人はどこまで自分の進むべき道を「選べる」のか?

 人はどこまで自分の進むべき道を「選べる」のか?

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 僕はたまにこんなことを考えることがあります。今日はボヤキのようなブログになることをどうかご容赦ください。

 この問題、一般的には、自分の人生の進むべき道を考えるうえで、まず「前景化」してくるのは「自己」です。
 すなわち、自らがしっかりと考え、きちんとプランを立てながら、自ら「選び取ること」が「よし」とされる。

 これとは全く異なる視点としては、「いきあたりばったり、なるようにしかない」という観点もあります。つまり「なすがままにまかせる」。

 しかし、人生の正午といわれる40にして、自分の人生を振り返ったとき、「自己」か「なすがまま」のどちらか、と聞かれると、どうも、どちらだ、と明言できない自分に気がつきます。

 自分で選んでいないか、と聞かれると「そうではない」気もするし、「なすがまま」にしてきたか、と聞かれると「そうではない」気もする。

 事態はもっと「渾然一体」「カオス化」としているといったほうがいいかもしれない。
 すなわち、どこからどこまでが「自分の選択」なのであり、どこからどこまでが「なすがまま」なのか「すら」わからないのです。

 ただ間違いのないことは、2つあります。

 ひとつめは「信頼できる誰かから、何か、新たなことを持ちかけられたとき」、どんなにそのことが荒唐無稽に思えても、すぐに拒絶はせずに、「迷ったら、やる!」方向で物事を考えてきたような気がします。

 ふたつめは「迷った上でやる!」と決めたら、成果を必ず出せるように徹底的にのめり込んできた、ということです。というか、後にはもう引けないな、という感覚で、物事に打ち込んできた、とは言えるかもしれません。

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 自分の人生を振り返ると、不思議なもので、僕は、「自分で生きている」という感覚をもちつつも、「人に生かされている」という感覚をもつことがあります。「人に生かされている」は「人に活かされている」としてもよい。

 すなわち、何かを誘われて「迷ったら、やる!」方向で、物事を進めていくと、さらにその先には、「そのベクトル上」で、「新たに声をかけてくれる人」がでてきて、知らないうちに、その方向で、何かをやりつづけている自己がいる。

「古い過去の自分」とは少し違う方向で、「他のことに取り組んでいる自己」を発見する、というのでしょうか。
 自己に対して「新たなラヴェル」が社会的に打たれるようになってきて、そのことに気づくようになるのです。

 そして、後から考えたときに、「迷ったら、やる!」と選択してきたときが、自分にとっての「ターニングポイント」と意味づけられることになります。

 しかし、そのターニングポイントは、100%自己の選択ではなく、他人の声に「任せて」きた結果でもあるのです。この意味で「自己の選択」と「なすがまま」は渾然一体としているような気がします。

 自分の人生を「生きている」ようでいて、「生かされている=活かされている」感覚を持つ、というのは、こういうことですね。

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 今日のブログは、本当に「わたし語り」でした。朝っぱらから、暑苦しくてすみません。なぜ、朝っぱらから、こんなことを書きたくなったのかわからないのですが(笑)

 今日はクリスマスイブです。
 皆さん、メリークリスマス。
 よき日を

 そして人生はつづく