世の中に蔓延する「つぶしがきく幻想」を冷静に考える!?:いったん学んだことだけで、一生食いっぱぐれないのは可能か?

「先生、つぶしがきく学部とか、つぶしがきく学問って、あるんでしょうか?」

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 かなり前のことになりますが、あるところで講演させて頂いた際、ある親御さん(たぶん?)から、講演終了後、ご質問をいただいたことがあります。
 小生の拙い話を聴いて下さり、本当にありがとうございます。このやりとりは、かなり印象深い思い出です。

 親御さんからのご質問は、「つぶしがきく学部 / 学問」に関するご質問でした。
 しかし、あいにく僕の方は「つぶしがきく」という言葉と、その発想を、おそらく、この数十年にわたって一度も使ったことも、思いついたこともなかったので、一瞬、絶句してしまったことを覚えています。悪気はまったくないのです。どうかお許し下さい。

 冷静さを取り戻すのに3秒くらいかかったのですが、何とかお答えできたのは不幸中の幸い?でした。僕の答えは、一番最後に申し上げます。

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 周知のとおり、「つぶしがきく」とは、

「どんな職種にも対応できる、文脈に依存しないスキル・能力を教育機関で獲得できており、それがいつでも利用可能なこと」、すなわち、ワンセンテンスで申し上げれば、

 「どんな状況になっても、教育機関で学んだことを活かして、食いっぱぐれないこと」

 をいいます(笑)。

 もともとは、「つぶし」とは「潰し」のことでしょう。一度できあがった金属製品を「潰して」、溶解させて、また「整形」しなおすことができることをもって、「つぶしがきく」というのだと思います。

 一般的には、「つぶしがきく学部」とかいう風に使われますね。「手に仕事をもつことができると考えられる学問が学べる学部、「習得に時間がかかる理系の分野」などが、「つぶしがきく」んだそうです。

 へー。

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 しかし、他人はどうであれ、僕は、この「発想」こそが、現代社会では最も「リスキーな発想」なのではないかと思います。
 といいましょうか、ひとりの親としても、我が子には、「つぶしがきく」という発想を、絶対「おすすめしない」だろうな、と思うのです。他人はどうあれ、僕が思うところを下記に書きます。

 僕がもっともリスキーだなと思うのは、この言葉の背後にある仮説=背後仮説です。

 この言葉の背後には、

1.どんな状況になっても、生き残っていける万能のスキル・能力があるはずであり、それを体系だって教えてくれるものが学問であるとする考え

2.その学問分野を教育機関では学んで、スキル・能力を獲得しちゃうことが、将来の優位まで保証してくれるはずだという考え

3.仕事に入ったら、それを武器として、何とか生き残っていくことができるはずである

 という考え方が見え隠れするからです。
 
 ここにあらわれる背後仮説は、

「学問=食いっぱぐれないためのスキルや能力を教えるもの」

 という発想があり、

「教育機関=学ぶところ」
「仕事領域=学んだことを活かして生き残るところ」

 という発想を含み

「どんな場所にでも通用する知識・スキルはある」

 という前提を是とします。そして、その後景を彩色するのは「親御さんの切実な思い」です。その「熱い思い」をワンセンテンスで申し上げるとすると、

「うちの子どもには、ババ(つぶしのきかないもの)をひかせたくない。つぶしがきく=どんな状況にでも通じる武器を持たせてあげたい」

 気持ちはよくわかりますよ、親として。
 本当に、本当に痛いほど。

 しかし、さんざんぱら、研究してきた僕としては、この熱い思いに肯定的回答をなすことはできません。

 僕の常識では、

1.これだけ社会のあり方が変わる現代で、どんな状況でも生き残っていける知識・スキルを想定することは困難である。むろん、学問はそれを体系的には教えられない

(=むしろ社会で必要とされる道具はかわるので、もった道具を手放さないことは、リスクにもなりえる。いったんもった道具を持ちかえることを厭わないこと、あるいは、持っている道具を組み合わせて利用するなどの方が重要。せめて学問をすることによって獲得できることは、道具を探し続けること、言い換えるのなら、学び続ける姿勢なのかな、と思います。これに関しては、 例えば、こんな反論もありえるかもしれません。「理系=手に技術がつくから将来安泰」ですよね、と。でも、「理系=手に技術がつくから将来安泰」といいますけど、本当ですか? 「手に技術がついて将来安泰」なのは、その技術が環境・市場に受け入れられるときだけですよ。この世の中には、「あることに熟達すること」が、かえって、「環境変化への適応」を阻害してしまうこともあるのです。)

2.教育機関で学べることだけで、一生生き残っていけると考えることが、そもそも想定できない

(=教育機関にはできることと、できないことがある。僕には、教育機関には、仕事人生を丸抱えできる知識やスキルを教えることができると考えられない。教育機関にできることは、まずは仕事領域に参入する準備をなすことと、初期キャリアにおける適応である。めちゃくちゃ気合いをいれれば、概念的創出力の獲得も期待できるが、これは非常に難しい課題のひとつである)

3.仕事領域に入っても学びはつづく。むしろ、そこで学び続けることが重要
(=社会で必要とされる知識やスキルは常に変わり続ける。よって、継続的に学ぶ意志が重要)

 ということになります。

 むしろ、ある学問をやりたいと願う子に、

「あんた、そんなもの学んでどうなるの? 教育機関では、つぶしがきくものを学んで、一生食いっぱぐれないようにしなさい!」

 と言ってしまうことはリスキーであるようにも思います。なぜなら、それを聞いている子どもは、1)どんな状況でも食っていける魔法の杖みたいな道具があるんだ、2)学問ってのは、そういうのを体系的に教えてくれるんだ、3)教育機関で学んだことだけで一生食っていけるんだ、4)仕事領域にでたら学ばなくていいんだ、と誤解をしてしまうだろうから。ま、取り越し苦労かもしれませんが。

 これは拙著「経営学習論」にも書かせて頂いたのですが、

「人が有する知識やスキルというのは、文脈に依存しており、思ったほど、ポータブルではない」

 のです(中途採用の章)。
 むしろ、「文脈にめちゃめちゃ依存している知識やスキル」を、「文脈非依存である」と考えることの方が、リスキーかもしれません。

 

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 だから、僕の答えはこうです。

「一瞬黙ってしまって、本当にすみません。でも、気分を害さないでお聞き頂きたいのです。親御さんの思いは、僕も親なので、よくわかります。「つぶしがきく学問」とか「つぶしがきく学部」があったら、僕もうれしいです。

 でも、僕には、それがどうしても、想定できません。現代社会は「変化が早い」でしょう。 
 僕たちは親として「つぶしがきく学問や学部はないか」と追い求める発想をしてしまいがちですよね。でも、こういう変化の早い時代は、「つぶしがきく発想」をしてしまうこと自体が、意味をなさない社会なのではないでしょうか。

 もちろん、実証できているわけではありません。でも、さんざん研究してきて、いろいろみてきて、今の時代は「つぶしがきくもの」を追い求めても、あまり僕には意味があるようには思えません。

 むしろ、将来の成功を約束するものがあるのだとしたら、お子さんが、教育機関においても、仕事領域においても、地道にコツコツと、地に足をつけて、学びつづけることをやめないことではないでしょうか。学ぶことをやり切ることなのではないかと思うのです。

 つぶしがきくってのは、学び続けることができることです。そういうことを、学問することを通して、ぜひ学べるとよいですね。僕は、そう思います」

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 今日は「つぶしがきく」ということについて書かせて頂きました。
 皆さんはどう思われますか?

 そして人生はつづく

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追伸.
 毎朝4時におきて原稿をかく毎日です。結局、ここしか時間がないんですよね。今月は脱稿本が多いですね。人材開発の論文集「人材開発研究大全」(東京大学出版会)もでますよー。

 どうぞお楽しみに!