「人が働き続けたくなる組織」と「ダメなら、新たにとってくりゃいいという組織」の違いとは何か?
先だって、某プロジェクトのヒアリングにて、パート・アルバイト人材の「驚異的なリテンション率」を誇る組織のHRの方にお話を伺いました。
リテンション(retention)とは、ワンワードで申し上げますと、「採用した人材に、組織の中にいつづけてもらい、働いてもらうこと」です。
採用や教育にはコストがかかりますので、一定期間の「リテンション率」をあげることは、組織のHR上のアウトカム(達成度)としては、重視されることが多いものです。
ヒアリングでは、仕事継続(リテンション)に影響を与える様々な要因について、同社にてHRを率いるHさんから、圧倒的先行者の貴重なノウハウを聴かせて頂きました。ありがとうございます。心より感謝です。
どのお話も非常に印象的でしたが、もっとも心に残ったのは、その「世界観」です。
「だめなら、新たに外から採用すりゃいいという組織」と、「ハイリテンション組織」が異なるのは、組織が暗に想定している「人間観」や「仕事観」かなと思いました。うーん、なんと申し上げてよいのかわからないのですが、「世界観」といいましょうか「HRの思想」といいましょうか、そういうものが決定的に異なるように感じるのです。
確かに、そりゃー、比べてみれば、外見上の「制度」も「環境」も違うんでしょう。でも、そういうものは「形式的」にはすぐに真似して、似たようなものをつくることができるし、実際にそうなっている。
だけれども、もっとも違うのは「人間とはどういう存在なのか?」そして「何があれば人は働きがいをもって仕事ができるのか?」ということに関する「組織の答え」なのかな、と思います。
そうした一連の哲学的な問いに対して明確な解をもち、それにひもづくかたちの制度構築・環境構築をもっていらっしゃるように、僕には感じました。
制度や環境だけ、形式的に真似したって、絶対に勝てない。
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オリンピックイヤー2020年にむけて、大都市圏では「人手不足」が、さらにさらにさらに加速していく予感があります。
社会予想はさまざまに発表されていますが、数千万人の世界中の人々が、日本にこられるという予想もあるようです。もう5年後のホテルすらとれないんだとか・・・。
このような中、多くのサービス業では、一定の「人員=量」を確保しつつ、同時に「サービスの質」を確保しなければなりません。サービス業の中にはすでに動き出している組織もございます。
このような環境下では、おそらく「ダメなら、新たにとればいい」は次第に通用しなくなるのではないかと思います。
「ダメなら、新たに外からとればいい」といいますけど、「外」に人は次第に少なくなるからです・・・人手不足で。また、長期的な視野にたてば、日本は、これから人がどんどん少なくなっていく。
このような中、「だめなら、新たに外から採用すりゃいいという組織」は、圧倒的な苦難に直面するものと思います。そのような中で、長い時間はかかるとは思いますが、「人が働き続けたくなる組織」が増えていくことを願います。
このような環境下では、適切な人を選び、できれば長くつとめてもらうことーオンボーディング(同じ船にのってもらうこと)施策が、決定的に重要になると思われます。
プレスリリース前なので、あまり詳細なことは言えませんが、このプロジェクトにお声がけいただいたことに、プロジェクト代表者のSさん、Tくんはじめ、心より感謝いたします。このプロジェクトがその社会課題に対してなんらかの貢献ができることを願っています。
また「驚異的なリテンションを誇る組織のHR長 Hさんにも、貴重な時間とインサイト溢れるお話を感謝です。自分のこれまでもとめてきた理論や主張と共鳴する部分が多く、自信が持てました。この領域にでも、自分が貢献しうるのではないかという自信を持てたことが、とても嬉しいことでした。もちろん、まだまだ学ぶべきところは多々ありますが。
うん、学び多きヒアリングだった!
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月29日 06:13
ひーひー言っちゃうほど「教えられたい症候群」!? : パサパサに乾いていく自分をいかに潤すか?:プチ座禅体験で非日常を想う
職業柄、「教えること」を日々行っているせいかわかりませんが、僕は1年間に数回、やや発作的に「教えられたい症候群」にかかってしまうことがあります。
僕が罹患してしまうのは、「誰かの先生につき従いながら、自分は"学習者"として居合わせ、とにかく教えられたい」ーそういう症候群です。単に「教えられる」だけではないのです。むしろ、「どMなくらいに教えられたい」(笑)。もちろん、学ぶべき事は自分の好きなことなのですけれども、中途半端に教えられるのではなく、むしろ「ひーひー」言わせてほしい(笑)。ちょっと危ない病気です。素人さんにはおすすめできません。
しかし、これは、ある意味で、僕の日常を「倒錯」した事態とも言えるのもしれません。
といいますのは、仕事柄、ふだんは、自分自身が、誰かに対して何かを教えたり、学んでもらったりすることがほとんどです。
しかし、年に数回、カーニヴァル(もともとは日常と非日常の反転・倒錯の機会ですね。バフチン的世界?)のように、これを「逆転」させたくなるのです。ふだんの自分を消し去り、「誰か」を「先生」とよび、教え導かれたくなってしまうのです。
「喩え」はあまりよくありませんが、この背景にあるのは、「教えること」が「自分の中にある蓄積を外にはきだすこと」のように思えるからなのかもしれません。
ふだんは、他人に対してアウトプットばかりしているから、だんだんと自分の内面に「蓄積」がなくなる。そう、茨木のり子さんの詩ではありませんが、教えることを繰り返していると、僕は「パサパサ」に「乾いて」きます。嗚呼、もう胃液も出ない(笑)。そんなとき、自分という水瓶に水を注ぐがごとく、インプットをもとめて、「日常の倒錯状況」をつくりたくなるのかもしれません。
なんか、どMだの、倒錯だの、カーニヴァルだの、ひーひーだの、わかるかな?
誤解されそう・・・(笑)
ごめん、気にしないで。
でも、こういう病気にかかる方、他にもいらっしゃるでしょう?
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先だっては「学び?」ということでもないのですが、お坊さんのご指導をあおぎ「座禅」に挑戦しました。
最近ですと人材開発の領域でもストレスリダクションのニーズが高くなっており「マインドフルネス」とか「マインドフルネス認知療法」いう概念が、注目されることが多くなっておりますね。そういう背景に加えて、自分の仕事もなかなかストレスフルなので、直接お坊さんから座禅を学んでみようと思い立ちました。座禅は、これまでにも経験はありますが、お坊さんに指導をうけるのははじめてでした。
座禅をくみながら、自分の吐く息に集中しつつも、これも、いわゆるひとつの「日常の逆転だよな」と思っていました(嗚呼、煩悩が抜けない)
・足を組むという非日常動作
・猫背を伸ばすという非日常的な姿勢(オフィスワーカーはともすれば猫背気味になりませんか?)
・過去をみつめない、未来もみない、「今」を生きるという知的態度
・他者をたちきり、自己をみつめること
残念なことに、はじめての座禅は、10分を超えたあたりから、身体がユラユラしはじめてきたので(寝てるわけではないのだけれども、おそらく上半身を支え切れていない)、ダメダメ座禅初心者の見本みたいな状況になってしまいましたが、なかなか興味深い体験ではありました。
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今日は、「教えられたい症候群」について書きました。
かくして、そんなわけで、ここ1ヶ月ほど、自分の興味のあることを「学びたくて」学びたくてしょうがない衝動にかられています。夏休みもそろそろ終わり、仕事も本格化してくるので、そうもいっていられないのでしょうけれども(笑)。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月28日 06:26
「ひとにまつわる科学」にまつわる禅問答!?
「ひとの複雑な振る舞い」をサイエンスで解明しようとするときを、それはいとも簡単に「サイエンス」を「超えて」しまうものです。
サイエンスのその先に広がる「いまだ闇の世界」を「アート(技芸)」と呼んでも、「クラフト(職人仕事)」と読んでも、どちらでもかまいません。「人間がいかに振る舞うか」という問題は、どうしても「論理」だけでは説明がつかないことがあります。多くは「闇の中」。
思うに、研究者といわれる人は、そのことをよく「自覚」しているのではないかと推察します。
といいましょうか、僕は「科学者」を「科学の制約」を深く「認識」している人であると、定義します。
どんなモデルを構築しえたとしても、複雑な人の振る舞いを、今ある方法で、今把握している要因だけで、説明できるわけではありません。たとえば、その説明率は、かなり「かっこ」をつけて多く見積もっても3割とか4割。その残りの6割から7割くらいは、いまだ「闇の中」。現在のやり方で、現在把握している要因では、説明がつかないことの方が多いのです。
(だから、アートも、クラフトも、非サイエンス的なるものを僕は否定は一切しません。)
だから、時に、僕は「希望」を失いかけます。
日々、どんなに頑張っても、なかなかクリアな全体像がつかめるわけではありません。
研究の世界では、努力しても結果が得られないことの方がほとんどです。
さらに追い打ちをかけるのは「オリジナリティ」の壁です。
研究をすれば、いちおう、それなりの結果がでてきます。しかし、一般に分析をしても出てくるのは、「既知のこと」であったり、「常識」ばかり。「目を見張るようなアイオープナーな結果」など、1000回やって1回でるかでないかです。逆に、そういうものに一生に一度出会えるのは、幸せなかもしれません
言い方は難しいですが、複雑な人の振る舞いに対して、サイエンスが語りうることは「その程度のこと」なのです。
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一方で、僕は「希望」も感じます。
いまだ「闇の中」にある6割には、誰も知らないなんらかの要因やプロセスが存在しているに違いない。それが知りたい。いや、知ることができるに違いない。何かいい方法があれば、そこに接近できるに違いない。僕はそう信じています。
加えて、オリジナリティの壁についてはこう思います。
いつも出てくるのは「常識」ばかりというのは、それが真実なのだから仕方がありません。他人は「面白くない」だの、「常識だの」、いろいろご批評をくださいます。しかし、常識に埋もれながらも、そこには1000回に1回くらいの割合で、「おっ?」と思えるような「非常識」が出てくるに違いない。それが生まれるに違いない。それがいつかわかるに違いない。ご批評をありがたく頂戴しながらも、非常識の可能性にかけるのが科学的態度であると僕は思います。
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これは僕の個人的な信念ですが、
科学者とは、「科学が万能である」と盲信している人ではありません。
むしろ「現在の科学では説明がつかない世界」があることをよく知っている人です。
同時に、科学者とは、それにもかかわらず、「説明がつかない世界」の存在と、そこに広がる「暗闇」に対して「絶望しない人」のことをいいます。
科学者とは「闇の中」に広がるいまだ「非科学的な世界」を一様に否定はしません。しかし、自らはそれを「選択」しない人のことをいいます。
いいかえますと、僕の考える科学者とは
科学と己の限界に、時に打ちひしがれながらも、「希望」を捨てず、「挑戦」する人のことをいいます。
他人の科学者観は把握しておりませんし、僕の関与するべき問題ではありません。
少なくとも僕はそうおもっています。
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今日は人にまつわる領域を「サイエンスすること」についてお話をしました。
おおよそ人に関しては「サイエンスすれば」、常に目を見張るような成果が得られる、と考えるのは「性急」すぎます。
しかし、同時に「人にまつわることにサイエンスなんて意味がない」と諦めることも、また「性急」すぎる気がします。
希望を失いつつも、希望を捨てない
常識にまみれつつも、非常識を探す
負け戦かもしれないけれども、負けない
説明がつかないものを否定せず、自らは選択しない
ひとにまつわるサイエンスのことを考えるとき、いつも「禅問答」のようになってしまいます。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月27日 06:04
フィードバックとは「結果通知」?それとも「ダメ出し」?
突然ですが、ビジネスパーソンの皆さま、「フィードバック」という言葉を耳にしたら、頭に何を思い浮かべますか?
あるビジネスパーソンは、「フィードバックって聴いたら、"結果を通知されること"かなぁ・・・」とおっしゃっておられました。たとえば、この場合、成績・評価などを一方向的に通知されるのがフィードバックということになるのでしょう。
あるところでお逢いした方は「フィードバックときけば、ダメ出しのことじゃないですか?」とおっしゃっていました。言葉をかえれば、「詰めミーティング:略して"つめみ"」こそがフィードバック。
このイメージのズレが大変興味深いですね。
皆さんはどのようなイメージをもたれますか?
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9月、10月と、研究室OBの関根さんが中心になって、フィードバックの近年の先行研究英語文献をザザザと読んでしまう研究会を、東大で開催することになりました(関根さんにはいつも心より感謝いたします。ありがとうございました!)。
先だってFacebookつながりで、フィードバックに関する英語文献をご紹介いただいたIさんから頂いた情報をもとに、フィードバックに関するレビュー論文等等を読んでいきたいと思っています(Iさんには心より感謝いたします!ありがとうございます!)。
英語文献をひとりひとつずつ担当して読む研究会なので、かなり劇的ハードであることは請け合いですが、まぁ、そんなようなことを皆で議論してみたいと思っています。
以前、このブログでご紹介しましたが、「正しい方向に力強く飛び続けるために必要な情報を得ること」がフィードバックの要諦です。
すぐに「大丈夫です!」と口にしまう人は、なぜ成長しないのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/08/post_2463.html
自らも、正しい方向に力強く飛ぶため、学びたいと思います。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月25日 07:40
あなたはどんな「聴き方」をしていますか?:松木邦裕著「耳の傾け方:こころの臨床家を目指す人たちへ」書評
松木邦裕著「耳の傾け方:こころの臨床家を目指す人たちへ」を読みました。本書は、こころを取り扱う専門家が、どのようにクライエントに耳を傾け、聴いたらよいのかについて論じた本です。
著者の松木さんは、精神分析・精神療法がご専門の方で、本書は、その立場から、「クライアントに対する耳の傾け方:聞き方」を7ステップにわけて論じておられます。
僕は、著者の研究領域や立場についてまったく知りませんので、専門的な判断はできませんが、個人的にはとても勉強になった一冊でした。
▼
聞き方と申しますと、よく述べられるのは、「共感と受容」というキーワードです。
ステップ1「語り表されることをそのまま受け取り、そのままついていく」(Putting oneself into someone's shoes)
ステップ2「客観的に聞く」
この延長上にある聞き方のベーシックであるステップ1や2は、なるほど想像がつきます。
また、ステップ3と4と5、すなわち
ステップ3「私自身の体験・思いと重ね合わせて味わい深く聞く」
ステップ4「自分とクライアントの同じ感覚にあるズレを細部に感じながら聞く」
なども、そういうこともできるんだろうな、と想像はつきました。
しかし、いわば「名人芸」の域に入ってくる
ステップ5「1から4をしりぞけ、ひたすら受け身に聞く」
ステップ6「平等に満遍なく漂い注意」
とか
ステップ7「聴くことから、五感で感知する」
といったところになると、専門外でかつ靴下ポイポイの僕には、想像ができませんでした。しかし、幾人ものクライアントと出会い、聴くことを極められた方は、そういうこともできるんだろうと、憧れのようなものを勝手に感じつつ、読み進めることができました。
ま、、、僕はステップ1も怪しいけれど・・・(笑)
いや、ステップ0?
ステップ0「生返事をしない」?
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世の中は、年をへるごとに「前のめり」になっているような気がします。
自戒をこめて申し上げますが、そんな時代にこそ、じっくりと腰をすえて「聴くこと」が、さまざまな職種において必要になっているような気が致します。
ステップ0に言われたくないと思うけど(笑)
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月24日 07:31
鉄がまだ熱いうちの仕事経験、時が止まっているシニア!?
「入社してからはじめて出会った上司、3年目くらいまでにした若いときの経験って、意外に、その後、ひきずると思うんですよ」
ちょっと前のことになりますが、あるビジネスパーソンにヒアリングさせていただいた際、そんなことをおっしゃっていたことが、とても印象的でした。
僕の研究領域では、やはり同じようなことが言われていて、たとえば、例をあげるとすると、
1)入社したときにどの上司に出会うかによって、その後のキャリアや給与が、ある程度、決まってしまうこと
2)入社から3年目くらいの仕事経験が、マネジャーになるかならないかを、ある程度、予測してしまうこと
3)3年目までの仕事経験によって培われた仕事の信念が、のちの業績成果に影響を与えてしまうこと
などという研究が存在します。
若いときの仕事上の苦労、「鉄がまだ熱いうち」の経験や出会い、そしてそれに基づく信念の形成は、その後の仕事人生に少なくない影響を与えてしまうものである、ということなのかもしれません。
そういえば、これはまた全く異なる研究会で、先だって面白い話を伺いました。
某研究会で、シニアの人材開発に関する話題を議論していた際、ある方が、こんなことをおっしゃっていましたのです。
ICレコーダを持っていたわけではないので正確ではないですが、ほぼこのような主旨であると記憶しています。
「ご年配の方々の中には、"時が止まっている方"がおられるんです。何を語るのでも、自分がまだ若かった頃のことが頭に離れない。今の組織が「自分が入社ときの状態」であると本当に思い込んでいる。だから、これから組織をどうしていきましょうよ、という話をしても、いっこうに話がかみあわない。"時が止まっている"んだから。」
若いときの仕事経験、「鉄がまだ熱いうち」に自分がみたもの、感覚したものは、かくのごとく「永続」し、環境がその後どのように変わろうとも、同じ光景を眼前に展開させてしまうこともあるようです。
ここで「時が止まっている」というのは、環境が変わっているのにもかかわらず、自分が若い頃、自分が入社したときの組織の状況を「相対化」できないことをさしていると思われます。
まぁ、そうはいっても、そのような事態が起こりうるのは非常に限定的で、多くの経験ある人々は、環境を敏感にサーチし、常に適応を果たしているのでしょうけれど、「時がとまっている」という事態もあながち起こりうるなのかなと思って、お話を伺っておりました。
入社初期をいかに過ごすかは、その後にとって大切。
しかし一方で
入社初期をいかに「相対化」し、場合によっては発展させ、アップデートさせていくかは同様に大切。
やれやれ・・・
人と仕事にまつわる課題は、いつも煮え切らないもののようです。
嗚呼、ややこしい。
あなたは、最初の社会人3年間をどのように過ごしましたか?
あなたは、時が止まっていませんか?
今みている光景は、本当に「今」ですか? それとも「自分がまだ若かった頃の過去」ではありませんか?
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月21日 06:37
リモコンのボタンに感じる「変化」!?
先だって某研究会で、デザインを専攻しているある先生(立命館大学経営学部の八重樫先生)から「へー」という話を伺いました(感謝!)。
そこで、皆さんにも、朝っぱらから問題!
皆さんは、テレビ番組を録画したり、DVDをみたりすることがあるかと思うのですが、その場合、場面やシーンを「前の状態=過去」に戻すことを何といいますか?
別の言葉でいいかえるおだとすると、「再生してきたシーン」を「過去」にもどしてもう一度みたいときに、皆さんは、リモコンの「何」というボタンを押しますか?
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僕の答えは「巻き戻し」
僕は、先だって、自信をもってそう答えたのですが、現代は「巻き戻し」と言わないんですね。
ぜひご自宅の録画媒体のリモコンをご覧下さい。そこには「早戻し」とかいてあることの方が多いそうです。
ほれ、このとおり。
少なくともうちのリモコンはそうでした(どれだけ一般性があるかは知りません)。
「へー」
もしかしたら、ご存じの方がいらっしゃったかもしれませんが、僕はまったく気づきませんでした。巻き戻しは「永遠に不滅」だと思っていたし(笑)、リモコンにも「巻き戻し」と書いてあるのかと思っていました。
でも、変化は「ひたひた」と迫り、かつ、消費者の預かり知らないうちに変わっている(笑)。
よくよく考えてみれば、なぜ「巻き戻し」と言わないのかは「自明」ですね。
だって、かつて録画媒体として「ビデオテープ(VHSテープとかβとか)」が全盛だった時代は、「ビデオテープ」を「巻く」というタスクがありますから「巻き戻し」でよいのですが、現在のメディア環境ーたとえば、DVDやらBDやらHDDのメディアの場合には「巻く」という作業が入ってこないからです。
ふだんあんなに見ているリモコンだというのに、こんな「変化」には気づかないですよね。
ま、不注意な僕だけかもしれませんが(笑)。
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今日は「へー」という話題?でした。
皆さん、リモコンをぜひご覧下さい。
どれだけ一般性のある話かは知りませんが、少なくともうちの自宅のリモコンは「早戻し」になっておりました。
変化は知らず知らずのうちに「ひたひた」と・・・
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月20日 06:46
「思い切り遊ぶこと」で「夏休みの自由研究」ができちゃう方法!?
愚息TAKUZOの自由研究が大詰めにはいっています。自由研究に関しては、ちょうど一ヶ月くらい前に、このブログでも記事を書かせて頂いておりました。
「夏休みの自由研究」とはそもそも「何」なのか?:テーマ選びの際に考えておきたい3つのポイント
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/07/post_2450.html
その後、TAKUZOは無事、自分の「研究テーマ」を決め、日々、それにチャレンジしていたのです。今回、TAKUZOが選んだ研究テーマは、今、彼のもっともホットなトピックである「ベーゴマ」!。
自由研究のテーマは、
一日10回ずつベーゴマを投げていったら、どのくらい上手に投げられるようになるかを調べる
というものでした。
ご存じの方は多いかとは思うのですが、ベーゴマは、台の上の正しい位置で、それなりの回転数で、安定的に投げることができるようになるには、それなりの「練習」が必要です。
自由研究では、その練習をかねてそれ自体を研究テーマにすることにしました。自分の好きなものしか続かないよ、結局。
ふだん自分が取り組んでいる「遊び」をいかに「探究」にかえるか。この学齢なら、いいえ、うちの子なら、それが最も無理がないかなと思って、「遊びをそのまま自由研究にしてしまうこと」を考えました。
(ま、僕の研究テーマに近いので、指導がしやすいのですが・・・笑。でも、僕は、親が指導しやすい、無理しないってのも大事なポイントではないかと思っています。わかんないよ、わかんないこと言われても。
あと、指導していてつくづく思いましたが、事前に「自由研究とは何か?」をかなりしつこく教え、かつ、繰り返さなければ、この学齢の子どもが「探究」をすることなんか、相当しんどいよねと思いました、、、スーパーハイエンド系のチャイルド?は知りませんが、靴下ポイポイ系の、少なくともうちの子は。
もちろん、研究そのもの、作業そのものは僕は手伝いませんが、そもそもかなり研究の枠組みを示してあげないと、そもそも、探究ができません。自由研究を手伝うとは何か、について、なかなか考えさせられました。)
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というわけで、ここから僕とTAKUZOの修行がはじまります。
このクソ暑いなか、お外で、毎日ベーゴマをひーこらひーこらと投げ続け、かつ、その成功要因と失敗要因を記録するという「修行」です・・・蚊にめちゃめちゃ刺されながら(笑)。
本人の研究なので、結論をここでいうのは差し控えますが、なかなか面白いグラフができました。
ちょっとだけいうと、「ベーゴマに熟達する」とは、まずはコントロールがよくなることからはじまり、それから回転数を確保できるようになっていきます。また、投擲回数70回を超えるあたりから、少しずつ変化が生まれ、成功確率があがっていくことがわかりました。
グラフは、エクセルを使ってみました。
エクセルは楽しいみたいです。
ポンッとグラフができるので。
ふぅ。
データ収集と分析終了。
何カ所、蚊に刺されたか・・・数えられへんわ(笑)。
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さて、その次、ここからはママの出番です。
ママは、メディア系の仕事をしているので、「表現すること」には長けています(笑)。
で、今、手を変え品を変え、TAKUZOをその気にさせつつ、それをやっている。学童にもっていく弁当をつくったあととかに・・・。まことにお疲れ様です。
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はぁ、、、ようやく自由研究にもメドがついてきました。
次は本丸「読書感想文」です。
こちらも、相当、難産が予想されますね。
親はやることを促したり、一緒に向き合うことはできますが、結局、書くのは本人ですから。読書感想文に彼がきちんと向き合うまでが、一苦労です。
夏休み、マジでキツイわ。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月19日 06:10
すぐに「大丈夫です!」と口にしまう人は、なぜ成長しないのか?
先だって、あるところで、志ある方々と若年層の育成について対話になりました。ゆるゆるとした対話だったので、特にICレコーダを回していたわけではないのですが、もっとも印象的だった話題に、下記がありました。
「成長しない若い人」には、どんな特徴があるか?
若い人とふだん日常を過ごしている多くの関係者が、同様に口にしたのは、
「どんな指摘をしても、すぐに大丈夫ですと言ってしまう人かなぁ・・・」
でした。
おそらく言葉をかえれば、
全然大丈夫じゃないんだけど、すぐに「大丈夫です」と口にすることで、他人からのフィードバックを拒絶する人
ということになるのでしょうか(笑)。フィードバックに対して反論するのでもなく受け入れるのでもなく、拒絶する。
それも、「大丈夫です!」と口にして「本当に大丈夫」ならいいんですけど、どこからどうみても、「アンタ、大丈夫じゃなさそうだよね」というところで、フィードバックを拒絶する、というところがポイントかと思います。
そして、関係者が同様に口にしていたのは「そういう若いが最近増えている気がするなぁ」とも話していたのがとても印象的でした。もちろん「最近の若者は・・・」という論ほど怪しいものはないので、割り引いて考える必要はありますけれど(笑)。
▼
フィードバックを正しく受ける
フィードバックを正しく行う
ことは、学習や成長にとって非常に重要なことであると思います。
このことを、某所である大学の先生に話したら、
「あー、中原君、そりゃ、ロケットと同じだね」
とおっしゃっていました。
「まっすぐ飛べるエンジンロケットは存在しないの。ロケットってのは、飛んでいるうちに傾いてくるので、そうしたら自分の傾きを検出して、ジェットの吹き出し口の傾きをかえるためのフィードバック機構がついてます。そういうフィードバックがなくては、正しく飛べないんだよ・・・」
絵にしてみれば、下記のようなものでしょうか?
こんなグラグラなロケット、乗るの、いやだよ、オレは(笑)
でも、なるほど、とても勉強になりますね。ありがとうございます。そうか、フィードバックがあるから、はじめて「正しく飛べる」のね。
さらに話を先にすすめて申し上げるのだとすれば、「フィードバックを正しく受けること」ができなければ、将来、自分がマネジャーになったときに「フィードバックを正しく行うこと」は難しいように思います。
「フィードバックを自分は正しく受けることができない」のに、他者に対しては、「絶妙なフィードバックをかえすことができる人」
というものに、僕は出会ったことがありません。
▼
今日はフィードバックについて書きました。
フィードバックの受け方や、送り方は、「教科」でもなんでもないので、学校で教えてくれることではありません。でも、これほど大切なことはないのにな、とも思ってしまいます。
正しく力強く飛ぶために
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月18日 06:43
「親父の小言ワークショップ : 長い仕事人生を下山するために」参加者募集中!:火は粗末にするな!? 風呂にはさっさと入れ!?
お盆明け早々、明るく楽しく、それでいてちょっと怪しい「ワークショップ」のご案内です。このたび「親父の小言ワークショップ」という「男性限定のワークショップ」を、京都造形大学の伊達隆洋さん、岡崎大輔さん、内田洋行教育総合研究所の平野智紀さんらと企画しました。どうぞふるってご応募いただけますと幸いです。我妻優美のワンポイント書道レッスン?もあります(笑)。
会場でお逢いできますことを愉しみにしております。
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火は粗末にするな!? 風呂にはさっさと入れ!?
「親父の小言ワークショップ : 長い仕事人生を下山するために」
9月7日(月)18時~21時
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS B1F
申込サイトアドレス:http://ptix.co/1MPAveN
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皆さん、出番ですよ!
このたび9月7日に、元気にはたらく男性(35歳以上ー60代まで)
を対象としたワークショップ「親父の小言ワークショップ」を開催
させていただくことになりました。
※今回のワークショップは「男性」限定とさせていただきます。
別途、同テーマで、今度は女性を対象とさせていただくワークショップを
企画中です。どうかあしからずご了承ください。
このワークショップは、「長い仕事人生」をいかに安全に、かつ、心地よく
、徐々に、「下山するか」を考えるための実験的ワークショップです。
「登山」は頂上まで登り詰めることだけではありません。
その後、安全に「下山」できなければ、その状態を「遭難」といいます。
せっかく「登山」したのに「遭難」してしまっては、元も子もありません。
そこで、頂上に到達する前のなるべく早い時期に、「安全な下山の仕方」
を考える機会を皆様にもっていただきたく、本ワークショップを企画しました。
▼
当日はまず、居酒屋などでよく見かける「親父の小言」をきっかけに、
これまでの自分をみつめなおすことから始めます。
これまでどんな人たちと出会ってきたか、どんな成功、
どんな失敗が起こったか、幾多の経験を積んできた今だからこそみえる、
若かりし頃から現在までの道を辿った上で、「これから」を考えます。
ちなみに、我妻優美(雅号:春光)のワンポイント書道レッスン
という怪しいレッスンがついています(笑)。このレッスンを受けて、
当日のワークショップをふりかえり、自分だけのお小言を書にしたためてみましょう。
おそらく多くの方が
「まだ登山の途中なのに、下山のことなんて想像できないよ」
と思われることでしょう。でも、考えてみてください。教育機関を
終えて、働き始めて、今の年齢になるまでは「一瞬」ではなかったですか?
かくして、あっという間に、「下山」のタイミングはやってきます。
みなさんで、安全な下山を考えましょう。
みなさまのご参加、お待ちしております。
伊達隆洋 岡崎大輔
中原 淳 平野智紀
■共催
京都造形芸術大学 アート・コミュニケーション研究センター
一般社団法人 経営学習研究所 中原ラボ・平野ラボ
内田洋行教育総合研究所
■日時
2015年9月7日(月)18時~21時(開場は17時45分から)
■会場
株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS B1F
http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas/tokyo/index.html
JR・東京メトロ八丁堀駅または東京メトロ茅場町駅下車 徒歩5分
近隣に内田洋行様の別ビルもありますのでお間違いのないよう
にお願いいたします。
■募集人数・参加費
40名/4,000円
チケットはお一人様ずつご購入ください。
(ご購入後返金はできませんので、くれぐれもご注意ください!)
軽食・ビール・ソフトドリンクなどご用意しますが、差し入れ大歓迎です。
■内容
1.オープニング
2.親父の小言ワークショップ
3.親父の小言・書道ワークショップ
書道家・我妻優美のワンポイント書道レッスン
http://yumiuni.com/?page_id=1028
4.クロージング
■参加資格
働く35歳~60代の男性
■参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
お申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。
1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、京都造形芸術大学 アート・コミュニケーション研究センター、
経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所の企画担当理事が
関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾なく
用いられる場合があります。マスメディアによる取材に対しても、
許諾なく提供することがあります。
2.会場にクロークはございません。お荷物の管理は自己責任でお願いいたします.
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。
以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みサイト
よりチケットをご購入ください。
なお、チケットが完売した際は、〆切まえであっても、
予告なく応募を停止する可能性がございます。あしからずご了承下さい。
また繰り返しになりますが、このたび、いったんご購入後は返金は
できませんので、くれぐれもご注意ください!
■お申し込みWEBサイト
http://ptix.co/1MPAveN
皆様とお会いできますこと愉しみにしております!
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投稿者 jun : 2015年8月17日 06:25
「生涯学習」というより「生涯修行」!? : 中野民夫(著)「みんなの楽しい修行」を読んだ!
(中原は、夏休みをいただいております。また復帰次第、更新させていただきます。またお逢いしましょう!)
先だって、同志社大学の中野民夫先生に、はじめてお逢いするご縁をいただきました。
中野民夫先生といえば、2001年、今から15年弱くらい前、「ワークショップ」という名称が、まだ日本に流通していないときに、岩波新書「ワークショップ」を出版なさり、その後の、同様の試みの発展に寄与なさってきた方です。
同日は、両者ともに、同一のセッションの運営者のひとりでございましたので、そのご縁でお逢いすることを愉しみにしていました。
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セッション開始前、中野先生とはじめての顔合わせです。はじめてお逢いした感想は、まことに失礼なのかもしれませんが、「以前に、どこかでお逢いしていたような気がして、はじめてのような気がしない」というものでした(笑)。す、す、すみません。
これは、僕が中野さんの著書を何度も読んでいたことに起因するのかもしれませんが、おそらく、中野先生のいつも「自然体」のお人柄の部分が大きいのではないかと思います。
同日は、パラレルでセッションが動いており、僕はしかもコーディネータのひとりをつとめていたこともあり、中野先生のセッションには常に参加できたわけではないのですが、合間合間にでも、お話を伺わせて頂けたことが非常に興味深いことでした。
とくに、これまで歩んできた経験のなかに、いくつか共通するもの、共通する人々がいるような感じを受けました。事実、共通の知り合いや、過去に接点のある方も多く、そのようなご縁を勝手に嬉しく感じていました。
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後日、中野先生からは、ご著書「みんなの楽しい修行」をご恵贈いただきました。まことにありがとうございます。この本は、中野さんが高校時代から現在にいたるまでを振り返り、そこで出会った人々、出来事、そこからの学びを「修行」という概念でまとめられた本です。
曰く、社会をよりよいものにしたい、社会に対して何らかの働きかけをしたいと人々が願うとき、「我が身を内側から調え、養っていく地道な作業」がどうしても、必要になります。本書では、それを「修行」という概念でまとめられています。
本書を読み進め、なるほど、先日感じた「共通点」らしきものとは、こういうことなのか、といくつか納得しました。
勝手ながらあげさせていただきますと、先生も僕も、見田宗介先生の「気流のなる音」など一連の著作に、学生時代、かなり影響を受けたこと。マインドフルネスなどのストレスリダクション(ストレス低減法)に興味をもっていること。
また過去の仕事経験の根幹に、「内側に入り込んで、内側から物事を脱構築する=内破する」という側面が存在すること。
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おこがましいかもしれませんが、まだまだいくつか共通点らしきものが発見できたのですが、そのようなところで、なるほど!、そうだよね!と勝手に膝をたたきながら、本書を読まさせて頂きました。貴重な学びの機会に感謝いたします。
本書の後半部には、人生をめぐるある名言が掲載されています。
人生とは、何かを計画しているときに起きてしまう「別の出来事」である (シリア・ハンター)
人生は、「計画」をいつも超えていきます。
もちろんん、だからといって、「計画をしないこと」が知性的態度とはいえないのですが、人生を愉しむためには、一方で「計画」をしつつも、他方では「計画を超えること」を受け入れ、新たに変化することを厭わぬ姿勢が求められるような気がします。
そのひとつが修行であるのだとしたら、僕自身も、常に「生涯修行」の身でありたいと願います。
「生涯学習」というより「生涯修行」??(笑)。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月 6日 06:18
果てしない定型化がもたらした「時代劇の衰退」!? : 春日太一著(2014)「なぜ時代劇は滅びるのか」書評
テレビを見るのは、子どもが日曜日に見る「イッテQ」くらいですし、時代劇?を最後にみたのは「龍馬伝」が最後になりますから(何年前よ?)、そんな僕がテレビの話題をブログに書くのは、さすがにどうかと思うのですが、先だって、春日太一著(2014)なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書) を読みました。
本書は、「時代劇」とよばれるジャンルが、いかに「衰退の一途」をたどっていったのかを論じている書籍です。1950年代に全盛をむかえ、1960年代にはじまった時代劇の衰退。
僕、全く存じ上げなかったのですが、「水戸黄門」すらも数年前に放映が終了していたんですね。驚愕しました。水戸黄門も終わるんだ。
時代劇衰退の理由はいくつもあるので、本書をご覧頂きたいのですが、その最たる理由は、
「無数のヒーローがキメゼリフをカッコよく言いながら、悪をたたき切って、メデタシメデタシ」
というパターンを繰り返ししすぎて、「つまらなくなった」ないしは「高齢者にしかうけなくなったこと」に起因するといいます。そこにテレビ時代劇の果たした影響は大きかった。
番組によっては、そのパターン化の程度は激しいもので、たとえば、ある時代劇などは、「毎回何時何分にどのシーンが入るか」すら決まっていたとのことでした。このような定型化は、「制作コスト」を徹底的に下げるとともに、「人々の生活習慣の細部」にまで、時代劇の展開が入り込んでいくことにつながったといいます。
要するに、
「さー、そろそろ、風呂のスイッチでも入れるか。てことは、そろそろ時代劇で、立ち回りのシーンが始まる頃だな。こちらも、テレビのスイッチを時代劇にあわせるとしよう。ほらな、印籠だしてるよ。闘いはじまるぞ!」
が毎週続く、ということですね。
すごい効率化と定型化(笑)
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今日は「なぜ時代劇は滅びるのか」の短い短い書評を書かせて頂きました。この書籍はテーマは「時代劇」ですが、時代劇以外においても、このことはいえるのかな、と思います。「物事が衰退していくプロセス・物語」に、そうそう、多くのバリエーションがあるわけではないようにも思うのです。
そこに介在することが多いのは「定型化」「パターン化」です。それは効率を一次的には向上させるかもしれませんが、それが過剰に追求された先に広がる世界は、あまりポジティブなものではない場合があります。それはシステムを維持させるようでいて、システムを破綻させてしてしまう可能性をもっているのです。
「定型化」は効率を求める社会においては、避けられないことでもあります。さすれば、わたしたちは「定型化」を一方で追求しつつも、他方では「定型化」を「内破」する視点を持たなくてはならない、ということになります。
あなたのまわりの「定型化されたパターン」は、大丈夫?
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月 5日 07:20
マネジャーが「自分の勝ちパターン」を「熱意」をもって部下に横展開しても成果がでない理由!?
なかなか遅々として進みませんが、個人研究として「ミドルマネジャーの研究」を細々と続けております。
(9割以上の研究が共同研究です。共同研究はいくつもありますが、これはまた別の日の話題に・・・)
大学も夏休みに入り、少し落ち着いてきたので、「もう今しかない!」とばかり2ヶ月ほどほっておかざるをえなかったデータに向き合うことに心を決めました(突然、とんだとばっちりを受けたのは、博士課程の保田さんです。コーディングを手伝ってもらっています。誠に申し訳ない&ありがとうございます)
嗚呼、僕も弱い人間です。他人の研究にフィードバックすることはできますが、自分の研究は、なかなか進みません。とほほ。でも、ようやく手をつける覚悟を決めました。
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今、自分でおっかけている個人研究のひとつは、「管理職がもっている仕事の信念」の研究です。
1.管理職はどのような「仕事の信念」をもち
2.それがどのように仕事や成果につながっているのか
を実証的に研究しています。
研究を進めていくと、少しずつわかってきているのは、管理職のもつ「仕事の信念」は、時と場合によって、「囚われ化」し、成果をだすことを阻害してしまうといいうことです。仕事の信念が、環境や状況にあっていないのにもかかわらず、それに「囚われ」てしまい成果がでない。その中でもタチが悪そうなのは「横展開の信念」と「熱意の信念」です。
この「横展開の信念」と「熱意の信念」が複合的にミックスしてしまい、まちがった方向に走ってしまいますと、あまりロクなことはありません。
ここでいう「横展開の信念」とは「管理職とは、成功パターンを知っている人であり、それを部下に、あたかもバケツリレーをするがごとく伝達し、そのままやらせれば、必ず成果は出せるはずである」という信念です。これをもっている管理職は、少なくない数います。
対して「熱意の信念」とは「管理職の熱意は、必ず、部下には伝わるはずであり、熱意こそが成果につながるはずである」という信念です。こちらも、典型的な信念で有り、これを強烈にもっている管理職は、熱意をもって部下に接することになります。
誤解をさけるために繰り返しますが、これらの信念自体が、いい悪いというわけではありません。
これらの仕事の信念が環境や状況や部下の能力・資質に、やり方が適合していれば、成果はでるのでしょう。
つまり、もっとも望ましいケースというのは、
「管理職がもっている成功パターンが、環境・状況に適合しているおり、部下は管理職と同等かそれに近い能力や熱意を有しているので、成功の勝ちパターンを横展開することが可能である」
ということになります
しかし、これが成果につながらない、というケースがあります。それは、この場合のやり方が、環境・状況に適合していない場合です。
この場合には、
「管理職のもっている成功パターンが、時代遅れのものとなっており、それでは成果はでない。それなのに、管理職は、それを部下に強要し、しかも、熱意をもって強要する。管理職は、熱意をもってさえすれば、部下にはそれがつたわり、成果につながるはずだと思っている」
というケースになりえます。
こうなると、事態はかなり悲惨です。
なぜなら、この複合的信念に囚われてしまった管理職は「成果がでないこと」の原因帰属を「やり方が間違っていること」には求めず、「熱意が伝わっていないから」に求めてしまうからです。
さらにタチがわるいのは、間違った方向に、さらに「熱意をもって暑苦しく指導を積み重ねてしまう」ということになるからです。そんなときに出てくる言葉が、これです。
「なぜ、みんなにはオレの熱意が伝わらないんだ。なぜ、みんなおれと同じような熱量をもって仕事をしないんだ。だから、成果がでないんだ。もう一度、さらに暑苦しい熱意をもってして、オレの勝ちパターンを再び伝導しよう。思い切り熱意をもって伝えよう」
かくして成功パターンや熱意を「押し売り」することになってしまい、成果がでずに「空転」してしまうのですね。くわばら、くわばら、という感じです。
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今日は、管理職のもつ信念について書きました。
くどいようですが、勝ちパターンの横展開も、熱意のこもった部下指導も、環境や状況にあってさえいれば成果はでるのかもしれません。しかし、それが繰り返し行われていても、どうもしっくりこない場合には、
自分の横展開している勝ちパターンが、環境や状況や部下の資質にあっているのかどうか?
熱意がつたわらないのは、本当に部下の熱量が低いからなのかどうか? それはやり方を間違っていることに部下が気づいていて、でも、言い出せず、やらされ感が漂っているからではないのか?
を少しだけ疑ってみる必要があるのかもしれません。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月 4日 06:11
「子どもができて、学ぶことから遠ざかってしまう状態」をいかに防ぐか!?
「子どもができてからというもの、2年間、学びの場にくることを諦めていました。
でも、今日は、久しぶりにこうした場にこれて、本当によかったです」
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これは、僕の授業の卒業生で、現在、男の子をお育てになっている現役ママ、Mさんが、ある会合の最後にもらした一言です。ICレコーダをもっていたわけではないのですが、このような趣旨のご発言をなさっており、非常に印象的でした。
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今週末は、僕が担当している慶應MCCのコース「ラーニングイノベーション論」の第一期から第7期までの卒業生の有志(企業の人事部におつとめの方が多い印象です)が、一同に会し、三浦半島で合宿が開催されました。今回の合宿を勝手ながら、ザザザとまとめさせていただきますと(!?)、その特徴は下記の3点かと思われます(まとめんじゃねーとつっこみが入りそうですが・・・)。
1)卒業生の皆様が独自に企画し、独自に司会をし、独自にファシリテーションを行って2日間にわたる会をおつくりになったこと
(ありがとうございました&お疲れ様でした。僕はなにひとつ司会もファシリテーションもせずに、一参加者として過ごしました。一参加者として学びの場に参加できることは本当に嬉しい事です)
2)家族での参加、子連れでの参加を認め、ベビーシッターさんを隣室に準備下さり、その間、親が学べるようにしていただいたこと
3)会のテーマを「ダイバーシティ」に設定し、人種・性別などの「わかりやすいダイバーシティ」に関する事柄から一歩先に議論をすすめ、「わたしたち個々人が、皮膚を隔て、そもそも違うとはどういうことか」ーいわゆる「見えないダイバーシティ」の議論をしたこと
というわけで、2)の恩恵をうけて、我が家も、今回はTAKUZO、KENZOをつれて、家族で参加させて頂きました。ベビーシッターさんは、4家族が利用し、子ども同士、ワイワイと遊んでいたようです。心より感謝いたします。
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参加してみて思ったこと、感じたことーとりわけ「ダイバーシティ」という非常に難しいテーマー関して想うところーは多々あるのですが、それはまた「別の機会」にさせていただくとして、今日は、この2)の点、すなわち「ベビーシッターさんを準備し、そのあいだに親が学べる環境をつくったこと」について書かせて頂きます。といいますのは、冒頭ご紹介したあるママのご発言が、僕にはとても共感できたのです。
思い起こせば、愚息TAKUZOが生まれて、僕の生活は一変しました。これまでは週末だろうが、平日夜だろうが、暇さえあれば「研究会」によく出かけていた自分が、なかなかそうしたものに物理的に出かけることが難しくなったとき、僕は、同じような思いをもっていたことがあるのです。
研究者が会する研究会などは、土曜日・日曜日などの週末に開催されるか、ないしは、平日夜に開催されることが多いのですが、そうしたものに、かつてほど、足繁く通うことができなくなりました。
TwitterやFacebookなどでは、よく研究会などのまとめや、事後報告が参加者からなされます。自分のタイムラインに流れる、そうした情報を目にするたび、「うらやましいな」という思いを何度かもったことをよく覚えています。
自分だけ置いていかれる思い
なぜ、自分が参加できないのか、という、すこしの寂しさ
このまま自分は最先端についていけなくなるんじゃないか、という焦り
今となっては、こうした思いのどれも、ある程度「相対化」して考えることができますが、当時の僕は、ひとりすやすやと自分の膝で眠るTAKUZOを見ながら、こうした思いに駆られていました。
最近は、それでも、事態もかなりかわってきていますね。学会などでも、ベビーシッターさんサービスつきの学会大会も増えてきましたが、まだまだ研究会や合宿のレベルではそう多いわけではありません。費用を誰がどのように負担するのか、そうした難しい問題もでてきます(今回は会がそもそもそういう趣旨で企画されておりました心より感謝いたします)。
しかし、一方で、子どもをせめて一時だけでも預けて、学ぶ機会をほんの少しでもよいからもちたいと考える親は少なくないようにも思います。少なくとも僕のまわりには。僕の身近で子育てをなさっている親の方々を拝見していると、彼ら / 彼女らは、日常は、ほぼ「自分の時間」はなく、子どもに寄り添っています。だから、せめて数時間だけ、1日くらいは子どもから離れて、自分をアップデートしたい。もちろん、子育て自体から学ぶことも多々あることは言うまでもないのですが、いったんそれを脇において、自分の関心のあることを学びたいと考える人は少なくないように思います。
僕は保育が専門ではないし、ここから先は「わたしの子育て論」なので、割り引いて考えていただきたいのですが、せめて数時間だけでも、「自分の学びの時間」をもつことは、何も「子どもを放置すること」ではないように僕には思えます。「親が学び、リフレッシュできる」と、子どもにも「よい影響」を与えうるのではないかと思うのです。
これは個人的経験なのですが、数時間たとえば子どもを預けて、ふたたび子どもの顔をみたとき、以前よりも、子どもに優しく向き合えるような気がするのは僕だけでしょうか。リフレッシュをして、精神的な余裕をたもち、もう一度、新鮮な気持ちで子どもに向き合える。
(もちろん、これが契機で、子ども放置、子育て放棄につながるのだとしたら、そうした事態をふせぐ手立てを考えなくてはならないかもしれませんけれど・・・)
そういう時間には学びたいと考える親御さんのニーズに、学びたいと願う現役ママ、現役パパの、どのように応えうるのか。そうしたものを、できるならば、社会としていかにインプリメントしていくのか。
今回の研究会のテーマは、ダイバーシティでしたが、その運営手法そのものが、この課題に向き合っていたような気がします。
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今回の研究会は、僕にとって、また新たな研究上の関心をもつきっかけになりました。
まずは、今回の合宿の幹事団のみなさま、本当にありがとうございました。そしてご参加いただいたみなさま、家族ともどもお世話になりました&ありがとうございました。ベビーシッターさんや、そこに集った子ども達と、よほど遊び疲れたのか、KENZO、TAKUZOともに早々に寝てしまいました。心より感謝いたします。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年8月 3日 09:13