻想」を感じるとき、このインタビューが可能になった、ということが、もっとも印象的なことでした。
あなたは「死んでいった人々」からの「不死のメッセージ」をどのように読みましたか?
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「何かを残して死にたい」
僕はさすがにまだこの境地には至っていません。しかし、このセンテンスの前半部「何かを残したい」ならば、最近、よく感じるようになってきました。
もっと若い頃は「自分に何ができるだろうか」ということを考えていたのですが、最近は「自分に何が残せるだろうか」を考えます。
残念ながら、僕には「あまり残せるもの」はなさそうなのですが(笑)、自らが「死を受容する5つの段階」に至るまでには、何かを残せるよう、精進したいものです。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月28日 06:07
あなたの「マイリフレクションスペース」はどこですか?
リフレクション(reflection)は、1980年代から現在にかけて、人材開発の言説空間のなかで、最も用いられた言葉のひとつでしょう。
不確実性が高まる市場環境
先の見通しがなかなかきかない状況
高度な専門性が必要とされる難易度の高い仕事
そうした状況下では、「どのように課題解決をするか」ということに加えて、むしろ「何をそもそも課題として定式化するのか」が問われるようになります。「課題解決のやり方」も大切なのだけれども、そもそも「課題解決の対象」をじっくり考えることが重要になってきます。
リフレクションとは、過去の課題解決のあり方を振り返り(Look back)、現在の状況を見定め(Analyze)、未来を構想する(Envision)する知的活動です。
ワンセンテンスでいえば、
メタにあがれ!
日常、様々な現象がおきているシャバワールドの視点(現象レベルの生活)を抜けだし、メタ(上位にある俯瞰的な視点)から物事を見つめ直すのが、リフレクションです。
皆さんは、リフレクティブな時間をとれていますか?
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ところで、リフレクションには、しかるべき場所で、かつ、ゆっくりと時間をかけることが重要だと言われています。
僕が監修をしている新管理職プログラム育成プログラム「マネジメントディスカバリー」では、日常から隔絶された!?海の見える葉山の宿泊施設で、管理職の方々に、リフレクションを行っていただきます。
マネジメントディスカバリー
https://jpc-management.jp/md/index.html
また、僕自身にも、さすがに「海」ではないのですけれども、自分自身のリフレクションのとっておきの場所というのがあります。どこだと思いますか?
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それは「美術館」です。
美術館は一般には「絵を見るところ」だと思われていますし、そのとおりだと思うのですが、僕にとっては、リフレクションの場所でもあります。
僕の場合は、会場をうろうろしてだいたい2度くらいは、同じ作品を見て回ります。1回目は、ふつーに作品をみます。
でも、後半の2回目あたりは作品そのものというよりも、自分の仕事のことを考えていることの方が多いように思います。作品にインスピレーションを得て、自分の仕事のことを考えているのです。
美術作品というものは、すべてではないにせよ、何らかの「過去の表現のあり方」に対する「挑戦」を含んでいます。そんな作家の「挑戦」を目の前にして、自分は何に「挑むのか」を考えるのが、結構好きです。
嗚呼、この作家は、この表現で、既存の何に挑戦状をたたきつけたのかな?
このアーティストのこの表現を、既存の体制派は、どのように受け取ったのかな?
ちょっとマニアックな視点かもしれませんが、だいたいそんなことを考えつつ、時に自分の仕事のあり方を重ね合わせながら、ゆっくりと美術館を歩いていることが多いような気がします。
ちなみに、どーんと重厚で深いリフレクションをしたいときには、おすすめの美術館があります。DIC川村記念美術館です。
DIC川村記念美術館
http://kawamura-museum.dic.co.jp/index.html
DIC川村記念美術館には、通称「ロスコ・ルーム」とよばれるお部屋があります。抽象画家のマーク・ロスコの壁画が壁一面にかざってある部屋なのですが、薄暗いその部屋の重厚さ、そして思わず、壁に引き込まれるような雰囲気は、おすすめです。
ロスコルームで、30分ほど、あーでもない、こーでもない、と考え、その後は、おてんとさまの下で、素晴らしい庭園を1時間ほど、また散策してみて下さい。そのコントラストが最高です。
こうした環境だと、素晴らしい?リフレクションができるんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?
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今日はリフレクションの場所と機会について、自分の考えを書きました。
リフレクションと申し上げますと、一般には、どこか「ぬるくて、かったるくて、ふわふわしたもの」のように思われますし、また、「このクソ忙しいのに、じっくり、とゆっくりと考えてられるか!」とおっしゃる方もいらっしゃるのではないかと思います。
しかし、
早く、力強く、「正しい方向」に動くためにこそ
敢えて、じっくり考える
のだと思います。
早く、力強く、「あさって」に動いても
成果は出ないのではないでしょうか?
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ところで、あなた自身の「マイリフレクションスペース」はどこですか?
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月27日 07:05
コーチングの「密室性」と「対人性」
昨日に引き続きコーチングのお話をしたいと思います。
コーチングは、リーダーシップ開発の手段のひとつとして、少しずつ市民権を得た考え方のひとつになっていると思います。
リーダーシップ研究、とりわけDevelopmentに主眼をおいたメタ分析論文、レビュー論文を読んでいけば、もちろんコーチング以外にもたくさんのリーダーシップ開発手法があることは周知のとおりです。
が、コーチングは、近年、その中のひとつとして、認められつつある考え方になってきているのではないかと思います。
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ところで、人材開発の視点から、コーチングを「手法」としてみた場合に、そこには「密室性」と「対人性」という2つの特質があるように思います。
これら2つのコーチングの特質は「強み」でもあり、下手をすれば「弱み」ににも転化してしまうと僕は思います。
まず第一の「密室性」ですが、これは、「コーチをする側とコーチされる側が、多くの場合ペアになり、日常とは隔絶した空間で相対する」という特質です。多くの場合、コーチングの会話は「秘匿性」が高いのではないでしょうか。
これまで40年、何とかかんとか、生きてきましたが、
いやー、衆人環視のもとで、コーチング受けてきたよ、ハッハッハッハッ!
という剛の者を僕は知りません(笑)
昨日も話題にしましたが、人が何かの役割から何かの役割に「役割移行」するというとき、「日常からの分離」というのは、多くの通過儀礼に見られる特徴のひとつです。
コーチングの場合、「密室性」は「日常の業務からいったんひいたところ」に人を立たせることで、振り返りをしやすくすること。
そして、心理的安全を確保するため、第三者から隔絶した空間に身をおき、本音でのコミュニケーションを可能にする効果があるように思います。
すなわち、密室性は「トランジション」に必要なのです。
一方、コーチングのもうひとつの「対人性」とは、コーチングという営為は、個人の営為ではなく、「個人対個人のコミュニケーション」として達成される特質をいいます。
もちろん、セルフコーチングという研究領域も存在しますが、なかなかにマニアックです。
いやー、わたし、ひとりでシコシコ、自分で自分にコーチングしてんですけどね
という剛の者に、残念ながら、僕はあったことがありません(笑)
ワンセンテンスでそれを要約すれば、コーチングとは「人間同士のコミュニケーションで、人を変化させよう」という営為です。
対人性もやはり「トランジション」に必要です。
(いつか時間ができたら、このあたりの思想的基盤についてぜひ議論したいものですが、おそらく、これは、その根っこが、プラグマティズムや社会構成主義に影響を受けているからだと思われます)
▼
しかし、コーチングは「密室性」と「対人性」という2つの特質をもつがゆえにパワフルです。日常からは隔絶した心理的安全の場で、対人間のコミュニケーションを通して、これまでを振り返り、これからを構想します。そして具体的な目標達成への道筋を話し合います。
しかし、このコーチングの「強み」同時に、ともすれば「弱み」も生み出すことも、また私たちは目を向けなくてはなりません。世の中にある多くの物事は「強み」は同時に「弱み」になりえます。コーチングとて同じ事です。
第一に生み出される問題は「転移の問題」です。
コーチングでは、人は一時期「密室」におりながらも、必ず「密室」を出なくてはなりません。そして「密室」をでたあとは、シャバにかえり、そこで「学んだ内容(契約した内容)」を現場で活かすことが求められます。
すなわち、コーチングという営為には「日常からの隔絶」と「日常への接続」という2つのモーメントが同時に含まれています。
密室であること、日常からの隔絶は、コーチングをコーチングたらしめることにとっては必要なことなのですが、同時に、転移の困難も生み出します。すなわち、ともすれば、コーチングはコーチング、仕事は仕事、になりかねない、ということです。
最悪の場合、
あの人、たまーに、ひそかにコーチングは受けてるみたいだけど、仕事の方は、さっぱりだよねー
ということになる場合も少なくありません。
第二に「密室であること」と「対人性」が重なり合う地平には、「コーチングのクオリティアシュアランス」の問題が生まれる可能性があります。
一般に密室の中で行われている会話は、外には漏れることはありません。つまり外部からのチェックを受けにくい。そして対人性が高いということは、「人によって、そのクオリティは千差万別であること」を意味します。
要するに、コーチングのクオリティアシュアランスは難しいということです。かなり意図して、それを向上させる努力なしでは、おそらく、それは千差万別になってしまうでしょう。
たとえば、定期的にそのプロセスを外部のまなざしに晒し、フィードバックを受けるような努力が必要なのでしょう。
▼
コーチングは「パワフルな手法」です。しかし、その「強み」は「弱み」にも転化しうる可能性を有していることを今日は論じました。
もちろん、この特質は、コーチングのみならず、人材開発一般にも共通することでもあります。ただし、コーチングは秘匿性が高い密室空間でなされること、さらには人間ひとりが徹底的に個人ひとりに向き合う営みだけに、そうした問題は、より大きくなりやすいとは思います。
コーチングとリーダーシップ開発の最先端の研究をよむ研究会は、まだ東大で継続される予定です。次回、次々回は、僕が英語文献の担当でしょうか。また皆さんと学べる日を愉しみにしています。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月26日 06:41
「支えるためのコーチング」、そして「別れのコーチング」!?
先日、コーチングとリーダーシップ開発に関する研究会が東京大学で開催されました。
「コーチングによるリーダーシップ開発」に関する最近の英語文献をザザザと読む研究会で、20名程度の方々にご参加頂きました。
ご参加頂いたみなさま、会を主催頂いた関根さん、舘野さんには心より感謝をいたします(ともに中原研究室OB)。ありがとうございました。
(それにしても時代が変わりましたね。研究者に入り交じり、人事の実務家のみなさんが多数参加し、英語で原典にあたり直接情報を仕入れる世界は、わずか10年前はそう多くなかったです・・・感無量!)
▼
研究会ではさまざまな議論がし尽くされましたが、非常に興味深かったのは、
コーチングによってサポートをいかにするか?
という視点ではなく(それも面白いのですが)、
コーチングによるサポートをいかに解除するか?
という視点です。
要するに、自律をうながすための外部からの働きかけをいかに「フェイドアウト」させ、実質的な「自律者」に育てていくのか、という視点が、個人的には、もっとも興味深かったことでした。
(あとで述べますが、これは、今僕がとりつかれている「マイブーム」が関連しています)
もうすでに「自律的な自己」であるのにもかかわらず、いつまでたってもコーチに「依存」している。
コーチのほうはコーチのほうで、もう自律が可能な段階に入っているのにもかかわらず、クライアントを失いたくないので、自律させない。
こうした「共依存」ともいえる関係をいかに避けるかが、もっとも興味深いことでした。
▼
少し文脈は異なりますけれども、これに類する研究は「メンタリング研究」にございます。
メンタリング研究で著名な成果をあげたキャシー=クラムは、Academy of Managementの論文のなかで、メンタリングの発展プロセスを理論化しています。
キャシー=クラムによると、メンタリングの進展とは下記のようなプロセスをとります。
1.開始段階
・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
2.養成段階
・キャリア的機能(組織階層の上昇移動)
・心理社会的機能(アイデンティティの確保)
3.分離段階
・構造的な役割関係や感情面での大きな変化
4.再定義段階
・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
・分離段階をへて関係性が終了するか、相当違った
性格をもつ、同僚関係への移行
ここで、僕が気になるのはやはり「分離段階」です。
ここで、メンター(助ける側)とメンティ(助けられる側)の関係は、「緊張」状態に入ります。
それまでメンターに助けられ、キャリア的にも、心理的にも、ようやく自律をなしとげられたのにもかかわらず、その関係に「緊張」が走るのです。
「もう自分は自律しているのに、いろいろ、外からピーピー言われつづけるのもな」
「もうあいつも一人前になったのに、今までと同じように自分の時間をこれ以上削るのもな」
といった役割変化や感情の変化が両者に生まれ、一時的に関係にひびがはいります。最悪の場合は、そこで関係が終わりということもないわけではありません。
「いかに支える」のは大切ですが、「いかに別れる」かが重要なのです。
以上はメンタリングの話でしたが、おそらくコーチの方も、そのようなことが言えるのかな、とも思います。
コーチングの方は、しばらくは相互に合意していた目標を、より高めていくことがしばらくつづくのでしょうけれども、どこかでその支援関係にはフェイドアウトの時期がくる。
相手が自律的に動いていくために、いかにサポートを解除するか?
個人的には、そんなことを思いながら、研究会を過ごしていました。
▼
最近、僕は、「ちゃんと別れること」に興味引かれており、「通過儀礼論」などをよみなおしています。
「通過儀礼研究」ではよく知られているように、「大人への階段をのぼるためのイニシエーション」には、クラムの主張に類するようなプロセスーすなわち「分離することー移行することーふたたび自己をつくりなおすこと」のプロセスが内包されています。
もっともよく知られているのは、ヴァン・ヘネップ「通過儀礼」論であり、ヘネップによると、通過儀礼は、
1.分離期
2.移行期
3.統合期
の3つのフェイズを辿るのだとしています。
ヘネップの議論を継承したヴィクター・ターナーは、このうちの「移行期」に着目しました。ターナーによれば、人は「移行」をなすとき、コムニタスとよばれるプロセスを経験するといいます。
コムニタスとは「かつての自分」でもなければ、「これからの自分」でもない人々が経験するのは要するに「日常の社会構造とは異なるような反構造の自由で平等な民主的な社会関係」です。
▼
大人になるとは「不条理な世界」への入口に入ること
そして
時代が時代ならば
「戦士」として戦うことへの「入口」でした。
「のっぴきならない不条理」さと「生きるか死ぬかの世界」で、自分の頭で考え、生きていくということが、「自律」ということの本質です。
そのためには、一時的に人は「他律」を必要としますし、また、その準備段階には、日常の社会構造とは異なる擬似的民主的な人間関係を経験するのかな、と思います。
問題は、いかにそれを「解除」するか
そして大地に一人たつことができるのか
ということなのかなと思っています。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月25日 05:47
政治的実践としての「組織開発」!?:緊張・葛藤・不一致をいかにやりくりするか?
昨日は大学院・中原ゼミの今学期、最終日でした。ゼミのあとには、今年のM2の学生さん、浜屋さん、田中さんの修士論文提出を祝して、ゼミで新年会をひらきました。浜屋さん、田中さん、まことにお疲れ様でした。
また、新年会を企画して下さった吉村ゼミ長はじめ、皆様にも、心より感謝いたします。ありがとうございました。
▼
昨日の大学院ゼミの英語文献は、対話型組織開発に関する論文を読みました(浜屋さんのご発表でした)。
組織開発、対話型組織開発に関しては、何度もブログで書いておりますので「耳タコ」でしょうけれど、ふたたび専門家に「便所スリッパ」で後頭部をひっぱたかれることを覚悟して申し上げますと、
組織開発とは
1.人を集めてもテンデバラバラで、成果がだせない場合に、
2.あの手この手をつかって、
3.組織やチームを何とか「Work」させようとする働きかけ
のことをいいます。
で、数ある組織開発のなかでも、
対話型組織開発とは
「テンデバラバラの組織の当事者たちに、まず同じテーブルに集まって、組織のことをテーマにした対話を繰り返し行っていくことで、今までの組織のあり方をリフレクションしつつ、未来を議論し、決めてもらうこと」
をいいます。
▼
今日の論文の主旨は、
組織開発は、コンサルタントとクライアントの「協働」(Collaboration)で常に達成される
ということでした。
このことは、組織開発や、それに類推する活動をおやりになった方なら、そうだよな、と思うところはあるのではないでしょうか。
組織開発のような活動は、コンサルタントが、「専門家風をビュービュー吹かせて」、上から目線で指導しても、「空回り」に終わってしまったり、活動が根付くことはありません。
結局は、その「地の人」であるクライアントと、「専門家」であるコンサルタントが、一定の信頼関係のもと「協働」してこそ、目指すゴールが達成されるのです。
しかし、ポイントは、「協働」という2文字のロマンチックワードにひそむ、本当の意味です。
人事・人材開発の言説は、この種のロマンチックワードに「お化粧」されることが多いので、わたしたちは、その背後に蠢く闇を同時にのぞく勇気をもたなければなりません。
一般に「協働」「コラボレーション」と申し上げますと、一般の方々の脳裏には、「素晴らしき饗宴的な素敵な舞台」が思い浮かぶのかもしれませんが、「協働」によって達成される組織開発には、常に「緊張」が強いられる、というのが論文の後半部の趣旨でした。
ワンセンテンスで申し上げますと、
組織開発において、組織開発コンサルタントは、常に「緊張」とつきあわなくてはならない
ということです。
これを別の言葉で申し上げますと、
組織開発とは「経営的実践」である一方「政治的実践」なのです。
人々の関係を調整し、時と場合によっては痛みを伴いながら修正し、改善していく・・・組織開発は決して「価値フリーで、ニュートラルで、ロマンチック」な活動ではありません。
むしろ、本当に意味のある組織開発とは、「バイアスだらけで、ドロドロで、誰もが目を離したくなるようなリアリティと向き合う政治的実践」なのです。
例えば、組織開発の局面では、
・組織メンバーの発言の何をふくめて、何をふくめないか?
・激しい意見の不一致が生じたが、これをいかに対処するか?
・組織開発コンサルタント自身が、権力を用いて「意味のおしつけ」をなすべきか、なさぬべきか?
・組織開発の局面で顕在化してきた「ネガティブな意見」といかに向き合うか?
ということが容易に生じます。
こうした激しい葛藤や衝突を、いかにして乗り切ることができるのか。あるいは、乗り切ることは無理にせよ、やりくりしていくのか、といった視点が、組織開発コンサルタントには求められます。
組織開発には「緊張」や「葛藤」がつきものです。
それでも、あなたは組織開発をやりたいですか?
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今学期の大学院ゼミでは、対話型組織開発に関する理論本を読みました。研究室の大学院生のみなさま、本当にお疲れ様でした。
今学期のゼミはこれで終了となりますが、残念なことに!(笑)、ウィンターゼミというのが2月、3月には月1程度で開催されます(吉村ゼミ長、アレンジをありがとうございす)。
大学に休みはあっても、研究に休みはありません。
毎日数時間コツコツと修行!
皆さんの研究の進捗を楽しみにしております。
そして人生はつづく
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■関連記事
「組織を変える」ときに引き起こされる「ちゃぶ台バーン的学び」!? : リフレクションをうながす「問い」を集める!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2016/01/_work.html
組織開発ができる人に必要な4つのスキルとは何か?:組織開発ができる人をいかに育成できるのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/11/post_2514.html
この世には「やりっぱなしの組織調査」があふれている!?:現場に1ミリの変革も生み出さない「残念な組織開発」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/10/post_2493.html
よい組織開発とは何か?:実践に対して、理論はいかに「役立つ」のか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/10/post_2500.html
投稿者 jun : 2016年1月21日 06:52
「ググればOK!」を繰り返す先に広がる「考えなくなる世界」!? : 知識データベースのディレンマ
知識データベースには、学びにまつわる「ディレンマ」があります。
ここで知識データベースとは、「他人が経験したこと」「他人がすでにもっている知識」を「体系化」し「蓄積」したネットワーク上の「知識のハコ」とお考えください。
わかりやすくいえば、ワンワードでいえば「ウィキペディア」みたいなものかな(笑)。ちりあえずは、そういうものを想定いただき、下記の記事をお読み頂ければ幸いです。
▼
さて、「知識データベースのディレンマ」とは、いったい、どのようなものか。
それは、ワンセンテンスで申し上げれば、
知識データベースへのアクセシビリティが増せばますほど、「考えなくなる世界」が広がる
ということであり、
知識データベースに依存してしまい、「学ばない世界」がひろがってしまう
ということです。
知識データベースに格納されている他人の知識や知恵を自由に、かつ、スピーディーに利用できることは、効率性や合理性の観点から「よいこと」なのでしょうけれども、それによって利用者が、自分の頭では「考えなくなる」「学ばなくなってしまう」ということがおこる、ということです。
これは短期的には「メリット」があるのでしょうけれど、中長期には「リスク」であるわけです。だって、「考え」もしないし、学ばないんだから・・・。中長期には市場価値がさがり、変化に対応できなくなってしまいます。
組織と学習の研究分野では、すでに20年も前から、このようなディレンマや危険性について指摘がなされていました。
ま、要するにこういうことがおこるわけです。
「困ったときは、少し時間をかけて、ぐぐればよい。ウィキペディアすればいい」
そして、そこで得られた情報をかえして、その場をやり過ごせばいい、というかたちになってしまうのですね。
「考える」よりは「探す」
「学ぶ」よりは「情報を右から左に流す」
ようになってしまう。
そして、そういうプロセスを長く長く繰り返しているうちに、自分の「頭」で考えること、学ぶことを辞めてしまう。そして「探す」のが得意な人、「情報を右から左に流す」のが得意な人になってしまう・・・。ま、そんなの誰でもできるけどね(笑)
▼
まぁ、そうはいっても、世の中は高度情報化・スピード化しておりますので、「自分の頭で考える」「自分の頭で学ぶ」というのは、すべての事柄において可能かというと、そうもいえません。
現実には「ググらな、しゃーない」とか「ウィキペディアみないと、しゃーない」こともあります。
しかし、一方で、そこで生まれている「考えない世界」「学ばない世界」には注意した方がいいかもしれません。
せんだって、尊敬するある経営者の方が、こんな一言をおっしゃっていたのが印象的でした。ICレコーダを持っていたわけではないので、一字一句同じというわけではございませんが、こんなご主旨のご発言であったと記憶しています。
「最近、若手の知識量が減っているように思うのです。ネットでの情報に、すぐにアクセスできるので、自分で記憶しようとしない。学ばない。考えてない。すぐに、外部記憶に頼ってしまうのです。
でも、お客様とのディスカッション中に、ウィキペディアをチェックすることはできません。
まさか、お客さんとの商談中に「すみません、ちょっと待ってください。今、ググりますから」とは言えないですよね。
オマエ、何も知らんのかいな、となっちゃうでしょう?そんな人、お客様から、信用されないと思うんです。
少し時間をかければ、誰でも情報が入手できる時代だからこそ、お客さんとのディスカッション中に、ただちに即興的に自分の知識をつかって話ができないとダメなのです」
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あなたのまわりに
「考えない世界」や「学ばない世界」がひたひたと広がっていませんか?
携帯電話が普及すれば、人は電話番号を覚えなくなります。
「考える」よりは「探す」
「学ぶ」よりは「情報を右から左に流す」
になっていませんか?
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月20日 05:44
世の中に「完璧な指示」は存在しない!? :言ったとおりに人が動けない理由
世の中に「完璧指示」というのは存在しません。つまり、人は、他人や物事を「指示」のもとに「完璧」に動かすことはできません。
「指示」というものは、多くの場合、「予想外の状況変化」に翻弄され、いつも「裏切られ」、「指示」そのものを超えていくものです。
そして、そうであるならば、わたしたちは、いかに指示をおこなっていけばいいのでしょうか。 今日は、朝っぱらから、マニアックにも「指示すること」について考えてみましょう。
▼
「指示が曖昧だ」という言葉を、わたしたちはよく聞きます。
なるほど、シャバの一般的なオフィスで、ここかしこに飛び交っている「指示」に耳を傾けると、
「あー、そこんとこ、適当にやっといて」
「そこんとこ、まるっと、数字、つくっといてよ」
「わるい、わるい、ごめん、よい加減にさ、フォローしといて」
みたいな「曖昧すぎて発狂しそうな指示」にあふれています(自爆)。
しかし、ここでわたしたちは「曖昧すぎて発狂しそうな指示」を相対化しつつも、一方で、指示というものは、どこまで明瞭に、かつ、具体的にしても、パーフェクトにはなりえないことを認めなくてはなりません。
もちろん、先ほどのような「曖昧すぎる指示」は「論外」として、それ自体を明確・明晰にしていく努力は継続するにしても、指示はどんなにパーフェクトに行っても、パーフェクトにはなりえません。すなわち「完璧指示」は存在しません。指示とは、いつも「曖昧」なものです。それでは、なぜ指示は「完璧」ではありえないのか。
それは、第一に、指示をした側が「現場におらず」、指示された側だけが現場にいるという事実。
すなわち、現場情報の把握には非対称性が存在しており、「指示された側」のみが、そのつどそのつど、現場の対応をしなければならないということから、まずは生じます。
第二に、現場というものは、現在進行形で、複雑で、予測不可能で、即興的につねに「変化」しつづけるものであり、「指示された時点」での「指示の内容・対応」は、一部が、常に「時代遅れ」になる特質をもっていること。
第三に、多くの物事は「やってみなければ、何がでてくるか、わからない」という特質をもっていること。
すなわち、結果がパーフェクトに予測できるものは、現場にはあまり存在しておらず、「指示の内容・対応」の一部は、常に作り替えなければならない特質をもっていること。
これらの事実の積み重ねによって、指示は、その一部が常に「時代遅れ」になるか、「状況にあわないもの」になり、「現場で書き換えられる運命」にある、ということです。
別の言葉で述べるならば、現場の人々が、指示をもとに、「自分の頭で考え、行動しなければならない余地」が残される場合がほとんどである、ということですね。
よく人は「言うとおりに、動かない」とか「なぜ言ったとおりに動けないんだ」と文句をたれることもあります。が、文句をたれたい気持ちはよくわかるけれど、実際にはそうはならないことが多い。
実際は、現場の変化のために「言うとおりに、動かないのではなく、動けない」という可能性が生じたり、「言ったとおりに、そもそもなっていないから、動けない」ということがありうる、ということなのかな、と思います。
だから、こうした現状にあたって、わたしたちが為すべきことは「完璧指示」を夢想することよりも、自らの「曖昧指示」のもとで仕事をしてくれる人の創意工夫を信じ、同時に、自らの「曖昧指示」を補完する努力をなすことです。
もう少し正確にいうのであれば、
1.指示を明瞭・明晰にする努力をしつつ、
その一方で、
2.自らの「指示の曖昧さ」のもとで奮闘する人の創意工夫を奨励し
3.同時に「曖昧な指示」と「創意工夫の結果」をフォローする機会をもつ
ということなのかな、と思います。
ま、結局、要するにまとめると、
モニタリングとフォローが大事ってことだよね(笑)
だって、指示通りになんて、人は動けないんだから。
おい、2行で終わっちゃったよ(笑)
▼
今日は「指示」について書きました。
ま、要するに、僕のように、曖昧な指示を繰り返している人は、より明確・明晰に(自爆)。「完璧指示」ができている、という人は、「指示の曖昧さ」を認め、ぜひフォローを、ということでござる。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月19日 06:17
「学び方」はいかにして学ぶことができるのか?:魚をとらずに魚釣りを学ぶ!?
世の中には「何を学ぶか?」と「どのように学ぶか?」を、それぞれ「別物」と見なして考える「思考法」があふれています。
ここで前者の「何を学ぶか?」は「学ぶべき内容」、後者の「どのように学ぶか?」は「学ぶ方法」と置き換えてもよろしいでしょう。
世の中には、こんな三段論法が充ち満ちています。
1.現代は情報爆発の時代だ。学んだ内容なんて、すぐに陳腐化する
2.だから「学ぶ内容」なんか重要じゃない。
3.「学ぶ内容」よりも「学ぶべき方法」を教えなければならない
要するに、これらの言説群の特徴としては、こんな感じです。
まず、「情報爆発」「高度情報化」「知識産業化」など、「耳障りの良い枕詞」を「背景」にしてセットアップします。そのうえで、「学ぶ内容」よりも「学ぶべき方法」を重要視するということがあると思います。
ときには、こんなメタファも用いられますね。
これからの時代は
「魚」をあげるんじゃなくて、(魚=内容)
「魚の釣り方」を教えなければならない(魚の釣り方=方法)
要するに「内容」じゃなくて「方法」なんだ、と(笑)。
まず、誤解を避けるために申し上げますが、僕は、この意見に一部は賛成です。「学ぶ方法について学ぶこと」が「学ぶ内容」に「加えて」重要になっている、というのなら、全く意見を差し挟む余地はありません。
そう、「加えて」であるならば。
しかし、
だから「学ぶ内容」なんかさして重要じゃない
「学ぶ内容」よりも「学ぶべき方法」を教えなければならない
となってくると話は別です。
「学ぶ内容」と「学ぶ方法」を本当に「二項対立のもの」と見なしてよいのだろうか?
「学ぶ内容」は「時代遅れ」で、「これから」は「学ぶ方法」だとする問題の切り取り方は妥当なのか
という疑念が頭をもたげてきます。
▼
この疑念をとく鍵は、しかし、そう難しいわけではありません。
「学ぶ方法」それ自体が、いったい、どのようにして学ばれるのか
を考えればおわかりいただけると思います。
今日は首都圏は大雪で時間がないので(笑)、さっさと結論に参りますが、
「学ぶ方法」は、ある特定の「内容」を学ぶ中でしか、学ばれない
のではないでしょうか。換言するならば、「学ぶ方法」を、「内容を学ぶこと」と切り離して学んでみても、なかなか学べない
ということになりますね。
「学ぶ方法」だけを学ぼうとしたり、たとえばそれを「座学」で学んだとしても、なかなか学べなそうでしょう?
要するに、
「何かを学ぶ中」でしか、「学び方」は身につかない
と考えられます。
先ほどの「魚と魚釣り」の例を使うのならば、「魚釣りの方法」は「魚」をとることでしか学べない、のと同じですね。
というわけで、もっとも大切なことは、僕は、まずは「何かを学ぶこと」だと思います。特に「先人達の経験や智慧」をしっかり学ぶことは、「巨人の肩の上」から思考することを可能にします。要するに知識はしっかりもっておいた方が良い。
そのうえで、そこで終わるだけではなく、もう一手間加えたい。
「内容についての学び」に加えて、「学ぶ方法についての学び」を工夫したいのです。
それには、自分の学ぶプロセスを、折にふれて振り返り、「どのようにすればよく学べたのか」を自分なりに考えること。すなわち「学ぶ方法」を振り返り、よきものにチューンアップしていくことが重要であると考えます。
「魚釣り」だって同じではないでしょうか。
やたらめったら、釣り糸をたらしても、魚はつれません。
どの深さの海に、どんなエサを投げ込んで、どのようにリールを回せば、よく魚がとれるのかを「考えながら」、魚をとるのではないでしょうか。
というわけで、本日は「学ぶ内容」と「学ぶ方法」について考えてみました!「学ぶ内容」に「加えて」、よく「学ぶ方法」を!
そして、人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月18日 06:26
「組織を変える」ときに引き起こされる「ちゃぶ台バーン的学び」!? : リフレクションをうながす「問い」を集める!?
先だっての大学院・中原ゼミで、田中聡さん(M2)が英語文献購読で「対話型組織開発と変容的学習」に関する文献を読んでくださいました(お疲れ様です!)。
最初におさらい。
組織開発については、このブログでも何度か書いておりますが、専門家に「便所スリッパ」で後頭部をひっぱたかれることを覚悟してスリーセンテンス?で申し上げますと、
1.人を集めてもテンデバラバラで、成果がだせない場合に、
2.あの手この手をつかって、
3.組織やチームを何とか「Work」させようとする働きかけ
のことをいいます。
で、数ある組織開発のなかでも、
対話型組織開発とは
「テンデバラバラの組織の当事者たちに、まず同じテーブルに集まって、組織のことをテーマにした対話を繰り返し行っていくことで、今までの組織のあり方をリフレクションしつつ、未来を議論し、決めてもらうこと」
をいいます。
ここまで大丈夫でしょうか?
一方、変容的学習とは「自明となっている価値観や前提が揺らいでしまうような学習」です。
で、こうしたその契機になるのは、やはり「痛み」です。「方向感覚すら失わせるようなディレンマ」(Mezirow 2010)、ないしは「混乱的ディレンマ」(Mezirow 1994)とよばれるものが、その契機になったりします。
より一般的にいうと、「思い出すことすら躊躇われるあの出来事」「今思い出しても、胸が締め付けられる、あの瞬間」という感じになるのでしょうか。
人は、そうした出来事にぶつかると、それまで物事を解釈していた枠組み(意味パースペクティブ)がゆらぎます。なぜなら、今、遭遇している「圧倒的なディレンマ」が自分の従来の枠組みでは処理することができないからです。
今、まさにぶち当たっている出来事は、これまでのように、今まで自分がしてきたように、省察(reflection)を通じて「経験を解釈し、経験を意味づけること(Mezirow 1991)」することはできない。
ならば、それまで自明視していた前提や価値観を問い直し、再構築せざるを得ない。「自明の前提・価値観」、ちゃぶ台バーン!(泣)
これが変容的学習です。
専門家に便所スリッパでカンチョーされることを覚悟して、変容的学習を定義いたしますと、
変容的学習とは「痛みをともない、そもそもから問い直す学習」
あるいは
変容的学習とは「ちゃぶ台バーンの学習」
とも言えるかもしれません。
先だって田中さんが読んでくれた文献では、
1.対話型開発のプロセスでは「変容的学習」がおこる
2.変容的学習には「リフレクション(そもそもを問い直し、振り返ること)」がともなう
ということが書かれていました。
一般に対話型組織開発と申しますと、
「当事者同士が同じテーブルにあつまって、まずは夢や理想を描こうよ!」
「当事者同士が同じテーブルに集まって、組織の未来を描こうぜ!」
といったような「牧歌的」なイメージがつきまといますが、それはそうではない、ということですね。
本当に「組織が変わる」ような対話型組織開発をするとは、「痛み」と「葛藤」を経験すること、と同義です。そして、その「痛み」と「葛藤」には、そもそもの「問い直し」がともないます。
全く共感できます。
▼
ところで文献には、当事者たちが変容的学習をとげるときに、「そもそもを問い直すようなリフレクション」を、いかにファシリテータやOD担当者が「問い」によって促すか、ということが書かれていました。
対話型組織開発をなす人々にとっては、「問い」をとおして、いかに当事者達に、そもそも、考え抜いてもらうかが決定的に重要である、ということです。
文献には「当事者に振り返りを迫る問い」として、
1.Spiraling question(螺旋的質問)
より大きなビジョンや目的をそももそも思い出させる
ex . そもそも何をめざしているのでしたっけ?
ex . わたしたちが・・・後に見たい光景は、どんな光景ですか?
2.Feeling question(感情的質問)
今、どのように感じているか? それについてどんな感情をもっているか?
ex . 今、心のなかはどんな思いですか?
ex . 今、あなたは、何を感じていますか?
3.Personalizing inquily(自分事化する問い)
このことがあなたにとってどんな意味があるのか?
ex . これをやったら、あなたにとってはどんなメリットがあるの?
ex . あなた自身は、これにどんな貢献をしていきたいの?
が紹介されていました。
リフレクション論の世界では、リフレクションを促す問いというのは、たまーに紹介されていることがあります。
よく出てくるのは、下記のようなものもありますね。
1.線形的質問(Lineal question)
Who When Where What Whyを聞くようなダイレクトな質問です。誰と、何をしているとき、いつ、どこで、何が起こったのか・・・出来事の「描写」に関わる質問ですね。内省サイクル論では「描写」は、内省の最も基礎的なエレメントになります。
基本的な質問に思えますが、実は、経験上、働く大人が意外に苦手なのは、この質問だったりします。「皆さん、クソ忙しいので、いちいち、憶えてない」んですね。なかなか出てこないです。
2.循環的質問(Circular question)
物事の関連性・かかわり・つながりを問う質問です。1で得られた情報をもとに、関連・つながりをつけ、比較・吟味していく質問です。
「Aさんは、あなたをどのように見ていますか?」
「BさんとCさんは、どのような関係ですか?」
「Aという出来事とBという出来事は、どのようなつながりがありますか?」
3.戦略的質問(Strategic question)
対話が完全に「デッドロック=行き詰まったとき」にする質問ですが、うまくいく場合もありますけど、無用な対立をつくりだすこともあります。
敢えて「〜すべき」を多用し、対立的、かつ挑戦的なスタンドポイントにたって語りをひきだします。ちょっとハッタリかましてますね。
「そのとき、あなたは〜すべきだったんではないでしょうか?」
「Bさんは〜すべきだと、あなたは思いませんか」
「Cさんは〜すべきじゃなかったんだと、みんなは思っているんじゃないでしょうか」
4.省察的質問(Reflexive question)
自分が通常見ている風景・慣れ親しんだ物事を、敢えて「別のコンテキスト」に導いて、相手に「考えること」を迫り、ひいては物事を変化させること、自己を変化させることにつなげようとします。仮定法の形式を取る場合が多い。
「もし万が一・・・に戻れるのだとしたら、あなたは何をしますか?」
「もし万が一、あなたが・・・の立場だったとしたら、あなたは何をしたいですか?」
まー、人を考えさせる問い、というのは他にもいろいろあるのでしょうけど、「問い集」なんてつくれたら面白いかもしれませんね。
▼
今日は「対話型組織開発」と「変容的学習」について書いたあとで、「変容的学習」をうながすような「問い」についてつらつら紹介してみました。問い集、面白いと思うけどな。
あなたのオハコの問いを教えてください。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月15日 06:17
「業務能力もやる気もある人」をマネジメントするときの3つのポイント!?
仕事の能力には「差」があります。「仕事のできる人」もいれば、「それなりの人」もいます。ここで僕は「人は業務能力は均等だ」と口角泡を飛ばして力説することはしません。なぜなら、それは「事実」と反するから。
また、仕事への熱意も明確な「差」があります。ワンセンテンスでいえば、「やる気もある人」もいれば、それなりの人もいます。もちろん、僕は「人はみなやる気に満ちている」とはいいません。なぜなら、それは「事実」とは異なるから。
ところで、これらの「明確な差」を前にして、ひとつご質問がございます。
あなたが、リーダーやマネジャーならば、どのような人材を「自分の職場」に欲するでしょうか?
能力のある人、ない人?
やる気もある人、ない人?
2軸4象限で整理すれば、ここには4つの可能性があります。
▼
おそらく多くのマネジャーやリーダーは「仕事ができて、熱意のある人=能力とやる気がある人」を欲するのではないか、と思います。たぶん、、、。
理由は「能力とやる気のある人」にきてくれた方が「能力もやる気もない人」がくるよりも、職場の成果向上に寄与してくれるから。
もうひとつの理由は「ほおっておいても大丈夫だろうし、成果にむけて爆走してくれそう」だから。
多くの場合、「能力とやる気のある人」に対するマネジャーやリーダーの「イメージ」とは、このように「成果に向けて猛突進してくれる機関車」のようなものです。
別の比喩でワンワードでたとえますと「ほおっておいてOKピーポー=ほおっておいても成果をだしてくれる人材」のように思ってしまうことが少なくありません。
ところが、ここが問題であり、今日の話題です。
それを要約すれば、リーダーやマネジャーのもつ「能力とやる気のある人」にまつわるイメージが、ピットフォール(落とし穴)になってしまうが少なくない、ということです。
特に新任期の駆け出しのマネジャーにとっては、「能力とやる気のある人材」というのは、使いこなせればよいのですが、それができなかった場合には、落とし穴になるのです。
じゃあ、それはなぜでしょうか?
ここには3つの理由があります。
皆さんはどう思いますか?
▼
「能力とやる気のある人材」はなぜ「落とし穴」になるのか?
理由のひとつめ。
「能力もやる気もある人」というのは、別の喩え方をすると、「馬力のある人材」なのです。エンジンがかかれば、すぐに動きだし、すぐに爆走できる。もし、この「爆走」が「正しい方向」ならばよいのですが、「間違った方向」に爆走すると、馬力があるだけに修正が非常に難しいのです。自分に自信がありますし、能力もある。それゆえに、修正には相応のコストがかかります。
すなわち「能力もやる気もある人」を前にした場合、マネジャーやリーダーに、ごくごく早期か、ないしは、懇切丁寧に目標のすりあわせを行う必要性がある、ということです。
▼
ふたつめ。
「能力もやる気もある人」というのは、挑戦的な仕事を好みます。要するに、その能力にみあった「挑戦的仕事」をマネジャーやリーダーは彼/彼女にふり、フィードバックをかけつづけなければなりません。
一般に、高業績者であるほど、些細な仕事上の変化や不満は、には敏感なものです。
彼らは自分の能力にみあった挑戦的な仕事がここで得られていないと考えた場合、「会社は自分のことを評価していない」「上司は自分の能力を評価できていない」と意味づけることが多いものです。このような経験が蓄積した場合、最悪のケースでは、
離職につながります。
これってホラーですよね。
だって、職場から抜けてしまうのは、職場を牽引している高業績者なのですよ・・・。
▼
みっつめ。
最後は、高業績者とは常に「マネジャーの能力、一挙手一投足」を見ている、ということです。マネジャーは、リスペクトされるように自らを律して仕事をしなければなりません。
このように、「能力もやる気もある人」というのは、「ほおっておいてよい人材」ではありません。
むしろ、「能力もやる気もある人」は「メンテナンスコスト」が高いことがあるものです。
懇切丁寧にコミュニケーションをとり、挑戦的仕事をふり、フィードバックをかける。自ら率先してリーダーシップを発揮する。
こう書いてしまえばあたりまえのことなのですが、このあたりまえを確実に実行しなければなりません。
これまでいくつかの事例研究を通して、新任期のマネジャーで「能力もやる気もある人」の扱い方を間違えて、異動か離職につながるケースを見てきました。
みなさんの会社では、こんなケースはみられますか?
▼
今日は「能力もやる気もある人」というのは、「ほおっておいてもよい人材」ではないよ、と書きました。
むしろ、それは、「能力もやる気もない人」とはまったく異なったベクトルで、メインテナンスコストがかかる。
やれやれ、といったところですね。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月14日 05:17
研究を前にすすめるためには「何」が最も重要か?
ちょっと前のことになりますが、ある大学院生さんが研究に行き詰まり、お話を伺っていたときのことです。ふとしたことから、話題が、こんな風に発展しました。
「ところで、先生、よい研究をするためには、何が重要でしょうか?」
うーん。。。何だろうねぇ(笑)。
そりゃ、僕も教えて欲しいなぁ・・・。
いまだ「よい研究」をした実感のない僕にとっては、この問いに答えるのは難しいなぁ(笑)
でも、ここは問いをすこしずらして、今思い悩む君にとってより重要な問いー
「大学院生が、研究を前にすすめるためには、何が重要か?」
だったら答えられるよ、とお答えしました。
大学院生が修士や博士のレベルでやるような研究で、しかも、僕の研究領域に関することで、「研究を前に進めるためには何が必要か?」という問いでよいならば、僕は約10年の院生指導経験から、僕なりの答えを即答できると思ったのです。
「大学院生が、研究を前にすすめるためには、何が重要か?」
皆さんは、なんだと思いますか?
皆さんが指導教員だとしたら、なんとお答えになりますか?
才能?
地頭のよさ?
読書量
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・
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おそらく、そういうことがまっさきに上げられるのだと思うのですが、僕ならばこう答えます。
「毎日コツコツ研究にかけた時間」
あまりのしょーもない答えに腰がへなへなに砕けて、ウン●ョスダダ漏れの方?もいらっしゃるかもしれませんが、本当のことなので仕方がありません。ごめんね、育ち、悪くて(笑)。
でも、大学院生が修士や博士のレベルでやるような研究で、しかも、僕の研究領域に関することという限定条件が「是」ならば、先ほどの問いに対する僕の答えは、これ以上でも以下でもないのです。
たしかに才能とか、地頭とか、そういう「頭のよさ」みたいなものもあります。でも、あるといえばあるけれど、そういうのは、大学院に進学している時点で、ある程度のスクリーニングがなされています。少なくとも僕の経験では、あまり問題にはなりません。ていうか、ほとんど関係ない、と断言できます。
そりゃ、ノーベル賞だ、フィールズ賞だ、頑張った賞だ?、というのなら話は別かもしれません。そういう高度な世界なら才能や地頭は関係あると思います。でも、今はそういう次元の話をしません。それよりも、ずっとずっと前段階の世界の話です。
いくら才能があっても、地頭がよくても、「毎日コツコツ時間をかけない人」は進みません。むしろ、こちらなのです。
自分を律して、毎日毎日問いに向き合い続けることができるかどうか。
自分を律して、毎日毎日文献を読み込み、知見をまとめることができるかどうか。
自分を律して、毎日毎日分析を続けることができるかどうか。
要するに、
研究とは「ストイック」なものなのです。
研究とは「毎日毎日」、日々の実践なのです。
対照的に「ムラ」がある大学院生は非効率な作業に堕していきます。
1週間前にガガガと徹夜をして、そっからしばらくブランクがあいて、またゼミ前に徹夜というのでは、その間にすべてを忘れてしまうのです。
自分の研究上の問いにいかに連続して向き合い続けることができるか、ということがもっとも重要なことだと僕は思います。
指導教員の観点からすれば、365日・1日最低3時間は、自分の研究に向き合って欲しい、と思います(レベルが低い時間数ですが、僕の領域は、社会人大学院生や仕事をしながら研究する人が圧倒的に多いので最低3時間というのはかなりのハードルになります)。
もちろん、かけた時間だけ、精緻な議論、論理が形成することができますし、リサーチクエスチョンも磨かれます。
毎日コツコツ3時間!
研究を進めるための「打ち出の小槌」や「魔法の杖」はありません。
いや、あるのかもしれないけれど、僕はしらない。
結局、「毎日毎日問いと向き合い続けることができるかどうか」それに尽きると僕は思います。
いや、3時間が仕事で難しいなら、2時間だっていいんです。毎日毎日コツコツと同じように問いに向き合って欲しいだけです。
▼
今日は、研究をすすめるヒントについて書きました。多くの大学院生の皆さんが、生産的でオリジナリティの高い研究ができることを願っています。そしてわたくしも前述の問い「よい研究をするためには何が必要か?」に答えるべく、さらにシコシコと自己研鑽を積みたいと思います。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月13日 06:35
研修やワークショップの「目的」をしっかり打ち込むための「プチ工夫」とは?
ちょっと前のことになりますが、去年、都内の大手金融機関で数時間のワークショップをさせていただいたときのことです。ワークショップの内容はこの記事では差し控えますが、このとき、僕は、担当者の方々と相談のうえ(事前のご相談、心より感謝です!)、ひとつ「プチ工夫」をさせていただくことにしました。
当日のワークショップ冒頭に見られるであろう緊張をときほぐし、さらには、ワークショップの目的を事前に知って頂くことで、効果を高める「プチ工夫」をさせていただいたのです。
その「プチ工夫」とは「10ミニッツプレビュービデオ」の作成です。
ま、要するに、ワークショップ前に非常に短時間で受講生に見てきてもらえる「予習ビデオ」をつくっていったというわけですね。これをYoutubeにアップロードして(限定公開)、受講生ご自身のスマホやPCで、ワークショップの前に見て頂くことにさせていただいたのです。
結果はどうだったか?
結論から申しますと、これがきっかけとなり、当日、講師としては、非常にその後のワークショップがやりやすかった、です。効果測定したうえで、いってんのか? いいえ、そんなものをしていません。これ、研究じゃないので。でも、感覚的で大変申し訳ないのですが、本当にそうなのだから仕方がありません(笑)。
この会社には去年もお邪魔していたというのもあるのですけれども、受講生の方々が教室に入ってきた瞬間から「感じ」が異なっていました。
事前ビデオのせいなのか
1)僕という人間が事前にどんな人なのかをある程度わかっていてくれるように感じました(ビデオで自己紹介してある)
2)今日のワークショップの目的をある程度わかっていてくれているにも感じました
3)当日の進行をある程度わかってくれているようにも感じました
4)ビデオで事前課題(というより・・・について考えてきて下さいね)という問題設定が行われているので、関心が高まっているようにも感じました
ビデオの再生回数からはほとんどの方が1度は見てきて頂いているようにも思いましたが、予習ビデオには弱点もございます。それは、事前に見てきている方と、見てきていない方の「格差」が生まれる可能性があることであり、それを事前に察知して対策を行わなければ、当日の進行に影響をあたえてしまう、ということです。
今回は再生回数が人数をうわまっておりましたので、ほぼ全員の方が見てきているのではないか、と思いましたが、念のため、もちろん、ビデオの内容をざっとおさらいし、目的の確認を当日もやらせていただきました。これは著書「研修開発入門」に書かせて頂いたことですが、「目的の確認」は、何度も何度も、徹底的にお互いに「にぎった!」と確信できるまでやったほうがいい、というのが、研修を効果的にするコツのひとつです。
年末のお忙しいときに、ビデオをご自身のスマホ、PCなどでご視聴いただき、心より感謝いたします。おかげさまで、何とか無事大役を果たすことができました。
ちなみに、「10ミニッツプレビュービデオ」の作り方ですが、簡単なので、ぜひチャレンジしてみて下さい。
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1.デスクトップを「動画撮影」しつつ、音声録音できるソフトウェアを入手する。
Macならば、Snapz Pro Xがあります。動画形式でのスクリーンキャプチャと音声録音ができれば、どんなソフトでもかまいません。
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2.普通に、いつものように、プレゼンをパワーポイントでつくります。出来たら、それを開いておきます。
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3.下記の図のように、パワーポイントをひらきます。Snapz Proの「ムービー撮影」で、撮影する範囲を「赤線」のようにあわせます。で、あとは、撮影開始してください。
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4.プレゼンをします。Snapz Pro Xは、このとき、みなさんの声を録音しながら、「赤線」の部分のみを動画キャプチャーしています。
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5.プレゼンをするときは、気持ちいつもの「3割増しの元気さ」でプレゼンを読み上げて下さい。そのくらいが、録音後にきくとちょうどいいくらいです。経験的には10分くらいをMaxに、めざすが3分くらいのコンテンツがいいのではないか、と思います。
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6.撮影終了。そうすると、「赤線」で囲った部分のプレゼン+音声のムービーファイルが出力されます。これをYoutubeなどにアップロードするだけです。Youtubeでの動画公開範囲は「限定公開」にしておけば、URLを知っている人だけに公開されます。このURLを、あとは、知って欲しい人にシェアすればいいのです。
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7.携帯やスマホで読んでほしい場合には、先ほどのYoutubeのURLをQRコードメーカーにぶち込みます。Webでたくさんサイトがあります。たとえば下記などでしょうか
QRコード作成
https://www.cman.jp/QRcode/
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今日は休み明け初日からプラティカルな記事でした。でも、プレゼンを事前につくって読み上げるだけで予習ビデオができあがってしまいますので、もしご興味があるようでしたら、ぜひ試してみて下さい。
今週も頑張りましょう。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月12日 07:00
「あいつは、現場がわかっていない」という言葉に潜む「闇」!?
「あいつは、現場がわかっていない」
という物の言い方は、この国では、「北斗百裂拳に近いほどの衝撃波」を、言われる本人にもたらすことができます。
あーたたたたたたたたたたっ! あたー!
ビジネスでも、実務の世界でも、きっと、それはそうでしょう。
あーたたたたたたたたたたっ! あたー!
この国には「現場信仰」とよぶべき信仰がございます。「現場」に対する信奉者が多いこの国では、「現場がわかっていないこと」は「ダメの烙印」を押されるようなものです。
すなわち
「現場が分かっていない=仕事ができない人」
に近い図式が人々のあいだで認識されており、「現場がわかっていない」という烙印を押された人は、経絡秘孔を突かれた哀れな姿で、スゴスゴと退散する他はありません。
「現場なんてわかんなくていい、おれは机上の人なんだ!」
と胸をはって口に出せる人は、そう多くはありません。
▼
「あいつは、現場がわかっていない」
しかし、一方で、この言葉は、ともすれば「乱用」される傾向があり、その場合、様々な「立場の保全」や「事実の隠蔽」にも悪用される可能性があることも、賢明な読者の皆様ならば、見逃さないわけにはいきません。
もっともよくあるのが「あいつは、現場がわかっていない」ということで指し示す内容が、「現場」ではなく「わたしの考え・気持ち」であることです。
この場合、
「あいつは、現場がわかっていない」という言葉は「あいつは、わたしとは違う考えをもっている」「あいつは、わたしの気持ちがわかっていない」と同値になります。
もう少し言葉を捕捉すると、
「あいつは、現場がわかっていない
||
「あいつは、あたいとは異なる考えをもっている」
||
「あいつには、あたいの気持ちなんてわからないのさ、ヘン」
||
「なんで、あたいのこと、わかってくれないのよー」
というかたちになります(笑)。要するに、自分のコトがわかってほしいだけ。それを「現場信仰」を背景にして、「あいつは、現場がわかっていない」というラヴェリングを行っているだけの可能性があります。
▼
あるいは、賢明な皆さんなら
「現場がわからないのは、本当に悪いことなのか?」
ということ自体も、いったんは括弧のなかにいれて「疑う」必要があります。
「現場がわからない」のは、時には「現場の仕事のやり方が、あまりにも非効率すぎて、外部の視点からみた場合、わからない」かもしれません。あるいは「現場のわからなさ」は、現場の人々が、これまでの現場のやり方に固執していて、それが慣習化しており、それを外部の目でみたときに、全く「わからない」のかもしれません。
要するに何が申し上げたいのか、というと、「現場がわからない」のは悪いことばかりではなくて、「外部の目線から現場を変革しうるチャンス」にもなりうる、ということです。
このように「あいつは、現場はわからない」は、味わってみると、なかなか深い言葉です。そこには、様々な人々の思いや、現場の歴史が堆積していることがあるから注意が必要かもしれません。
▼
今日は「あいつは、現場がわからない」について書きました(笑)。こんなことを朝っぱらから考えているのは、あまり多くはないと思いますが、なかなかに味わい深い言葉です。
ひとつのポイントは、もし「あいつは、現場がわからない」と言われたとき、「現場の何」がわからないかをさらに尋ねてみたり、探索してみることなのかもしれません。
おそらくですが、
「あいつは、現場がわからない」
は、日本語としては意味が通じますが、このままでは「英語にならない言葉」だと思います。
要するに目的語に当たるものが、曖昧で不明瞭だからです。
まさか
He/She cannot understand GEMBA(×)
と訳す人はいないでしょう。ここで「GEMBA」と表現されているものが、より具体的には、いったい何を指し示しているのか、もう少し考えてみると、新たな地平がひらけるかもしれませんね。
あなたは「現場」をわかってますか?
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月 8日 06:41
者に聞くな、物に聞け!:あなたの組織の「口ぐせ」は何ですか?
よい組織には「口ぐせ」がある
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「トヨタの口ぐせ」という本を新幹線での帰り道に読みました。本書は、トヨタ社内で多くの経営陣、従業員が使い、口癖のようになっている言葉を集め、解説した本です。コンパクトな本なので、ものの1時間ー2時間程度で読了できるのではないかと思います。
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本書で紹介されている「トヨタの口ぐせ」には、下記のようなものが紹介されておりました。
・現地、現物、現実
(現場を徹底的に重視する姿勢を表現していると思われる)
・おまえ、あそこ行ってきたか
オレは行ってきたぞ
(経営陣が自ら現場に出向き率先垂範していることの意)
・者に聞くな、物に聞け
(人からまた聞きをして問題解決するのではなく、自分で現場でファクトをとって問題解決に当たることを表現している)
・現場は毎日変化させなければならない
(管理者は現場をカイゼンにより、常に変化させなければならない)
・6割いいと思ったらやれ
(現場でただちに行動にうつすことが大切)
・リーダーはやらせる勇気
メンバーはやる勇気
さすがはトヨタ、「現場」にまつわる口癖や、アクションオリエンティッドな口ぐせが、非常に多いのが印象的です。
これらの口ぐせが、現在、どの程度組織内にて人口に膾炙しているかは、僕には把握できません。が、このところ、ある企画でトヨタのご担当者さまとご一緒させて頂いておりますので、今度、伺ってみたいなと思っています。
さて、トヨタほど「現場」にまつわる口癖はないにせよ、組織文化の強力なところでは、それなりの「口癖」があるものです。
「口ぐせ」は組織の中で大事な思考、規範を強化することにもつながりますし、それを口にする人と、しない人のあいだに明瞭な「境界」をつくりだします。
おそらく、皆さんの会社にも、我が社ならではの「口ぐせ」があるのではないでしょうか? そういうのを集めてみると、面白いかもしれませんね。
皆さんの会社の「口癖」は何ですか?
僕の口癖?
そして人生はつづく(笑)
投稿者 jun : 2016年1月 7日 06:24
その研究は「昼の研究」ですか、それとも「夜の研究」ですか?:あの研究者は「真夜中は別の顔」!?
先だって・・・とはいいつつも、もう先月のことになりますので、随分前のような気もしますが、「一人称研究のすすめ」(諏訪正樹・堀浩一編著)という本を読みました。
僕は人工知能研究はまったくの門外漢なのですが、本書によりますと、一人称研究とは
「数少ない被験者(例えばN=1)の個別具体的な状況に面白い現象をみいだし、仮説をたて、その仮説を検索クエリーとして、同じ現象が数多くの他者にも成り立ちはしないか」
と探す方法である、とされています(諏訪 2015、p15)。
従来の研究が、まず「被験者(N=大量)」を数多くあつめて(大規模データを用います)、普遍的な共通点を探すこと」をもって普遍性を確保しようとしたのとはやや異なるアプローチといううことになりますね。
いまだ研究パラダイムとしては、「十分確立されている方法論」というよりは、「挑戦的かつ萌芽的な研究アプローチ」なのでしょうけれども、大変興味深く読まさせて頂きました。
こうしたアプローチが、バリバリの理系から出てくるところが大変面白いところです。人工知能学会は、最近、多くの研究者が「行って面白かったよ!」とよく聞く学会のひとつです(僕自身は残念ながら出かけたことはないのですが)。
研究者コミュニティにおいて、自らの研究方法論に関する前向きな批判(批判というと後ろ向きに感じられますが、それは非難)が為されるというのは、大変素晴らしいことのように思います。
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しかし、本書の中で僕が印象深かったのは、もう1点ございました。
本書の後半部分で、松尾豊先生が「研究という営みを自省する」という論文にてご主張なさっている「昼の研究」と「夜の研究」という概念が非常に面白いなと思いました。
この論文は、僕の言葉で申し上げますと、現代社会における「研究という営み」には「本質的な矛盾や葛藤」が存在していることを指摘したうえで、それに「絶望」するのではなく、「研究の社会的役割」と「研究者としての好奇心」という一見トレードオフに感じられるものを、何とか満たそうとする地平を論じた論文であると見取りました。
本論文にいわく、研究者には「二面性」があります(松尾 2015、p147)。
一方の側面は、「職業として社会から必要とされ、給料をもらうための存在」として仕事をすることが社会からは要請されているという点です。こうした存在がなす研究を「昼の研究」としましょう。
最近は「昼の研究」の要請が非常に強くなり、研究者は、社会に要請されることに対して徹底的に答えていき、自ら「ファンドレイジング」を行って、自分の研究費は自分で稼がなくてはならなくなってきました。
いや、これ、言うのは簡単ですけれども、結構大変です。僕の場合は、毎年秋以降になってきますと、来年度以降の自分の部門、研究室の運営費をどうするかに頭を悩めます。
(ちなみに、大変ではありますが、僕は、そのことを悲観的に思っているわけではありません)
一方、松尾先生は「昼の研究」の大切さを認めながらも、「夜の研究」という概念を持ち出します。これは研究者のもうひとつの側面ーすなわち「自分の中に存在する内なる好奇心にしたがうこと」から為される研究であると考えられます。
乱暴にまとめると、
「昼の研究」とは「食うための研究」
「夜の研究」とは「知的好奇心にもとづく研究」
ということになるのでしょうか。
確かに研究者は、こうした「研究の二面性」を理解したうえで、それらをポートフォリオのなかに縦横無尽に展開し、潜在的に、異なる種類の研究を組み合わせて仕事をしているような気がします。このことは、自分を振り返ってみても、「そうだよな」と思います。
たとえば、自ら今行っている研究をポートフォリオとして考えた場合、昼・夜という明確な区別すらつけていないにせよ、「研究者としてやらなければならない研究」と「自分が好きでやっている研究」は僕の場合も別れます。
これは
「短期的に成果がでる研究」と「長期的におっかけていきたい研究」
ないしは
「プロポーザルを出せばまず通り研究費を獲得できる研究」と「プロポーザルを出しても、同業者に評価すらできないだろうなと思われる研究」
といってもいいかもしれません。
もっというならば、僕にも指導する大学院生が8名おりますので、
「指導学生の研究経費を稼ぎ、研究室を維持していくためにやらなくてはならない研究」
というのもあります。
研究者も「人の子」ですので、「もてるリソース」には限界があります。研究者は、自分のもてるリソースのなかで、こうした「研究のバランス」をとりながら、日々の仕事をしているように感じます。
このことは、もしかすると、企業のR&Dの現場でも、よく言われることかもしれませんね。企業R&Dのコンテキストでは
「机の上の研究=企業内研究者として会社のためにやらなくてはならない研究」と「机の下の研究=自分で密かにおっている研究」
という分け方ががございます。もしかすると、「昼の研究」と「夜の研究」は、それに近いものもあるのかなと思いました。大変興味深いことです。
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新年早々のブログ記事は、研究論からはじまりました。
今年も、あーだこーだと朝っぱらからつづっていきたいと思いますので、どうぞよろしく御願いいたします。
そして人生はつづく
投稿者 jun : 2016年1月 6日 06:56