「研究として成立すること」と「自分が研究したいこと」のせめぎ合い!?

「研究として成立すること」と「研究したいこと」は、似ているようでいて、微妙に異なります。

「研究として成立すること」というのは、いわば「研究になること=体裁をたもった研究としてまとめあげることができること」です。「研究になること」のために必要な要件は、ざっくりいえば、「オリジナリティ」と「適切な研究方法論」です。

 特に、重要なのは前者。
 オリジナリティとかくと、たいそう大げさなことのように聞こえますが、そんなことはありません。どんなに「プチ」でも「ミニ」でも「ちょろ」でもいいから、とりあえず、「これまで他人が誰一人としてやったことのないこと」を為せばよいということになります。

 そして問題はここからはじまります。
「これまで誰もやったことのないこと」というと、大きく分ければ、2つの可能性があります。ひとつは

「あまりに重箱の隅を突きまくっていて、そんなしょーもないこと、誰もやらんわ=おれもやりたくないわ」的な「誰もやっていない」

 と(泣)、

「おっと、こりゃ一本とられたね、その切り口は思いもつかなかったわ」的な「誰もやっていない」

 ですね。

 次回をこめて申し上げますが、悲しいかな、後者の「ものすごい切り口」など、なかなか生まれるわけではありませんので、多くの研究は前者に近いところでなされることが多くなります。

 もちろん、「後者の切り口」をみなめざしているのです。
 研究とは、これら「2つのオリジナリティ」の「せめぎ合い」です。現実を勘案し、どちらに近いところで、「落としどころ」を見つけることができるか。「ギリギリの攻防」がつづきます。

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 そして、問題は、さらに複雑になります。ここに第二軸目「研究したいこと」が加わることになるからです。

 多くの研究を志す人々は、「研究として成立するか、いなか」という軸を頭の片隅におきながら、それが「自分が研究したいことか、どうか」を考えます。いや、本当はその逆かもしれません。「研究したいこと、したくないこと」を先に考え、その後で「研究として成立するかいなか」を考えます。ともかく、ここには4象限の可能性が生じるのです。

 今、「研究として成立するか、いなか」を縦軸にとり、「研究にしたいかどうか」を「横軸」にとりましょう。そうすると、下記のような図が描けるはずです。

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1.研究として成立するし、自分もめちゃ研究したい
2.研究として成立するけど、自分としては研究したくない
3.研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい
4.研究としては成立しないし、自分としても研究したくない

 まぁ、1は「理想の姿」、どちらもシオシオノパーの4は「論外」として、問題は2と3です。
「研究として成立するけど、自分としては研究したくない」と「研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい」というものを、いかに対処するか、これが問題です。

 不肖・中原、個人的には、「研究として成立するけど、自分としては研究したくない」ものは、おそらく自分の指導学生には「やるな」と指導すると思います。あるいは、ぎりぎりまで粘って、「自分のやりたいこと」を見つけろ、というと思われます。

 理由は「モティベーションがもたないから」。だって、

 研究は谷あり、谷あり、谷あり、ごく希に山?あり

 なんです。そのプロセスはまことに厳しい。この厳しい道程を、「自分のやりたくないこと」をしょって駆け抜けるには、まことに荷が重すぎます。

 後者の「研究として成立しないけど、自分としてはめちゃ研究したい」をいかに研究として成立させるようにするか。これは、研究指導の醍醐味ですね。

「誰がみても研究としては成立するもの」は、ほっておいても「研究として成立する」のです。問題は、「いや、ちょっとこの合わせ技無理じゃない?」というようなリサーチクエスチョンで、「本人の思いがこもっているもの」を、いかに二人で研究に仕立てていくかです。もっとも楽しく苦しい(Hard fun)ところです。

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 今日は「研究として成立すること」と「研究したいこと」の微妙な関係を書きました。
 人が思いきり思考し、心ゆくまで探究できる期間は、そう長いわけではありません。僕はいつもそう思って仕事をしています。

 思いのある研究が、世の中に増えることを願います。
 「今、ここ」の瞬間は、思った以上に、短いかもしれません。
 心ゆくまで暴れなさいな(笑)。

 今週も頑張りましょう。
 そして人生はつづく