業績社会化・計量社会化する「世の中」で、間違った方向に「成果」を出さないためには!?

 わたしたちの生きる時代が、業績社会化・計量社会化しているように、とみに感じます。

 ここで業績社会化・計量社会化と申し上げますのは、私たちの行うあらゆる「営為」に対して、誰もがわかりやすいKPI(Key performance Indicator)を設定して、それらを「業績」として「計量」すること、それによってリソースの再配分されるということが、社会生活のあらゆる場所に常態化していくことをいいます。

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 ちょっと前になりますが、ある研究プロポーザルを書いていたときも、「成果指標」というものを明記して、それを提出しなければならず、一瞬戸惑いました。

 といいますのは、研究には、うまくいくかどうかわからない、やってみなければわからない、「リスキーな側面(賭けみたいなもの)」が必ずつきまとうのですが、そのリスクをあたかもなかったかのように「漂白」し、「これをやれば必ずうまくいき、成果がでまっせ、こんな数字がだせまっせ」みたいなことを、「やる前」から「確約」しなければならない、ということに、良心が少し痛みました。それはちょっと「本当は言い切れないこと」を言い切らないと、書けないよ。

 これに近いこと下記のことは、哲学者の鷲田清一さんが、どこかでおっしゃっていたことですが(すみません・・・書名をうろ覚えです)、大学は、いまや、「100万年前の古代の姿」を探究する研究でえさえ、「3年後の論文数」を明記する必要がある場所になってしまいました。

 最近になりますと、さらに惨い事態も進行しているようですね。噂によりますと、「指導受け入れした大学院生の数」「学位取得させた大学院生の数」すらも、業績・計量化し、ポイント化する大学があるのだとか、ないのだとか。噂なので、本当のところは知りません。

 もしその噂が是だとして、少なくとも、言えることは、「僕自身は、そういう大学で研究指導をしたくない」ということです。むろん、「おまえみたいなカスは、うちの大学に、入れてやんないよ、バーカ」と言われるだろうけれど(笑)

 ま、売り言葉に買い言葉で、自分の育ちの悪さを言い訳にしつつ、「最後っ屁」をかまさせていただきますと、申し上げたいのは

 研究指導をなめるな!

 です。

 僕たちは、ポイント獲得のために、大学院生を育てているわけじゃない。

 そういえば、これも噂だけど、授業中の学生の発言数とか、学生が顔をあげる頻度とかも計測・ポイント化して、授業のクオリティを測ろうとしている教育機関があるのだとか、ないのだとか。
 ま、「教室がブラックボックスであること」をいいことに、「やりたい放題やっていた人」もいるんだと思うし、それを「見える化」、「あぶり出したい気持ち」「管理せざるをえない気持ち」はわからんでもない。そこに自浄作用がないことも、最大の課題であることは承知しています。

 でもなぁ、自分の授業が、その指標でポイント化され、ランキング化されると、僕は激しくモティベーションが下がりますね。僕はそんな指標をあげるために、授業をしたくない。僕のやり方で、学生に考えさせるから、ほっといて、と言いたいです。

 こちらでも、やはり言いたいことは、

 授業をなめるな!

 ですね(笑)。

 第一、ポイント、ポイントって
 スーパーマーケットか? 最近の大学は!
 ま、うちのカミサン、ポイント集めるのとか、好きだけど。うちのカミサンを喜ばして、どうする(笑)?
 
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 そういえば、せんだって、ある施策を拝見していたら、ある施策に設定されているKPIにのけぞりました。
 膨大な金額を動員してなされる施策、そして、その施策に治して設定されていた指標は、ほんのわずかな人々の行動変化。
 それならば、膨大な金額をそのまま、人々に配付して、その行動をとってもらった方が、合理的であるように僕には感じました。これは、KPIの設定、計量する単位を間違ってしまった典型のように思われます。

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 おそらく、世の中は、さらに業績社会化・計量社会化の方向に進むものと思われます。こうしたとき、もし、わたしたちが業績社会・計量社会から「逃走」することが不可能であることを前提とするならば、せめて「何」を「計量単位」・「業績単位」と設定するかについて、「徹底的な議論」と、時には「あからさまな抵抗」を示した方がいいように思います。

 僕はサルコジ元フランス大統領の業績や人柄は存じ上げませんが、下記の書籍において、彼は素晴らしいことを述べられております。

「ますます業績志向になっていく社会において、計量単位は重要である。計量するものによって我々の行動は影響を受ける。

もし計測する基準が間違っていたら、われわれは間違ったものに向けて努力してしまう」

(サルコジ・元仏大統領「暮らしの質を測る」内から引用)

 業績社会・計量社会のなかで、わたしたちに許されているのは、「何を計量するのか?」という計量単位に対する徹底的な議論なのかもしれません。

 その成果指標、本当に、本当に、それでいいの?
 間違った方向に「成長」しない?
 意図せざる方向に「前進」しちゃわない?

 「指標を設定するということ」は、「伸びる方向を決めること」なんだよ。
 そして人生は続く