「他人の経験談から学ぶとき」に気をつけておきたい3つのポイント:「自慢話にしか聞こえない経験談」を避けるためには!?

 もし、人が、「自分が経験した出来事」からしか学べないのだとしたら、これほど「非効率」なことはありません。「ひとりの人」が経験できる範囲や種類など、かなり「限界」がありますし、経験することにも「実時間」がかかります。
  また、先だってお話しましたように、経験とは「賭け」でもあります。未知数の事柄に、自己を投企せざるを得ないものが「経験」なのだとしたら、そこには一定のリスクが生じます。このように「自己に限定された経験学習」には「限界」があります。

「経験から学ぶ」とは「賭け」のようなものである!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/09/post_2477.html

 さて次に話をすすめて「自分が経験したこと」以上のことを学ぼうということになるのだとすると、次に有望なリソース(認知的資源)は、「他人の経験」ということになります。

 この場合、他人が経験している様子を直接知覚するというのが、もっともシンプルな方法ですが、事後的にでも、「他人の経験」から学ぶことができます。そのひとつの手法が「他者の経験談から学ぶ」ということでしょう。

 しかし、この「他人の経験談」というのが、なかなか厄介な「曲者」です。他人は必死で経験談を語ってくれているのだけれども、その経験談からは、なぜだか学べない、あるいは、全然、刺さってこない、ということが、日本全国各所で見受けられるような気がするのは気のせいでしょうか。

 朝は時間が無いのでエイヤッと括りますが、「他人の経験談」には、典型的には3つの問題が生じることが多いと思います。よって、「他人の経験談から学べない」という事態が生まれやすいのです。それは何か。下記に列挙してみると、この3つです。

 1.プロセスが見えない
 2.教訓が見えない
 3.自慢にしか聞こえない

「1.プロセスが見えない」とは、他人は熱心に経験を語ってくれるのだけれども、聞き手には、その光景が浮かび上がらない状況をいいます。ワンセンテンスで申し上げますと、「どんな経験をしたのか、ピンとこない」。それなのに「他人が自分の経験から抽出した教訓」だけを押しつけられる。そんなイメージでしょうか。

 要するに、「どのような出来事が起きて、なぜ、そのような判断をして、どうしてその教訓が得られたのか」がわからないということです。

 これを防止するためには、経験談を語る前に、自分が語るべき出来事をつまびらかに、5W1Hを明確にして、具体的に具体的に想起しておくことが必要です。その出来事について「何にも知らない人」が、あたかも、「その場にいあわせたか」のように「映画の脚本」をつくるイメージで、経験を整理し、順序だって語ることが重要です。

 人は以外に、意外に、自分が経験した出来事については覚えていないものです。そういうとき、人は「話をはしょってしまいがち」なのです。そうすると、経験談の中でもっとも重要な「プロセス」が不可視化します。

「2.教訓が見えない」というのは、「他人が自分の経験をしたことで得られた教訓が刺さっていない」ということですね。1とは逆に、プロセスや出来事については、よくわかったのだけれども、結局、何が言いたいかわからない。ワンセンテンスで申し上げますと、

「So What?(だから、で、何?)」

 ということになるのでしょう。自分が経験談を語る際には、1に加えて、2の「オチ」も整理しておくとよいのではないかと思います。「オチ」が見えないということは、経験を語る側についても、自分の経験について「整理」がついていない、ということです。だから、経験学習をしているかどうかは、経験談を語らせることで、ある程度はわかってしまうものです。

「3.自慢にしか聞こえない」というのは、認知的というよりも、精神的な問題ですね(笑)。高らかに経験談を語ってくれたのはいいんだけど、結局言いたいことがわからず、他者が

 オレ、すげーだろ
 オレの過去、いかしてるだろ?
 オレ、今も、イケてるだろ?

 を主張する場になってしまった、ということです。要するに「自慢話」にしか聞こえないということですね(笑)。なぜ、こうした「オレオレの押し売り」になってしまうかというと、ひとつは

「経験談が他者に開かれていない」

 からです。

 つまり、経験談を聴くだけきいて、それで終わり、というような場になってしまうということですね。これを避けるための方法は、むしろ経験談を「素材」として「議論」をしたり、「質疑」を活発にしたりするなどのインタラクションを、盛り込むことではないかと思います。

 たとえば、仮に今、30分があったとします。そうであるなら、経験談は5分でもいいくらいです。残りの25分はインタラクションにあてるくらいが重要かと思います。

 大切なことは、他者の経験談の中から「聞き手が知りたいこと」についてより深い理解につながる話しあいができるか、どうかということです。こうして考えてみると、30分のうちの5分ですから、経験談は「学びの呼び水」くらいに考えておくとよいのかもしれませんね。

  ▼

 今日は「他者の経験談から学ぶためには何が必要か」について3つ書きました。3つともによく陥りがちなことですが、特に3つめは重要だと個人的には思います。

 なぜなら、経験談はともすれば、「絶対化」しやすいものだからです。今、ここに経験を語ってくれる人がいて、それを聴いていたあなたは、その人の「経験そのもの」を批判したりすることは難しいでしょう。
 これを避けるために、経験そのものから「経験から得られた教訓」をいったん切り離し、後者に関して、「今、自分たちが何をなすべきか」について話し合う時間をもつことだと思っています。

 さ、もう6時を過ぎました。
 そろそろ時間です。
 あなたが、今日もたくさんの経験に開かれておりますように

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月30日 06:17


「読書時間」を奪っていたものの正体!?

 本棚を見れば、その人の「知性」がわかる

 という名言を残したのは、どなたでしたでしょうか。

 確かに他人の本棚を眺める機会があるときなど、どれどれ、と眺めていると、その人の頭の中には、どのような知的世界が広がっているかがわかるときがあります。

「僕の研究室の本棚」はと申しますと、これが、多種多様な書籍の山となっており、とても他人にお見せできるレベルではありません。
 司書の経験のあるアシスタントの阿部さんに、「先生、もう限界です。本を整理して下さい」と言われておりますが、靴下ポイポイには、なかなか整理というものができず。。。今日も、多種多様で雑多に、本棚のエントロピーが増していきます。
 
 一方、自宅の僕の本置きスペースは、と申しますと、下記のように「ついに積ん読が2列」になっていて、「知性」どころの話ではありません。この図からは、最近、生活がたるんでおり、知的鍛錬をさぼっていることが見て取れます。そろそろ「立て直し」をはからねばと思っている最中です。

tundoku2015.png

 嗚呼。
 それにしても、何で、こうなったんだろう?

  ▼

 同様に、その人の知性やら選好が、意図せざるをしないとにかかわらず、発露してしまうものに、ソーシャルメディアのタイムラインがあります。

 その人が、「何」を「いいね」やら「シェア」やら「RT」しているかは、その人の「知性」やら「選好」を潜在的にも、顕在的にも明示してしまうことは、よく言われていることでしょう。最近は、就職活動で、大学生にもそのようなアドバイスがなされるそうです。

「タイムラインは、あなたの日常をうつすよ。あんまり、ろくでもないもの、RTしてたら、就職活動で見られてるよ」
 
 くわばら、くわばら。

 ところで、昨日、ある方とお逢いしていた際、

「先生、最近、マンガたくさん読んでいるでしょう」

 と突然指摘されたのは、大変びっくりしました。

「だって、タイムラインに、マンガのキャラがたくさんでてきてるから」
「えっ?そう?」

 僕としては、確かにアップした記憶があるけれど、ひとつひとつは全く記憶しておらず、タイムラインに、それが並んでいるのを見たときは、我ながらびっくりしました。自分のタイムラインを上から下まで見ることなど、ほぼないので、そこに「マンガネタ」がいくつか並んでいたのを見たときは、「ほほー」と思いました。

「そうか、今、マンガをたくさん読んでたんだ。全然気づかなかったわ。確かに、今、我が人生で、第二次マンガブームがおとずれてるな。」

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「しかし、まてよ・・・。もしかして積ん読が2列になっちゃったのは、マンガの読み過ぎが原因かも」

 考えてみれば、思い当たる節があります。
 昨日の晩も「とめはね」が読み終わらなくて、ヒーヒーしておりましたので(笑)。
 なんだ、さっきは「それにしても、何で、こうなったんだろう?」とか言っておりましたが、原因はかなり自明です。マンガの読み過ぎ?


(さぁ、君もポチしてごらん・・・大人買いしてごらん・・・フフフ。おもしろいぜぇ、、、君も、とめはねで、熱い血潮をたぎらしてみないか・・・さ、ポチしちゃえよ)
  
 ということで、「本棚」と「ソーシャルメディア」を重ね合わせると、自分の問題がわか場合があるようです。嗚呼、生活を立て直さなくては!

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月29日 06:17


リーダーは「完璧チーム」の夢を見る!?

 リーダーは「完璧なチーム」の夢をみるものです。

「完璧なチームを与えられたら、もっと成果が出せるのに・・・」
「やる気のあるやつだけ与えられたら、もっと素晴らしいアウトプットがだせるのに・・・」
「能力の高い完全チームをあてがわれたら、すごい成果を残すことができるのに・・・」

 リーダーは、あの手、この手をつかいながら、時に、気疲れを感じて、チームを率いています。デコボコなメンバーに、あの手この手で対処を試みているのです。目には見えないかもしれないけれど。

「動かない人」を何とかそそのかし、「動きすぎる人」を何とか押さえ。「暴走するメンバー」の方向性をただし、「微動だにしないメンバー」にささやき。

 あなたも、一度でもリーダーを経験したとしたら、そんなリーダーの気持ちがわかるのではないでしょうか。

 みんながやる気に満ちて、能力が高く、一緒の方向性を向いていて、お互いに意思疎通が可能な「完璧なチーム」さえ、わたしに与えてくれたのなら・・・。そんなチームさえあれば、すごい成果がだせるのに。

  ▼

 しかし、おそらくは、リーダーの、この夢は叶えられることはありません。
 
 なぜなら、「完璧なチーム」を与えられれば、そこには自ずと、メンバー同士が意思疎通をはかりながら「リーダーシップ」が生まれることが予想されますので、「リーダー」は不要になってしまうからです。ワンセンテンスで申し上げますと、「完璧なチームの存在」と「リーダーの存在」は、矛盾してしまうということです。「完璧なチーム」があるのなら、リーダーは「必要がない」のです。

 チームにメンバーをあてがう方からすれば、「完璧なチーム」を用意できるくらいなら、最初から誰も苦労はしない。

 今、特別に人をあてがい「リーダー」を敢えて依頼せざるをえないのは、この世には「完璧チーム」は存在せず、やる気も能力も方向性も「デコボコ・バラバラなメンバー」しか存在し得ないからだ、ということになります。

 ここでリーダーはひとつの結論に至ります。

 すなわち、

 リーダーが率いるのは、いつも「不完全なチーム」である

 ということです。 自分の目の前には「デコボコ」「バラバラ」しかない。「目の前のこと」が、やはり「現実」です。そして、最初から、自分に「完璧チームは割り当てらることはない」「いつも自分が目にするのは、デコボコ、バラバラである」と思っていさえすれば、腹もくくれませんか?

 にのごの言っていても、文句たれてても、しゃーない。
 「与えられたもの」の中で、いかに成果をだすのか?
 そう、目の前のものに向き合うしかないのです。

  ▼

 今日はリーダーとチームについて書きました。

 このように、私たちの生きる世界は「デコボコ」と「バラバラ」に満ちています。人種やら、性別やらもそうなのですが、あたりまえのことですが、人はそもそも「デコボコ」と「バラバラ」です。それこそが「ダイバーシティ」と呼ぶべきであり、それ以上でも以下でもありません。

 
 そして「デコボコ」と「バラバラ」があるかぎり、そこには「リーダー」が必要とされるのかな、と思います。ダイバーシティとリーダーは、かくのごとく、つながります。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月28日 06:45


論文に「箸休めワード」があったらご用心!?

 今年から、中原研究室では、「サマーゼミ」というものを実施しています。例年ですと、大学院授業が「夏休み」である現在は、ゼミ活動もやはりお休みなのですが、よく考えてみれば、「なぜ、授業にあわせて、研究の中心であるゼミ活動を休まなければならないのか、今ひとつピンとこない」(笑)。研究室の学生さんが「仕事をもっている社会人」であることが多い我が研究室では、なかなか皆さんの都合があわず「夏合宿」も原則廃止しておりますので、ここで何もしなければ、まるまる2ヶ月、論文指導がストップしてしまいます。

 加えて、中原研究室では、現在、研究室の研究として取り組んでいる企画があり、そこに大学院生の皆さんが参加してくださっています。そんなわけで、月に1度は、ゼミを開催し、相互のレビューをすることになりました。
 正直に申しますと、夏休みというのは大学の場合2ヶ月もありまして、その間に、研究のペースを崩す学生さんも少なくないのです。
 そんなわけで、月に1度のゼミをマイルストーンにしていただきたいなという思いもあります。もちろん、参加は任意。しかし、多くの大学院生が参加して下さったことは、まことに嬉しいことです。本当にお疲れ様です。

  ▼

 ところで、大学院生の皆さんの論文指導をしていて、気になったことが1つありました。これは全員にかかわることなので、ゼミ中にも指摘しました。
 それは、何かと申しますと、

 論文の中に、いわゆる「箸休めワード」が散見すること

 のです。

「箸休めワード」と申しますのは、ワンセンテンスで申し上げますと「前後のつながっていないロジックを強引につなげる接続センテンス」です。
 具体的には「話をもとに戻すと・・・」「このトピックの途中ではあるが、いったん・・・の話題にふれておくと・・・」「ところで・・・の話題ではあるが・・・」とか、そういうセンテンスになるのでしょうか。たぶんもっとも強引なワードは「閑話休題」でしょう。「閑話休題」をおくことで、「これまでの論理」をぶっちぎり、別のロジックをそれ以降で展開することができます。自戒をこめて申し上げますが、私たちを「箸休めワード」を「あまりつながりのよろしくない前後の文脈」に挟み込むことによって、何とかロジックをつなげようとするものです。

 やや戯画的に描き出しますと、こんな風になります。

  ーーー

 Aは・・かくかくしかじか、にょろにょろ、ほにゃらら・・Bである
 Bは・・かくかくしかじか、にょろにょろ、ほにゃらら・・Cである

 ところで話を元に戻すと

 ところで、AにはDも関連していることは言うまでもない

  ーーー

 わかるかなぁ(笑)。
 ここでは、前段では三段論法を用いて、A=Cであるという論理展開を行っているのですが、筆者は「そういえば」AにはDも関連していることを思い出しました。しかし、文章は進んでしまっているので、Aの話に戻るのはなかなか難しいものがあります。そこで用いられるのが「箸休めワード」です。無理矢理「ところで話を元に戻すと」というワードを挟み込むことによって、Aに戻ります。

 こうした論理展開は、多くの学術論文では、分野にもよるでしょうが、まず用いられることはありません。レトリックを駆使する分野もあるのでしょうが、少なくとも僕の研究分野では皆無といってよいと思います。
 なぜなら、一般に

 論文とは「1ミリのロジック破綻」も許されない精巧な「論理のブロック」のようなもの

 だからです。

 一概にはいえませんが、論文とは、

 「あー、こんなに、論理が流れちゃってかしら。気づいたら、仮説提示から結論まで、いつのまにか、ボートがたどり着いちゃっておりましてよ、ウフ」

 という感じの文章なのです。
 論理に論理を積み重ね、問題関心から結論までを「一筋の線」でつないでいきます。「気づいてみれば、いつのまにか、結論にたどり着くがごとく」論理をスムーズにつないでいかなくてはなりません。

 だから、論文を書いていて「箸休めワード」があったら、その前後を読んでみてください。100%ではないですが、そこに論理展開の危うさが隠されていることがままあるものです。また、論文を書いていて箸休めワードを用いたくなったら、逆にご用心です。そこには筆者は薄々感じているような「論理の破綻」「論理のつながりの薄さ」が見え隠れすることが多いものです。しょうもない知識ですが、これが僕がご紹介できる実践知のひとつです。

 閑話休題!(笑・・・これも箸休めワード)

  ▼

 今日は「箸休めワード」のお話をしました。このことについては、かつて「論文とビジネス書の違い」という記事で紹介したことにゆるく関連している内容です。以下に書きましたように、論文とは「One Paper, One Conclusion」。論文は「、「フォーカスを徐々にしぼりながら、最後の結論の1点に至ること」が求められます。一方、ビジネス書は「いくつかのクラスター」を寄り道しながら「ノンリニア」に進行する文章ということになりますね。まぁ、ブログも後者ですね、圧倒的に。

「論文」と「ビジネス書」は何が違うのか?
http://www.nakahara-lab.net/2013/01/post_1924.html

 というわけで(箸休めワード)、10月1日には、研究室の大学院生さんに〆切がいくつか来るようです。また、これから大学は卒業論文、修士論文、博士論文の季節になるのでしょうか。ぜひ、皆さん、頑張って頂きたいものです。
 長い長い知的探究も、終わらないということはありません。
 ぜひ、最後の最後まで「執着」して、よい作品を、仕上げていただきたいと願っております。

 そして人生はつづく 
 

投稿者 jun : 2015年9月25日 06:24


「転ばせ方」のデザイン!?:「経験学習」時々「痛みあり」!?

 先だって、東京学芸大学の高尾隆先生に、僕の講座「ラーニングイノベーション論」にお越し頂き、一日ワークショップをご出講いただきました。
 毎年の事ながら、高尾さんには、味わい深い含意のある様々なエクササイズを行っていただき、心より感謝いたします。学部時代の同期の縁が、このようにつながっているのは、とても嬉しいことです。心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

  ▼

 ところで、高尾さんがワークショップ中に口にしておられた一言で、非常に印象に残る一言がございました。それは「子どもに一輪車にはやく乗せるためには」というお話です。
 当日、ICレコーダを持っていたわけではないのですが、速記メモによると、下記のような趣旨の言葉であったと認識しています(ごめん、僕の言葉も入っているような気がします)。

 曰く、

 一輪車に早く乗せるためには
 「転ばせないこと」ではない
 むしろ「転ばすこと」である

 たとえ転んだとしても、
 乗らないことには
 一輪車はうまくならない

 しかし「転んで」血だらけになってしまったら
 乗る気力が失せるかもしれない
 一輪車に乗ることを辞めてしまうかもしれない
 だから
 一輪車を乗せる場所を考えなくてはならない
 
 剥き出しのアスファルトの上で乗せるのか
 芝生の上でのせるのか?
 それとも
 ゴツゴツした砂利道でのせるのか?

 転んで傷モティベーションが失われかけたとき
 誰かが声をかけるか?
 それとも自分一人でそれに向き合わせるか?

 事前に教えられることは多くはないにせよ
 転ぶ前に「前もって知っておいた方」がいいことはないのか

 とにもかくにも
 一輪車は「乗らないこと」にはうまくならない
 しかし、「乗ること」以外にできることはないのか?
 本当に本当にないのか?

  ▼

 ここで「一輪車の比喩」で語られていることが、まさに「経験学習」の本質であると思います。少し拡大解釈して考えますと、下記のようになるのかな、と思います。

 けだし、一輪車は「教本」を読むだけではうまくならない。「教本」が全く意味がないということではない。一輪車の各部位、安全留意事項等等については、あらかじめ学べるものはある。全く知らないよりは、知っていたほうがよいこともある。反知性主義の陥穽に自ら陥る必要はない。

 しかし、一輪車が乗れるようになるためには、とにもかくにも、乗らなくてはならない。この世には、いくら反知性と言われようとも、実際に「乗らなきゃうまくならないもの」が確かにある。いや、本当のところは、そういうものばかりだ。

 そして経験の浅い頃、「乗ること」には「転ぶこと」が付随する。最初の頃、「転ぶこと」には「擦り傷」や「出血」や「打ち身」がともなう。

 時には「痛み」に声をあげてしまうこともあるだろう。しかし「転ばずに乗ることができる一輪車はない」。だから、モティベーションが過剰に減じないように「よい転ばせ方」をしなくてはならない。

 だからこうもいえる。

 一輪車にはやく乗せることとは
「転ばせ方」をデザインすること

 である。

  ▼

 確かにこの世には「教本」を読んでも、うまくならないものがあふれています。そのときには「転ばせ方のデザイン」を考えてみる必要があるようです。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月24日 07:04


研修やワークショップへの「登壇後」はなぜ疲労困憊してしまうのか?

 最近の僕は、「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとは疲労困憊、喩えるのならば、もれなく「シオシオのパー」になってしまいます。

「シオシオのパー」とは、どういう状態かと申しますと、身体的には立ち仕事になりますので腰・肩・背中に疲労がたまりずっしり重く「燃え尽きている」感じで、対人関係的にはあまり他人と話をしたくならず「生ヘンジャー」を決め込み、しかしそれでいて、まだ知的興奮がさめやらず、時に、研修中の誰かの発言を思い出しては、「あーするべきじゃなかったかな」と思いなやみ、場合によってはなかなか眠つけない(笑)。はやく寝ろよ・・・。でも、それでいて、いったん寝付けば、もう「泥オブ泥」(笑)。次の日起きるのが辛すぎるという感じです。ワンワードで申し上げますと、もはや「廃人」(笑)。

 ま、僕だけかもしれませんが。

  ▼

 ところで、なぜこのような状態が生まれうるのか、さまざまな理由は考えられるのですが、理由のひとつにあるのは、「研修やら、ワークショップを為すこと」というのは、いわば「自分」を「交差点」におく行為に似ているのではないかと思うのです。一般論を述べるつもりは1ミリもありません。あくまで僕の場合はとお考え下さい。
 「交差点」では、さまざまな物事が激しい勢いでめまぐるしく交差し、自らもそれに翻弄されます。強いて3つあげるのだとすれば、「感情の交差」「視点の交差」「権力の交差」です。

 第一に「感情の交差」とは、研修やワークショップのファシリテータとは、時に、自分の感情を押し殺したり、逆に、感情を開放することで、すなわちパフォーム( Performing : 役割演技)をすることで、場の雰囲気をつくりだします。その感情の交差は、声や身振り手振りにあらわれます。

 ちょっと分野は違いますけれども、先日読んだ本のなかにアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァン「精神医学的面接」がありましたが、その中に「トレーニングした声」「デザイアとしての声」という概念がでてきます。

「トレーニングした声」とは、言うまでもなく、プロフェッショナルとして、トレーニングして作り込んだ、パフォーミングとして声です。
 一方、デザイア−とは「欲望」のことですから、後者の「デザイアーとしての声」とは、自分自身の感情が発露した声です。
 わかりやすいので、敢えて「声」に着目しますが、ファシリテータとは、こうした声をさまざまに工夫してもちい、場をつくります。そして、その際には、自分の感情が様々にねじれたり、よじれたりします。
「自分としては、これはやりたくない」けれど「場のためには仕方がない」ので、場を盛り上げるような発話をしよう。「自分としてはこうしたいけど、場はこれを許さない」ので、ここはこうでよう。こうした感情の交差は、非常に緊張を強いられます。ジェンダーの趣はありませんが、ホックシールドのいう「感情労働」に近いものがありそうです。

 第二の「視点の交差」とは、ファシリテータとは、研修室やワークショップで、参加者がどのようにあるのかを子細に「観察」しながらも、ときには研修室全体でどのようなダイナミクスが起こっているかを俯瞰的にみつめる目をどこかで持たなければならないことです。

 ワンセンテンスで申し上げるのだとするならば、ファシリテータは「虫の目」と「鳥の目」という複眼をつねに駆使しなければなりません。「警戒的明察性」ともいうべきアンテナを張り巡らし、場で起こっていることを見詰めなければなりません。そして、この2つの視点の交差、移動というものは、非常に緊張を強います。そろそろ「シオシオのパー」に一歩二歩近づいてきました。

 第三の視点は「権力の交差」です。
 これは、研修やワークショップの現場に駆動する権力の問題と、ファシリテータが意図して用いる権力移動の問題です。
 あたりまえのことを申し上げますが、研修やワークショップの現場というのは「権力から中立な空間」ではありません。
「どんなに今日はフラットでお話しましょう」だの、「今日はファーストネームで呼び合いましょう」だのいおうと、そこは権力が飛び交っている場です。学習者同士にも、立場、もっている知識、自己紹介するときに用いる名刺、スーツにひかる社章などで、権力勾配が生まれます。

 もちろんファシリテータと学習者のあいだにも権力勾配がうまれます。しかも、ファシリテータは、この権力勾配をときに自ら動かしながら、仕事をなしています。

 たとえば教室に「ここが安全な場であり、何でも話してもよい」という雰囲気をつくりあげるときには、学習者の下に自らのステータスをあわせます。しかし、一方で、まとめあげるとき、規範を抵触する行為が生じたとき、目標からそれたときには、自らのステータスを学習者の上に配置します。
 
 畢竟、研修やらワークショップをなすということは、権力勾配の操作を含むものであり、権力の交差空間に自らをおく行為です。そして、これがまことに疲れます。

 そして、このような3つの交差の果てにあるものが・・・「研修登壇後のシオシオのパー状態」ですね(笑)はい、いっちょできあがり。

  ▼

 今日は、なぜ「研修」やら「ワークショップ」やらに登壇したあとは、もれなく「シオシオのパー」になるのか、という「一銭の得」にもならないことを軽く論じてみました。

 こう書いてみると、かなり大変な機会にも思えますが、ビジネスパーソンの皆さんに参加してもらえる「学びの場」をつくるというのは、とても面白いことでもあります。

 皆さんのひとつひとつの仕事を通して、世の中を学ぶことができます。ああ、僕は何も分かっていなかった。世の中には、こんな仕事世界があるんだ。そういうことをひとつひとつ学ばせて頂いているのは、とても嬉しいことですし、それが研究に与える影響は非常に大きいのです。
 このような機会をいただきつつ、さらに「地に足のついた研究」を為していきたいと思います・・・気力・体力・知力のつづく限り・・・嗚呼。

 そして人生はつづく

ーーー

追伸.
追伸.
「HRアワード2015」(日本の人事部)に、中原が編者になった書籍「人事よ、ススメ!」がノミネートされています。「人事よ、ススメ!」は 松尾睦氏、難波克己氏、守島基博氏、久保田美紀氏、アキレス美知子氏、金井壽宏氏、妹尾大氏、高尾隆氏、曽山哲人氏、長岡健氏の各先生方の珠玉の講義を集めた「これからの人事」を語る本です。もしよいなと思われましたら、どうか、投票・応援をお願いいたします!

HRアワード2015、「人事よ、ススメ!」への応援をお願いいたします!
http://hr-award.jp/

投稿者 jun : 2015年9月18日 06:22


「成果を生み出すこと」と「成果を生み出し続けること」:村上春樹「職業としての小説家」を読んだ!

 先日、ふと訪れた書店で、ふと手にとったのが、村上春樹さんの「職業としての小説家」です。この書籍は、村上さんが「小説家」という職業、専門性について自由に論じたエッセー集です。

 なるほど、小説家とは、こういう職業なのか。小説を書くとは、こういうことなのか、と妙に首肯しながら読み進めることができました。仕事論好きの方にはおすすめの一冊です。

  ▼

 ところで、本書冒頭にて、村上さんは「小説家は寛大である」というテーマを論じています。「何に寛大か」というと、「小説家以外の人」が「小説を書くこと」や「小説を発表すること」についてです。それら「外部からの侵入者」に対して、小説家は排他的に動くことや、排除する言動をなすことは希である、といいます。異業種からの「参入」については「寛大」である。

 小説家以外の他の専門家ならば、自分の領域に外部から侵入者がやってくると、「場を荒らす」として排除に動きがちです。全力をかけて、それを阻止し、妨害する場合もないわけではありません。しかし、小説家はそれをしない。

 しかし、なぜ「小説家が外部からの侵入に対して、寛大か」というと、ここには「小説を書くことにまつわる特異性」が見え隠れします。
 まず第一に、著者は「小説を書くことは、実は、それほど難しくない」からだといいます。
 
 しかし、一方で小説家は、

 「小説を書きつづけることは、難しいこと」

 を骨の髄までよく知っている。だから、外部からポッとでてきた侵入者に対しても、「寛大」でいられるのだといいます。

 「書き続けること」は本当に大変なことだから。要するに「書くこと」に対しては寛大。その上で、「書き続けることができるものならやってみろ」という面持ちで、外部からの侵入者を見ているのでしょう。

 やれるものなら書き続けてみろ

 35年、作品を生み出し続けている村上さんの著述からは、そんな思いを感じ取れるような気がしました。

 ▼

 妄想力を駆使して、これに付随するということを申し上げますと、研究者も似たところがあります。

 ひとつの研究を生み出すこと

 は、それでもソコソコ大変なのですが、実は、そう難しいことはありません。僕がいうと、便所スリッパでなぐられそうですが、実際、そう思うのだからしょうがありません。

 しかし、研究者の研究生産は「ひとつ」では困ります。研究者は「生涯にわたって」研究をし続けなければなりません。
 
 最初の登竜門である博論ならば、分野によっても違うのでしょうが、2本から数本の研究をなしとげ、それらをまとめる力が求められます。しかし、それとてまだまだ「入口」であり、ライセンスでしかありません。生涯にわたって研究をし続けるということは、それとは別のことです。

 そして、

 生涯にわたって研究を生み出し続けること

 は本当に大変なことです。

 僕にとって、研究者とは「問いを発し続ける人」です。ひとつ問いを設定し、実証するのも大変なのだけれども、それを生涯にわたってやり続けるというのは、本当に骨の折れることだな、と思います。

 ま、この構造事態は小説家と変わらないのにもかかわらず、研究者の場合、「寛大ではない」人もいないわけではないのですが・・・(笑)

  ▼

 今日は「成果を生み出すこと」と「成果を生み出し続けること」について書きました。「成果を生み出すこと」は、集中力と瞬発力で何とかカバーできる場合もあります。
 
 しかし「成果を生み出し続けること」は、それを生み出す習慣をつくるとか、身体を作り込むことを為さなければ難しいような気もします。
 
 そして人生はつづく

 

投稿者 jun : 2015年9月17日 07:31


「よきマネジメント」には「段差」がともなう!?

「よきマネジメント」は「諸刃の剣」です。

 「よき上司」に恵まれ、それらを享受できている場合は「人生ハッピー、うきうきルンルン」なのですが、そういう期間は必ずしも長いわけではありません。人も状況も、常に変化しつづけます。

 多くの場合、「よきマネジメント」を自分に提供してくれる上司とのつきあい、彼 / 彼女との「別れ」を、人はいつしか経験することになります。

 そして「よきマネジメント」から「移行」していった先には、必ずしも同等の「よきマネジメント」が待ち受けているわけではありません。もし許されるなら、すべてが「よきもの」であってほしい。しかし、実際のリアル社会は、そうではないのです。
 そこには「これまでとは違う上司」・・・多くの場合は、「ふつーの上司」ないしは「ちょっとイケてない上司」が存在しており、これまでとの違いに、あなたは「面食らうこと」になります。

 おざなりなコミュニケーション、いい加減な面談、曖昧な指示、公正さや誠実さのない行動。
 これまでの上司のマネジメントレベルが高ければ高いほど、移行先の新たな上司の「イケてなさ」が目につきます。場合によっては「不適応」や「拒否反応」として発現する場合もあるから、注意が必要です。

 要するに、

「よきマネジメント」は「段差」を生み出す可能性が高い

 のです。 

 これまで享受してきたマネジメントのレベルが「高い」ものであればあるほど、「これまで」と「移行した先」には「段差」が生まれる可能性が高くなります。「圧倒的にレベルの高いマネジメント」と、「圧倒的にレベルの低いマネジメント」の「段差」は、当社比「3メートルくらいの段差」になるでしょう(笑)

 リアル社会は「均一に物事が優れている」わけではありません。「段差」が生まれうるのは、「人に人をあてがう場合」の宿命です。物事が均一に優れているにこしたことはないのですが、あいにく、そうではない。また常に物事は変化しており、人は一カ所に留まることはなかなか難しいものです。

 かくして、

 働くことのリアルは「段差」に向き合い続けること

 でもあります。

 すべての段が「一期一会」
  「高い段」から多くを学び
  「それなりの段」をくぐり抜け
  「低い段」は反面教師にして、また学ぶ
 大丈夫、「一生つづく段」は、ない。

 仕事人生は、もしかすると、その連続なのかもしれないな、と思ったりもします。

  ▼

 今日は「よきマネジメントにまつわる段差」のことをかきました。実は、これと同様のことは、「教育」においても同じなのではないかと思います。

「よきクラス」「よき先生」に恵まれれば恵まれるほど、そうでないものと直面したとき面くらい、そして、人は戸惑います。そう考えるならば、「段差」を生きているのは子どもも同じかもしれません。

 世の中に、人がつまづくような「極端な段差」がなくなり、
 社会が高度にバリアフリー化することを願いたい

 しかし、一方で、残酷なことに「リアル社会は断じてそうならない」ことを知っているわたしたちは、せめて、

「段差」を受け止める心の平静さ
「段差」を乗り越え、学びぬく知性

 をもちつつ、明日を行きたいと願うのです。

 すべての段が「一期一会」
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月16日 05:58


「見せつける部下指導」をしちゃう「マウンティング上司」が生まれる理由とは何か?

 先だって、書籍の企画会議で、日本能率協会マネジメントセンターの久保田章子さん、ライターの井上佐保子さんと、ケンケンガクガク、あっちゃに飛び、こっちゃに飛びの「議論」をしておりました(飛んでいるのは、例のごとく、わたくしめの思考です・・・嗚呼)。3人で議論をしていたさい話題になったのが、新任管理職の「思い込み」に関する話題です。

  ▼

 以前も申し上げましたが、新任管理職には、「実務担当者から管理職への移行」にまつわる、さまざまな「課題」がございます。その中でも代表的なものが、

「管理職とは、かくあるべし」
「管理職なのだから、、、しなければならない」

 という「思い込み」です。
 これらの「思い込み」は、本人が仕事を為す上で、「拠り所」になるところもあるので、十把一絡げに、それらの思考に対して、「思い込み」というネガティブなラヴェリングを為すことに、わたしたちは慎重でなくてはなりません。
 しかし、それが「過剰」である場合や、「環境」にあっていない場合には、本人にも周囲にも、望ましくない影響を与えてしまうことがあるから「注意」が必要です。

  ▼

 先日の話では、新管理職が「陥りやすい」思い込みのひとつに

「管理職である自分は、部下よりも、優れてなくてはならない」

 という思い込みがあるよね、という話になりました。
 これは僕の研究にも符合することでもあり

「管理職である自分は、部下よりも、優れたスキル・能力を有していなければならない」
「管理職である自分は、部下よりも、豊富な知識を有していなければならない」

 という思い込みが、存在することがわかっています。

 一般的に管理職には、実務担当者で成果をあげた人が管理職に登用されるケースが多いと思われますので、「管理職が部下よりも優れている」場合のほうが多いこともあるのでしょう。

 が、しかし、成り立てホヤホヤの新任管理職の場合、特に彼 / 彼女たちは、自分たちのポジションや役割に「自信がまだない」ので、これが行きすぎてしまうと、

「管理職である自分は、すごいんだぞ」
「管理職である自分は、仕事ができるんだぞ」

 ということを「見せつける」部下指導をしてしまうケースがあります。
 本来、あまり「不要」であるにもかかわらず、「管理職である自分は、仕事ができるんだぞ」ということを「見せつけ」、力尽くで「納得させるため」の「マウンティング行動」に走ってしまうということです。ワンセンテンスで申し上げますと「見せつけるための部下指導」です。

 もっとも多いケースは、先ほどの思い込みが

「管理職である自分は、細かいところまで目が光っちゃうんだぞ」

 という具合に発展し、「重箱の隅をつついて、重箱に穴をあけてしまう」ような「見せつけるための部下指導」をしてしまうケースがありそうです。

 もちろん、世の中には、いくら「注意」や「指導」をしても、右耳から左耳的な人もいます。「重箱の隅どころか、蓋すらあかない人」もいますから、執拗な指導はときに必要であり、そのときには自信をもって為すとよいと思います。
 ここでわたしが問題にしたいのは、本来あまり必要のないのにもかかわらず、管理職本人に「自信」がないため、「見せつけるための部下指導」を為してしまうことです。こうした状況には注意が必要かもしれません。

  ▼

 今日は新任管理職の移行に関する問題を扱いました。「自分は部下より優れていなければならない」という思い込みと、「重箱の隅をつついて、各所に穴をあけてしまう」ような「見せつける部下指導」が展開する可能性を論じました。

 この問題は、新任管理職だけに特異に存在しうるのか、そうでないかはわかりませんが、それがきっかけで部下との信頼関係を築けないのだとしたら、管理職自らが、自分のあり方にフィードバックをもらう機会を得ることが大切になってくるのかもしれません。

 あなたの近くには「見せつける部下指導」をする管理職はいませんか?
 あなたは、自分に自信がもてず「マウンティング上司」になっていませんか?

 嗚呼、いつだってマネジメントとは、難しいものです。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月15日 05:59


【参加募集中】フィードバックについての英語文献をゴリゴリ読む会:360度フィードバックの理論をさぐれ!?

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「フィードバックについての英語文献をよむ会」参加者募集のお知らせ
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研究室OBの関根雅泰さんが、研究会を企画してくださいました。
題して「フィードバック研究会」です。
360度フィードバックをはじめとして、他者の行動補正・行動変容の
支援になるのがフィードバックです。今回の研究会では、10月と11月に
英語文献をエイヤとよみます。

英語文献を読んだり、まとめたり、報告したりするのは、簡単
ではないとは思いますが、我こそはと思われる方がいらっしゃらぜひ
ご応募ください。
(参加条件は厳しめです。ご一読くださいますよう、お願いいたします)

中原 淳

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フィードバックについての英語文献をゴリゴリ読む会
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日時:2015年10月29日(木)10時〜17時 & 11月16日(月)10時〜17時

場所:東京大学 本郷キャンパス 工学部2号館の93B

人数:16名(2日連続で参加できることが前提)

参加予定(敬称略):中原、保田、関根 (あと13名)

費用:無料

事務局:関根(中原研OB)

問合せ先:宛先 関根 info@learn-well.com

連絡:参加者が確定した時点で、連絡用のML(FreeML)を作成。

参加条件:

1)英語文献1本を担当。
  日本語にて要約・レジュメを作成し、15分程度で報告。
  (意見交換含め、当日は一人あたり30分程度で共有)

2)要約した文献を、各自がプリントアウトし、参加者人数分を当日持参。
  後日、PDF等で共有。

3)大学院レベルのアカデミックな議論に参加し、
  多くの研究のバックグラウンドのある参加者に貢献できること

4)事務局もボランティアで行われていることを理解し場に貢献できること

5)2日連続で参加できることが前提。
  申し込み後、当日欠席する場合、和訳レジュメは、MLにて提出。

===

今後の流れ:

 9月中旬 担当文献の選定と申し込み

 9月下旬 担当文献の確定
      (事務局が皆さんの希望を踏まえて、えいや!で決定)

      事務局から、文献PDFの送信

      各自で担当文献の読み込みとレジュメ作成

 10月29日&11月19日 研究会の実施(1日8本×2日)

===

スケジュール:

10月29日(木)10時〜17時

11月19日(月)10時〜17時

===

申し込み:下記フォームから申し込み
     (先着順。定員になった段階で募集を打ち切ります)
     
    https://ws.formzu.net/fgen/S82614534/

===

文献候補:下記17本の論文から、3つを選び、
      申込フォームに番号を記入(例:1、5、14)

     9月下旬ごろに、各自が担当する文献1つを事務局から連絡。
    

===

●文献 全17本 

(タイトルしか無くてすみませんが、ここから希望文献3本を選び、
 お申込下さい。3本のうち、1本を割り振れるよう調整しますが、
 希望文献外でもご容赦ください。)


1.Walker & Bucley(1972) Effects of Reinforcement, Punishment, and
 Feedback upon Academic Response Rate.

2.Nadler(1979) The effects of feedback on task group behavior:
 A review of the experimental research.

3.Horn(1985) Coache's feedback and changes in children's perceptions
 of their physical competence.

4.Sadler(1989) Formative assement and the design of instructional
 systems.

5.Podsakoff & Farh(1989) Effects of feedback sign and credibility on
 goal setting and task performance.

6.Diehl & Sterman(1995) Effects of feedback complexity on dynamic
 decision making.

7.Butler & Winne(1995) Feedback and self-regulated learning:
 A theoretical synthesis.

8.Kluger & DeNisi(1996) The effects of feedback interventions on
 performance: A historical review, a meta-analysis, and a
preliminary feedback intervention theory.

9.Kluger & DeNisi(1998) Feedback interventions: toward the
 understanding of a double-edged sword.

10.Deci, Koestner, & Ryan(1999) A meta-analytic review of
experiments examining the effects of extrinsic rewards on   intrinsic motivation.

11.Amorose & Horn(2000) Intrinsic motivation: relationship with
  collegiate athletes' gender, scholarship status, and perceptions
 of their coaches' behavior.

12.De Luque & Sommer(2000) The impact of culture on feedback-seeking
 behavior: An integrated model and propositions.

13.Conger & Toegel(2002) Action learning and multi-rater feedback as
 leadership development interventions: popular but poorly deployed.

14.Thach(2002) The Impact of Executive Coaching and 360 Feedback
 on Leadership Effectiveness.

15.Hattie & Timperley(2007) The Power of Feedback.

16.Sadler(2010) Beyond Feedback: developing student capability in
 complex appraisal.

17.Rai & Singh(2013) A study of mediating variables of the 
  relationship between 360 feedback and employee performance.

===

以上です。ご興味のある方はぜひ! 一緒に学んでいきましょう!
お申込み: https://ws.formzu.net/fgen/S82614534/

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投稿者 jun : 2015年9月14日 16:36


最近、あなたの仕事は「コタツ化」していませんか?:効率追求の果てに失われる「現場情報」とは?

「コタツ記事」という言葉があるそうですね。「話題が話題」なのでお名前をだすことは差し控えさせていただきますが、あるメディア関係の方から伺いました。いつも示唆に富むお話をありがとうございます。

 コタツ記事とは、「記事であるのにもかかわらず、まったく一次情報の取材を含まない記事」のことをいうそうです。とりわけ、ウェブの世界では、そうした記事の流通量が、年々、増えているのだとか。メディアは専門外なので、僕は詳細な情報をもちあわせていませんが、先日うかがったお話は、そのような話でした。

 曰く、ウェブの世界は、情報の消費スピードがとにかく速い。サイトを運営していくためには、PV(ページビュー:要するにアクセス数)があがるものを、ただちに大量に仕入れて、ただちに配信していく必要がある。とにかく量が必要であり、それを揃える必要がある。そこで犠牲になるのが「一次情報の収集」や「現場で話をうかがうこと」です。

 といいますのは「一次情報の収集」や「現場でのヒアリング」は時間的にも金銭的にも「コストが高い」のです。だから「しない」。むしろ、書斎で、コタツに足をつっこみながら、国内サイト、海外サイトの関連する記事をいくつか読んで、それらを「まとめて」記事をつくる。そうして合成されつくられる記事が、増えているのだそうです。
 しろうと目には、著作権法的にはどうなのかな、とも思うのですが、文章そのものを拝借しない方法をとり、たくみに切り抜けるのでしょう。専門外なので詳しいことは知りません。

 中には、アクセス数を獲得できる、エロ・グロ系のいくつかの文言を組み合わせ、「タイトルリストをつくること」から取り組むということも行われるそうです。記事は「まだない」のにもかかわらず、耳目を集める「タイトルリスト」は存在している。
 そのうえで、各タイトルに対して、それにヒットしそうな既存の記事をいくつか組み合わせて、記事をつくるというのだそうです。もし、こうした記事産出プロセスが、本当だとしたならば、その「徹底ぶり」はすごいなと思います。さしずめ「記事の工場」ですね。

 興味深いのは、そうしたプロセスをへてつくられる記事のアクセス数は、結論から申し上げますと、やっかいなことに「成績がよい」のだそうです。
 ウェブの世界では、丁寧な取材やヒアリングをへてつくられる記事と、いわゆるコタツ記事は、タイトルリストにおいては「フラット」です。ですので、どうしても、アクセス数を獲得できる記事のタイトルが、注目され、クリック数を伸ばすということになりがちなのだそうです。

 しかし、一方、コタツ記事にも「リスクはあるんだろうな」という気がします。
 これは専門外の僕の私見ですが、こうしたやり方は、短期的には奏功するのかもしれませんが、中長期的にはサスティナブルなモデルなのかと疑問をもちます。なぜなら、人はそうした記事、ないしは記事が羅列されるプラットフォームに「飽きる」のではないかという仮説が成立するからです。

 誰も知らなかった秘密の「ほにゃららダイエット」法とは?
 靴下ポイポイ必見! 妻の「お怒り」を鎮める「正しい方法」

 のようなどこにでもある、しかも、新規の取材をいっさい含まない記事を、複数回読んで、書いてあることがほぼ同じである場合、人は、そうしたサイトを中長期に利用しようとするのでしょうか。
 短期的には、興味本位でそれらをクリックするのかもしれませんが、中長期的にはどうなのかな、という思いをもちます。

 起こりえるのは、

 コタツ記事が氾濫する言説空間そのものへの「飽き」

 ではないかと懸念したりもします。

 加えて、コタツ記事を簡単に集めて配信するだけで、アクセス数が確保できるサイトを、てっとり早くつくることができるのならば、その「模倣可能性」は、高いことも容易に想像できます。

 そうであるとすると、起こりえるのは、

 コタツ記事を羅列するプラットフォームそのものの「増殖」と「プラットフォーム間の競争激化」

 であるような気もします。

 かくして「コタツ記事」のプラットフォームは、次第に苦境にたたされることもでてきます。ということは、コタツ記事を産出する担い手にとっても、あまりよいニュースは浮かびません。ペイの切り詰め、〆切の短期化など、労働条件の悪化を招かないとよいなと懸念します。そうならないとよいのですが。

  ▼

 今日は月曜日。
 週の頭から、なかなかヘビーな話題でした。専門外なので、詳細を間違っているところもあるかもしれませんが、どうかお許しください。
 
 速度と効率が求められる世界で、もっとも一番最初に失われるのは「現場」であり、「一次情報」です。かくして「コタツ化」が進行します。
 今日の話題はメディアに関することですが、「コタツ化」は、さまざまな仕事に起こりえることなのかな、と思います。自戒をこめて申し上げます。

 たとえば「人材開発」だって「コタツ化」しうると思いますし、もちろん、「研究」だってそうです。「コタツ人材開発」とか「コタツ研究」というものがあったとしたら、なかなかシリアスだなという思いを持ちました。自戒をふたたびこめて申し上げます。

 ところで、あなたの仕事、コタツ化してませんか?

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月14日 06:19


「経験から学ぶ」とは「賭け」のようなものである!?

「経験から学ぶ」とは「賭け」のようなものである

 これは前著「経営学習論」(東京大学出版会)に、僕が、ボルノウらの哲学を引用しながら書かせて頂いた内容です。

 一般に「経験から学ぶ」とわたしたちが口にするとき、脳裏にうかぶイメージは、この国に根強くはびこる「現場主義」と共鳴し、「ロマンティックなもの」であり、「ノスタルジック」な響きさえ感じさせる「よいイメージ」であることのほうがほとんどです。

 しかし、実際に人が「経験から学んだ」というとき、そこに展開されるリアリティは、それとは真逆の「生々しくも、苦しい、ドロドロ血のようなリアリティであること」がほとんどです。

  ▼

「経験から学ぶこと」が「賭け」である最大の理由は、まず、それが、「全メンバーに対して均等に配分されるようなタスクのような業務経験」というよりは、そもそも、みなが経験できない「組織の中でも最も重要なタスク」であるということに由来します。

 それは、そもそも、成功するか、失敗するか、わからない「賭け」のような業務経験です。当然、経験から学ぶことには、「失敗」や「試行錯誤」がつきまといます。

 しかし「組織にとって重要な仕事」で、「失敗の可能性」もありうるということは、その人の組織の中でのキャリアにも影響を与えうるということです。失敗するすれば、下手をすれば将来も危ぶまれます。

 この意味で、経験から学ぶことには「生存不安」「リスク」が常につきまいます。成功するか失敗するかはわからない。下手をうてば、キャリア上の「生存」さえ脅かされる。
 ちなみに申し上げておきますが、経験から学ぶ世界に「効率性」もへったくりもありません。なにせ、それは「賭け」なのですから。賭けをするとき、効率を考える人はいないでしょう? 効率を考えるなら、多くの賭けは成立すら難しくなるでしょうから。

 そして「経験から学べた」と呼べる人は、それを「乗り越えた人」です。「生存の不安やリスク」を背景に「賭け」にでて、見事帰還した人だけが、「オレは経験から学べた」というセリフを口にすることが許されます。だから、経験から学べたという言説は、いつだってロマンティックです。それは勝者の帰還の物語なのだから。

 経験から学べたというのは、本来、そういう生々しく、ドロドロしているようなもののように僕には思えます。

  ▼

 今日は「経験から学ぶ」ということについて書きました。

 仕事柄、よく

 うちの会社は、これから、経験学習を導入しようと思うんですよ

 という言葉を耳にするのですが、そういう言葉を耳にするたび、僕なんかは、「おー、それはめちゃくちゃ大変ですねーーー」「どSさんと、どMさん的世界ですねー」と思っちゃいます。

 しかし、そういう思いを僕が持ってしまうのは、経験から学ぶことにまつわるイメージが「ハード」であることに由来するのかもしれません。そこには巷間に流布する「経験学習」のイメージと僕のイメージに齟齬があるような気がします。

 そして、自らの身体を「経験」に向けて投企することがしんどくて、苦しくて「賭け」のようなものであるからこそ、わたしたちは「他者の経験を通じて学ぶ」ということが重要になってくるのだと思います。

 変化の早い時代だからこそ、自ら動いて学ぶだけでは不足する。そうしたとき、わたしたちは、他者の経験から「代理学習」をすることになります。

 他者の経験からいかに学ぶか・・・
 また話が長くなりそうなので、そのことについては、また今度書きます。

 そして人生はつづく
 

投稿者 jun : 2015年9月11日 07:30


「研修のエンドレス化」と「誰も実行しないアクションプラン」!?:

 マニアックな業界ながら「人材開発の世界」には、日々、様々な「変化」が押し寄せています。そのひとつが「終わらない研修」というやつでしょう。この場合の「終わらない」とは明らかに比喩です。

 要するに言いたいことは、

「研修で学んだことが実践され、成果をあげるために」必要なことは、「研修や教材のクオリティ」もあるけれど、「研修終了後のフォローアップ」にある

 研修とは「学んだことが実践され、成果をあげるプロセス」である。研修とは「授業をすること」でもなければ、「グループワークをさせること」でもない。

 研修を終えて、参加者が研修室のドアを出たときが、「研修の終わり」ではない。むしろ、研修室のドアを出たときが「はじまり」である。だとするならば、研修が終わっても、研修は終わらない(禅問答的ですね)。だから、研修は時間が過ぎても終わらない。

 本当に「研修が終わる」のは、研修で学んだことが、実践され、成果をだし、習慣化したときである

 ということですね。
 ま、「研修のエンドレス化」といってもいいかもね。終わるんだけど、終わらない・・・そう、成果が出るまでは!

  ▼

 そのような認識にたてば、「研修中のファシリテーションやら教材の作り方やら教授デザインやら」もむろん大切なのですが、「研修の終え方」というのは、非常に大きな研究課題になります。

 研修をどのように「終えるか」
 研修後、どのようにリマインドするか?
 研修後、参加者にどのようにコーチングを施すか?

 実際、こうした研究が増えています。

 研修中の「内容」もさることながら、研修後に、いかに「手離れ悪く?参加者とつきあうか」が、研修転移(研修で学んだことの実行)に与える影響は非常に大きいことがわかっているからですね。一方で、「参加者とどこまでつきあうのか?」という難しい課題に、研修実施をなさる方は直面します。言うのは簡単だけど、本当に大変。

 うーん。

  ▼

 たとえば、先だって関根雅泰さん(中原研究室OB・ラーンウェル代表)にご紹介いただいた書籍には、こんなことが書いてあります(いつもありがとうございます)。
 
 ある研修では、群間比較による学習効果の検証を行った。研修終了後、参加者達がつくったアクションプランをもとに、「30分×3回の電話コーチングを実施した群」と「電話コーチングを行わず、研修をやりっぱなしにした群」をつくった。
 その結果、研修前後の数字を比較すると、「営業数字の伸び率(研修前後5カ月間を比較)」が、電話コーチングあり群では43.8%、電子コーチングなし群では16.2%になった。
(Weber 2014)

 まことに興味深いですね。

「研修」に時間をかけるのではなく、研修後に時間をかけろ!

 著者らが言いたいことはそういうことです。
 
  ▼

 自戒をこめて申し上げますが、

 この世には「誰も実行しないアクションプラン」が充ち満ちています。

 研修を終えるときに、なかば儀式のようにつくられる「アクションプラン」。しかし、悲しいかな、その中には「実行されない」ものも少なくありません。

 問題は、現場にかえり、さまざまな課題と向き合った学習者と、どの程度まで「寄り添い」、成果をだすまで伴走するか、ということです。
 「アクションプランを創らせること」が研修ではなく、「アクションプランを実行させるまで寄り添うこと」が研修の仕事という認識が広まっていくのだとしたら、関係各所で、さまざまな見なおしが必要になってくるものと思います。「役割」の見なおしなのか、分担の見なおしなのか、仕事の再定義なのか。それはそれぞれの会社で違うでしょう。

 あなたの研修、いつ「終わりますか?」

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月10日 06:32


現場にしがみつき、権限委譲できないマネジャーは「なぜ」生まれるのか?

 よく言われているように「マネジメント」の本質が、

「Getting things done through others(他者を通じて何かを成し遂げる仕組みをつくること)」

 にあるのだとしたら、「マネジメントを完遂する」ということは、「明日、自分が消去したとしても、職場の物事が動くようにすること」とも言い換えることができます。

 別の言葉を使って申し上げますと、

 マネジャーである「あなた」が、明日、事故や病気で突然いなくなったとしても、しばらくの間は、業務が動き続ける体制をつくること

 です。

 逆にいうと、

 マネジャーがいなくなるとすぐに「にっちもさっちもいかなくなる職場」は「要注意」

 ということになります。
 言葉をかえますと、マネジャーは「自己消去に耐える仕組みをつくる人」のことをいいます。

   ▼

 しかし、このことは、マネジャーにとってみれば、少し「寂しさを感じざるをえないこと」でもあり「危うい行為」でもあります。
 なぜなら、「マネジャーとして仕事をなす」ということは、「自分を消去しても動く仕組み」をつくることであり、「自分をヴァルネラブルな地位」におく行為でもあるからです。

 マネジャーが「現場」に過剰にいすぎることがあっては、「自分が消去」されると売り上げに影響が及びますので、まずは「現場」をある程度「喪失」します。
 いだって「現場」は面白いものです。現場でうごく人々を横目でみながら、マネジャーは現場を離れます。
 でも、自分がいなくなっても物事が動くというのは、どこか寂しい。感情とはそういうものです。

 しかし、これだけでは「自己消去」に耐えることはできません。
 「自分がいなくなったとしても動く組織」をつくるということは言葉をかえれば、「権限を委譲」して、「バックアップ人材をはやめに用意する」、ということです。

 万が一のときに動ける「バックアップ人材」は、「万が一」でなくても、力をだすことができます。ということは、マネジャーは、下手をすれば、自分の「寝首」をかかれかねない人材を、自らつくりだすことになってしまいます。
 これに潜在的な恐怖や不安、そして寂寥の感を感じる人は少なくないものです。

 現場にしがみつくマネジャー
 権限委譲しないマネジャー
 権力集中させるマネジャー

 が生まれるのは、マネジャー本人の資質もあるでしょうけれども、マネジャー本人の「感情」や、それをめぐる「社会構造的な問題」に起因するものと思われます。
 だから、マネジャーにまず必要なのは「自分の能力に対する信頼」と「変わり続けることに対する自信」です。
 たしかに自分がいなくなっても、たとえバックアップ人材がいたとしても、自分はそれ以上の能力をもち、発揮することができる。
 たしかにこの現場の整っても、自分には別のものが養成される。自分はこれからも「変わり続けること」ができる。

 こういう「自己信頼」と「変化への自信」がなければ、

 現場にしがみつくマネジャー
 権限委譲しないマネジャー
 権力集中させるマネジャー

 が生まれます。

  ▼

 今日はマネジメントについて別の角度から考えてみました。
 かくして考えてみると、

 Getting things done through others

 というマネジメントの定義は、ものすごく深い含蓄をもっています。

 あなたの職場は、あなたがいなくなったら、何日持ちますか?

 そして人生はつづく

 ーーー

追伸.
 拙著「駆け出しマネジャーの成長論」は、いくつかの企業の新任マネジャー研修で、テキストとして用いられています。ありがとうございます。新任マネジャーが陥りやすい罠と7つの挑戦課題をかいた本です。エクササイズも用意されていますので、ワークショップを受けるように読むことができると思います。どうぞご笑覧ください。

 

投稿者 jun : 2015年9月 9日 07:04


「成果を出せる人材」が生みだされる中小企業にはどんな秘密があるのか?:11月9日(月)調査報告会&ワークショップ開催のお知らせ!

 ここ数年密か?に取り組んでいる研究に、トーマツイノベーション株式会社のみなさまとの共同研究がございます。同社の眞﨑大輔社長、小林学さん、川合真美さん、渡辺健太さん、井手真之介さん、池内祥隆さん、国崎晃司さん、長谷川弘実さん、そして中原研からは中原と保田江美さんが参加させて頂いている研究です。このような機会をいただきました同社の皆さんには、心より感謝をいたします。

 わたしたちの研究テーマは、ズバリ!

 中小企業では、どのように若手が育成されているのか?
 中小企業の職場では、中堅管理職は、どのように育成されているのか?

 です。

 これを明らかにするような共同研究を続けてきて、ついに、1000人規模の成果「大」発表会を開催させていただく段を迎えることができました。11月9日(月)品川での開催です。

2015-09-08_0537seika_happixyou.png
11月9日(月)・中小企業の人材育成、実態調査発表会@品川
http://www.ti.tohmatsu.co.jp/npro/

  ▼

 以前にも申し上げましたとおり、これまで人材開発研究の多くは、従業員規模300名ー1000名をこえるような、いわゆる「大企業」を舞台として行われきた経緯があります。本調査では、そのようないわゆる「大企業」ではなく、中小企業の350社の方々、2800人以上を対象に、インタビュー調査とアンケート調査を実施させていただきました。貴重な時間をたまわりました皆様に、心より感謝をいたします。

 調査票自体も、かなり手のこんだものになりました。社長行動、会社の数字データ、また、現場の実態を多角的に明らかにするため、質問票を「社長調査票」「人事・経理系調査票」「管理職調査票」「若手社員調査票」という4つの種類にわけ、なかなか実態をつかむことが難しい中小企業に接近しようとしています。

 中小企業の研究に関しては、古くから中小企業論の多数の知見がございます。また、数は、圧倒的に少なくなるものの、1980年代以降にいくつかの人材マネジメントに関する調査研究がなされています。
 本調査では、敢えて「人材開発」に徹底的にフォーカスをしぼることで、中小企業の人材開発の実態に肉薄することをめざしています。「中小企業の人材開発」にフォーカスをしぼり、そのメカニズムを明らかにしようとする研究は非常に限られているように思います。

 中小企業の人材開発と申しますと、海外のSME研究を概観しても、

「中小企業の人材開発? そんなの社長がやるかやらないかでしょ?」

 という主張が大きくなります。古くは、中小企業は二重搾取の対象と見なされることも少なくなかったので、そもそも人材を育成しようとする動きに着目すること自体があまり多くはなかったように思います。
 企業サイズが小さいので、社長の行動は影響力はあります。まぁ、それはそうなんでしょうけど、それ以外には、どのようなメカニズムがそこには作動しているでしょうか。本調査発表会では、質問紙を重ねることでみえてきた中小企業の実態に迫っていきたいと思います。

   ▼

 さて、当日です。
 もちろんのことですが、当日は、単なる「調査発表会」ー数字を羅列する会にするつもりはございません。

 まず最初に「調査の概要と結果」についてご報告差し上げたあとは・・・実際に調査内容で示唆した内容について「学んで頂けるワークショップセッション」を複数パラレルでもうけさせて頂いております。

 よくある調査発表会は「調査結果のみを報告」します。でも、そこで浮かんでくる思いは、

 「結果はわかったけど、で、どうすんの?」

 だと思うのです。当日は、「で、どうすんの?」に答えるワークショップをトーマツさんが3つ用意してくださっております。どうぞ起こし頂けますよう、お願いいたします。

 みなさまにお逢いできますこと愉しみにしております。
 そして人生は続く
  

投稿者 jun : 2015年9月 8日 05:47


ミーティングで「お菓子」を食べるのはアリか、なしか?

 この世には「二種類の組織」しかない。

「ミーティングでお菓子を食べる組織」と「ミーティングにお菓子だなんてケシカランという組織」

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 ・

 というのは半分「冗談」で、5分の1くらいは「本気」です(笑・・・残りはどこいった?)。
 が、ミーティングに「お菓子」がでるか、でないかというのは、ミーティング、とりわけ「アイデア出し系のミーティング」を語る上で、結構「大きな分水嶺」であるような気もします、、、ま、僕にとっては。

 「アイデア出し」はどん詰まると辛い。
  なかなかよいアイデアなんて、出ない。

 そんなときに出てくるのが「甘いもの」です。「お菓子」じゃなくても「飲み物」でも全くよいことは言うまでもありません。かなりこってりと話し合ったあとに、上司にあたる人が「ちょっと一息入れよう」といってポケットマネーをだす。で、それで「疲れた脳みそ」に、みんなで一息入れつつ、だべって、がっつり集中する。時折、お菓子をつまみながら、議論をする。
 
 逆に、キリキリするような議論を真面目に尽くして、それでも良い案がでずに、誰かが自暴自棄になったころに、他者を否定する発言なんかがでてきて、もうこりゃアカンわ、とリスケをする。で、リスケをした日にもキリキリ話しあうんだけど
、キャッチアップに時間がかかり、さらには、なかなかよい案がでない。

 僕だったら、たぶん、前者のあり方を好んでしまいますが、皆さんはいかがでしょうか?

   ▼
  
 さらに調子にのって話を進めると、今度は「じゃあ、どんなお菓子を買ってくればいいのか」ということになります。

 昔、まだまだ若かった頃、先輩によく言われたのは、お菓子購入の使いっ走りをするときには「小分け包装のお菓子を買ってこい!」。その上で、「甘いお菓子」と「辛いお菓子」を6:4か7:3の割合で買ってこい。「いくら甘いものっていったって、チョコだけじゃなくて、黒糖とかも混ぜておけ」、と。

 前者の含意は「包丁とかを使わなくてもすぐに分けられるで、取りやすい」。
 後者は、「甘いもの」が嫌いな人もいるし、甘いものばっかりを食べると辛いものも食べたくなるのが人情だろ、だから、甘辛(笑)かつ、気の利いた人は、甘いものにはヴァリエーションをもうけろ、というわけです。「チョコが嫌いっていう人もいるから、黒糖混ぜるのは基本だろ」という感じでしょうか(笑)

 ワンセンテンスで申し上げますと、

「アホンダラ!いくら、甘いもの買ってこいと言われたからって、そのまんま、甘いものを買ってくんじゃねー。頭を使え、頭を! あんパンを買ったあとに、ウグイスパンを買ってきて、どうすんだ!」

 ということでしょうか。
「お菓子の買い方」なんて、学校では教えてくれませんし、受験にも出題されませんが、「社会で必要とされる知性」というのは、こういうことだったりしますね(笑)。まことに微笑ましい思い出です。

 かつて、僕は「包丁で切らなければならない、甘いお菓子を、こってりと2重・3重にも買ってしまった」ので(笑)。

 そんな小生にご指摘をひとこと。

「おまえさー、包丁と皿、どこにあんだよ? 考えろよ」

 トホホ。
 先輩すみません。

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 今日は週明け早々、いつもにもまして「中身がない話」をしました(笑)。ごめん、まだ疲れがとれてないんです。
 でもね、、たかがミーティングにお菓子、されどお菓子。
 お菓子を食べる食べない、あるいはお菓子を買ってくる、来ないだけなのですが、なかなか、改めて考えますと、深いものですね。

 あなたの組織は、ミーティングでお菓子食べますか?
 そのとき、どんなお菓子が出ますか?

 今週も頑張りましょう。
 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月 7日 07:14


採用時に見極めなければならないのは本当に「コミュニケーション能力」なのか?

「採用」と「育成」の関係というのは、本当は「深くつながっているべきものであるはず」なのに、ともすれば、「断絶」していることの方が多いものです。

「どういう人を採用していくか(採用)」ということと「その人にどのように育ってもらうか?(育成)」は、本来、「組織の目標達成のためには、どのような人材が必要なのか?」という「究極のゴール」のもとに、本来、一貫しているはずでしょう(専門用語では内的整合性が高いといいます)。

 でも、現状、多くの組織では、これら2つの機能は、様々な経緯や機能上の制約から、それぞれに別々に動くことが多く、連携するのはなかなか難しいのが現状です。

 しかし、今日のブログ記事は、その「断絶」を嘆いたり、「統合せい」と吠えたいわけでは「1ミリ」もありません。
 むしろ「少し別の角度」から問いをズラし、「採用」と「育成」の関係を考えてみたいということです。

 別の角度と申しますのは、この問いです。

 すなわち、

「個人の資質が数あるなかで、採用後に育成をあてても、なかなか変化しにくい資質とは何か?」

 ということです。

 逆にいいますと、

「個人の資質が数あるなかで、採用後にはなかなか変わらないから、だからこそ、採用段階でしっかりと、その資質があるかないかを見極めなければならないのは何か?」

 という問いです。

 これら一連の問いに対して、あなたの組織では、どのように答えますでしょうか?

  ▼

 先だって、都内某所某機会で、横浜国立大学の服部泰宏先生にご出講いただき、採用研究の最前線を伺う機会がございました(服部先生には心より感謝いたします。ありがとうございました!)。
 服部先生は、講義のなかでBradfordらのタイポロジーを引用し、「個人の資質の中で比較的変わりやすいもの」と、「変わりにくいもの」に関して、下記のBradfordらの分類をご紹介しておられました。

■変わりやすいもの
 ・リスク志向性
 ・知識や技術
 ・教育の水準
 ・仕事経験
 ・自己に対する認識
 ・コミュニケーション
 ・第一印象
 ・顧客志向
 ・コーチング能力
 ・目標設定
 ・エンパワーメント

■変わることはかわるが、変わりにくいもの
 ・判断能力
 ・戦略的スキル
 ・ストレスマネジメント
 ・適応力
 ・傾聴
 ・チームプレー
 ・交渉スキル
 ・チームビルディング
 ・変革のリーダーシップ
 ・コンフリクトマネジメント

■変わりにくいもの
 ・知能
 ・創造性
 ・概念的能力
 ・部下の鼓舞
 ・エネルギー
 ・情熱
 ・野心
 ・粘り強さ

 なるほど、こうした分類には、さまざまな異論はありえましょうが、このように整理していくと、非常にいろいろ考えさせられるものがあります。
 
 ちなみにこれをざっと見て、まず僕が思ったのは、多くの企業が「採用の際に求める資質」である「コミュニケーション能力」というものは、「変わりやすいんだ」ということ。じゃあ、採用で見ている理由って何なんだろう、ということです。

 もうひとつは、「創造性」や「概念的能力」という、いわば教育機関、とりわけ高等教育機関で担わなければならないような領域は、やはり企業に入る前なんだよな、ということです。大学は、自信をもって(最近、自信を失っているように見えるのは僕だけですか?)、「抽象的な概念」を取り扱った方がいいと僕は思います。
 
 皆さんはいかが思われますか?

 これにゆるく関連して、先だって、某社の人事を統括なさっているHさんに、先日お話を伺った際には、Hさんの組織では、「変わりにくいもの」は「ものごとを徹底する力」である、と考えておられました(貴重なお話をありがとうございます!)。だから採用の際には「これを見る」そうです。

 そういえば、先だってお逢いした某社の営業役員の方は、

「やらなきゃならないこと、ついつい、先延ばししちゃう傾向」

 だけは、いくら口を酸っぱくしても変わらないよ、とおっしゃっていました。含蓄のある言葉です(感謝です)。

 今、ある講座を受講してくださっている女性のHさんは、

「採用後に何とかできるんで、うちでは、採用時には、コミュニケーション能力は見ません」

 とおっしゃられていました(貴重な情報を感謝です!)。

 皆さんの組織では、いかがでしょうか?

 ▼
 
 さて、今日は「採用」と「育成」のことについて書きました。

 「何が変わりやすくて(育成しやすくて)」、「何が育成しにくいか」ということの要素は、諸説もろもろ様々なあり、統一的な見解がいまだあるというわけではないように思います。

 しかしもっとも重要なことは、このように少し別の角度からの問いを投げかけ、組織としては人事としては、この問題をどのように考えるのかを話し合うことではないかと思います。願わくば「自社にもっともフィットしたタイポロジー(分類)」ができれば、よいのかもしれません。

「採用」と「育成」を連動させよう!

 と声高に主張しても、別々の人事プロセスとして動きがちな両者が密接に絡み合うことはなかなかないものです。
 しかし、そこは一計。問いをズラして、こうした「そもそもの議論」から初めて見ることも一計かもしれません。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月 4日 06:24


世の中には「モノサシ」がたくさんある!?

 北海道の実家から、大学進学をきっかけに東京(内地?)に上京(上陸?)してから、もう早いもので20年以上がたちます。先だって自宅のアルバムをチョロンと見る機会があり、その頃のことをふと思い出しました。もう20年か、一瞬だったな、と。

 今から20年前、その頃の写真を一葉一葉、手に取り見ておりますと、内地上陸?したときに感じていた思いがよみがえってくるようにも感じます。
 今日は、そんな昔話から、「世の中のモノサシ?」について考えてみます。

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 一言で申し上げますと、僕は、18歳の上京当時、非常に「混乱」していたような気がします。
 自分の周囲をめぐる、さまざまな「変化」に対して、いかに適応するか・・・18歳の僕には、そういう課題が眼前に広がっていました。
 そりゃ、「最低気温・マイナス44度の大地」から、「35度の真夏日をバコバコ記録しちゃうようなトロピカル東京?」に引っ越しましたので、適応に「困難」がない、というわけはありません(その差、80度ですよ!)。が、気温のみならず、上京したての僕は、様々な物や人に出会うにつれて、かなり「戸惑い」を感じていました。

 当時のことを思い出しますと、もっとも鮮烈に覚えている思いとしては、

 世の中には「モノサシ」がたくさんあるんだなぁ・・・
  
 という思いです。

 それまで、僕は「北海道の高校生」で、多少の紆余曲折はありましたけれども、すくすくと育ち、さっさと勉強をしてきました。
 当時の僕を支配していた「モノサシ」といえば、割にシンプルで、たとえば「学力」とか「体力」とか、そういう「モノサシ」が、僕を支配していたのかなと思います。

 でも、上京してきて、大学の友人とつきあったり、バイトなどで社会勉強をしたり、まず思ったことは、

 世の中には「モノサシ」がたくさんあるんだなぁ・・・

 ということです。

 たとえば、僕がバイト(新宿の飲み屋でつとめておりました)でお世話になっていた先輩は、「オレはお勉強は苦手だ」とはっきり申しておりましたが、当時のコンピュータの裏の裏を知り尽くしており、さまざまなプログラムを書いておりました。「オレはお勉強は苦手」なのに「すごい技術」をもっている彼は、そうした技術をもつ集団の中心的存在でした。これは「技術」というモノサシでしょう。

 たとえば、僕が数年後出会ったある方は、「日本のお寺というお寺の御朱印を集めちゃう」という壮大な目標を実行している人でした。おそらくですが、その人が歴史の授業に入れ込んでいた、というわけではないと思うのですが(想像です)、確実に、彼は「寺フェチ」でした。日本全国にはそのようなコミュニティ?があるらしく、今度、名古屋の何とか寺で会合があるんだ、とかおっしゃっていたような気がします。「お寺御朱印経験」というモノサシでいえば、彼はいい線をいっていたと思いますし、そういう人々とのつながりがあられるようでした。
 ちなみに、前者の彼は、それでコンピュータメーカに就職したという風の噂を聴きました。後者の方は、ごめんなさい・・・わからないのですけれど、よき人生をおくられていることを願っています。

 このように、

 世の中には「モノサシ」がたくさんあります

 そして、日本という国は「小さい」「小さい」と言われますけど、おおかた、どんなマニアックな領域でも、それをこよなく愛している人がいて、そこには多様な「モノサシ」があり、コミュニティがあるようにも感じます。そして、それぞれのモノサシで未来が開けることもあります。

 逆に申し上げますと、

 「ひとつのモノサシ」にうまく乗れなくても、「別のモノサシ」を探してみることもできます。
 自分の目の前にひろがるモノサシが、唯一のモノサシではありません。
 世の中には、モノサシがたくさん転がっているのです
 そして、その元には、おおかた、それをこよなく追求している人々がいるものです。
 そして、みんな生きている。

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 さて、今日は昔話をしました。
 何をあたりまえのことをおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、18歳で上京した折に、僕が割と素朴に学んでいたのは、そういうことでした。それまでの僕は、そこそこ「お勉強」はできても、こういうことを学んでいなかった、とも言えるのかもしれません。甘酸っぱい思い出です。

 さて、自分には、どの「モノサシ」がフィットするんだろう?
 40近くになっても、あまり成長していない自分がいます。

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月 3日 06:18


「何でもよいですから、お隣の方と話し合ってください!」は「リフレクション」なのか!?

 最近、よく疑問に思うことがあります。

 それは、研修やワークショップなどで、インストラクターの方がこんな言葉を述べます。

「最後に、何でもよいですから、お隣の方と話し合ってください!」

 ここで疑問に思うのは、

「最後に、何でもよいですから、お隣の方と話し合ってください!」というのは「リフレクション」と呼んでいいのか?

 ということです。
 いや、別に、研修やワークショップの最後などに「感想交換タイム」をもうけるのはまったくの自由です。何の問題もございません。しかし、それを「リフレクション」と安易に呼んでしまうのだとしたら、今の僕は、そこに違和感を感じるようになってきているということです。

  ▼

 一般に、リフレクションというからには、

1.過去の出来事、現在の状況をみつめること(シャバを見つめる)
2.本質を見極めること(俯瞰・メタにあがること)
3.未来を構想すること

 を「自分の言葉」で外化しなくてはならないのですが、リフレクションの重要性が広くひろまるにつれ、「単なる感想交換」「気楽なおしゃべり」のようになってしまう「リフレクション」が多くなっているような気がするのです。ま、気のせいかもしれませんが(笑)

 リフレクションという言葉が、デューイやショーンらの思惑をこえ、人口に膾炙するようになったことはよいのですが、「何でもいいからリフレクション」や「なんちゃって振り返り」が増えてしまうのは、あんまり芳しくないのかな、とも思います。

 こうした現象が生まれる背後には、おそらくいくつかの理由があります。
 
 もっとも根源的な理由は

 リフレクションとは、そもそも「何」であるか?
 リフレクションとは、そもそも「何のため」にやるのか?

 という「自分なりの理解」が不明瞭で、ついつい「単なる感想交換」「気楽なおしゃべり」のインストラクションをしてしまう、ということです。
 
 もっとも実務的な理由は、研修やワークショップなどで、ついつい時間が押してしまい、気がつけば「最後に、何でもよいですから、お隣の方と話し合ってください!」ということを言わざるをえない状況に追い込まれている、ということです。自戒をこめて申し上げます。嗚呼、わたしも弱い人間です。

  ▼

「最後に、何でもよいですから、お隣の方と話し合ってください!」というのは「リフレクション」なのか?

 ということに深く疑問を感じ、かつ、リフレクションという言葉に対する思索を深めてくれたのは、昨年、来日し、僕も招聘ワークショップの企画に参加したユトレヒト大学のフレッド・コルトハーヘン先生でした。
 もう、あれからもう少しで1年になると思うと、自分はこの1年何をやってきたんだろうと「発狂」しそうになりますが、その衝動を枕で押さえつけ、下記の記録を読むと、彼のリフレクションに関するワークショップが、スペシャル濃密であったことがおわかりになられるかと思います。

コルトハーヘン先生による「リフレクション学」スペシャルワークショップが終わった!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/11/post_2296.html 

 この2日間、コルトハーヘン先生の考える「リフレクション」に触れ、もっとも僕が印象的だったのは、彼のリフレクションが非常に焦点がしぼられており、かつ、非常に構造化されており、かつ、短い時間に濃縮してなされる活動であったということです。

 要するに、コルトハーヘン先生のリフレクションは、

 「何に対して、どのようなプロセスで、何を考え抜き、何を生み出すか?」

 が非常に「明晰」であったということです。
 これは「何でもよいですから、お隣の方と感想を述べ合って下さい!」的な世界観とは全く逆のように僕は感じました。
 そして、コルトハーヘン先生は、ともすれば「単なる感想交換」「気楽なおしゃべり」に堕してしまうリフレクションにカツを入れている感じがいたしました(笑)。自戒をこめて申し上げます。

janenn_bonnou.png

 先日のコンテンツの再利用(笑)
 ごめん、、、朝、マヂで時間がないのです。

  ▼

 ここまでの部分を振り返りつつ、エイヤッと、リフレクションのポイントについて考えるとき、僕は下記のような3つがとても大切ではないかと思います。書いてしまえば、そんなことかという感じですが、リフレクションは、油断すると「単なる感想交換」「気楽なおしゃべり」に堕してしまいがちですので、注意が必要です。

1.Focus:すべてに「焦点」が絞られていること!
  ≠「何でもいいから話し合ってみましょう」(×)
 ・何に対して、どのようなプロセスで、何を考え抜き、何を生み出すか?
  が明晰であること

2.Time: 時間にセンシティブになること!  ・時間がないと「深いリフレクション」できない  ・でも時間がありすぎても、気楽なおしゃべりになりはてる
 ・緊張感があり、しかし、それでいて、十分な時間が必要。史郎、まだわからんのか、史郎!

3.Openess : 対話に開かれていること
 ・他者と話し合いながら、リフレクションする場合には、対話が成立する話題を選ぶ
 ・「共体験」をもつもの、オープンクエスチョンが必要

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 世の中の不確実性は、今日も増しています。リフレクションは、その中で、自分や自分の仲間を「立て直す」ための貴重な時間です。振り返ってばかりいても困るのですが、人はもともと「アクションオリエンティッドな存在(Action-oriented:行動志向)」なので、「振り返れ!」と口酸っぱくなるくらい繰り返されるくらいがちょうどいいのでしょう。

 焦点がしぼられた「問い」に対して
 気の置けない仲間とともに考え抜く
 そんな「心地よい時間」を過ごしたいものですね

 そして人生つづく
 

投稿者 jun : 2015年9月 2日 06:23


「生活」をともにしながら「待ちこがれる学び」!? : 師匠と弟子の学びを考える

「師匠から弟子への学び」の根源にあるのは「学ぶこと」云々よりも、「師匠との共同生活」そのものにあるのではないかと思います。
「師匠から弟子への学び方」は、「人材開発の言説空間」に「ロマンティシズム」と「ノスタルジー」をともないつつ、頻繁に出現してきますが、その学びの根源には「生活をともにすること」があることは、あまり知られていません。

 もちろん「師匠と弟子の関係」といっても、昨今は、ずいぶん、その意味も薄れてきているのでしょうけれど、もともと「師匠と弟子」の関係とは、「生活」をともなうようなかなりディープなものでした。

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「師匠から弟子への学び」ーそれは第一に、師匠と弟子が「疑似縁」をむすび、いわば「血縁」のような関係をむすびあす。弟子が複数いる場合には、師匠ー弟子達は、いわば(1対N)の家族システムのような集合体をなすことになります。

 畢竟「家族的である」ということは、そこには「生活」が生じます。前述しましたように弟子の学びは「師匠との生活」が拠点です。そこに、ごくごく希に「教育的瞬間」が埋め込まれ、師匠から学びを受け取ったり、フィードバックがなされます。

 多くの場合、その瞬間がいつおとずれるかはわかりません。カリキュラムもありませんし、プランも多くの場合はありません。師匠に「いつですか?」と聞くのは野暮というものです。
 ここで弟子達に求められることは「待つこと」です。「待ち焦がれること」を抜きにした「師匠と弟子の学び」はそう多くないものです。

 もちろん、そこでの学びとは言語コミュニケーションによるものだけとは限りません。「非言語コミュニケーション」を介して、あるいは、師匠の「威光」を通して行われることもあるので、やはり「師匠」との生活をともにして、師匠を感じなくてはならないのではないかと思います。弟子達に求められるのは「感じること」です。

 このような学び方は、当然ですが、気の遠くなるほど「長期の時間」を必要とするということと、その間、弟子がモティベーションを継続させられることが必要になります。
 つまり、ワンセンテンスで申し上げますと「効率は悪い」かつ「脱落が多い」ということになります。むろん、それでいいのです。

 くどいようですが、それが「悪い」と申し上げたいわけではありません。「風姿花伝」にも、下記のようにあるとおり、

 わが風体の形木をきはめてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ。
 風姿花伝

「これでしか伝達できないもの」があるのでしょうから「致し方ない」のです。ただし、それは伝統芸能や匠の技ならではのこと。
 人材開発を「師匠ー弟子」で語るとき、育成を「守破離」で語るときには、そういうコンテキストに自社の人材開発をおいているのだということを認識する必要があるのかなとも思います。「気の遠くなるほどの時間」と「脱落者がでること」は、現在の競争環境において、容易に是認できることではないのではないかとも思います。

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 今日は短く「師匠と弟子」について書きました。せんだって、風姿花伝の和訳を読み直したことが、そのきっかけなのかなと思います。
 今、検索してみると、2年に1回くらいは、思い出したように読み返して、ブログにも書いているみたいですね(笑)。

「背中を見て学ぶしかないもの」をいかにして他者に「伝えること」ができるのか?
http://www.nakahara-lab.net/2012/08/post_1873.html

 また2年後に、こうした記事を書くことになるのではないかと思います。
 2年後にまたお逢いましょう

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2015年9月 1日 06:05