最近、プレゼンなんてやらないんですよ!:プレゼン技術の推移 ー OHP、プレゼン、ポスター、そして朗読への回帰!?
「先生、僕たち、プレゼンって、最近、あんまりやらないんですよ。最近の学会は、若手はポスター発表ばっかりだし。プレゼンできるのは、エライ人だけです。
ポスターって楽なんですよ。来た人に、日常語で説明するだけだから。でも、プレゼンって、舞台にあがって、大勢の前で発表しなちゃならないじゃないですか。さすがに、くだけた言葉では話せないし・・・」
ちょっと前のことになりますが、このセリフは、今期、東大の大学院生の方々にプレゼンを教えていたときに、大学院生のある方が、漏らした一言です。
ICレコーダをもっていたわけではなく、手書きのメモが残っているだけなので、一言一句同じではないですが、ほぼそれに類することを発言なさっていたように思います。
本学には、東京大学フューチャーファカルティプログラムという大学院生に「授業力」を獲得させる全学プログラムがあります。
東京大学フューチャーファカルティプログラム
http://www.todaifd.com/ffp/
僕は、その模擬授業の会に、「大学院生のプレゼン」にフィードバックをする役割で授業を一部受け持っています(日常は同僚の栗田さん、吉田さんが担当してくださっています)。このセリフは、とても印象的な一言だったので、メモにとって記憶していました。
最近は、大学院生、プレゼン、やらないのか。。。
分野にもよるとはおもうので、一概には言えません。
が、しかし、分野によっては、確実に時代が変わっているんだな、と思いました。
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昔話をいたしますと、僕が学会にデビューしたての頃は、まだパワーポイントでプレゼンをするなど一般的ではなく、OHPでの研究発表でした。
(皆さんのデビュー戦はどうでしたか?)
学会前になると、研究室の大型プリンタに透明なOHPシートをしかけて、発表の印刷したことを思い出します。
発表前日は、発表練習最中に、OHPシートの中に変えたくなる文言などを発見するものの、もう印刷し終わっているのでどうしようもなく、「えい、どうにでもなれ」と開き直ることもありました。考えてみれば、発表5秒前まで、プレゼンを修正できる今と、印刷してしまったら開き直るしかない昔では、どちらが気楽で幸せだったかはわかりません。
思い出すに、当日の発表は、緊張して、そのOHPシートを「ぶちまかさないこと」だけ心配していました。
床に散乱して、順番がわからなくなったOHPシートを前に茫然自失になることほど、悲惨なことはございませんので。過去、そういう「悲劇」を何度か目撃しておりました。
(皆さんのなかに、OHPシートぶちかましを経験なさった方はいらっしゃいますか?)
それが時代は過ぎ・・・いつのまにか、どの発表会場にもプロジェクターが準備され始めました。
発表は、あれよあれよ、という間に、OHPからパワーポイントやキーノートにとってかわられました。
先輩の研究者のなかでプレゼンテーションに長けた先達の発表を聞きにいっては、その技術を自分のものするべく、徹底的に観察させていただきました。
一緒にプロジェクトやセッションやワークショップをご一緒させていただくなかで、先達の先生方の発表と自分のショボショボプレゼンの差異が際立ち、なんとかしたいと思っていたようにも思います。
僕のプレゼン技術は、同僚の山内祐平先生(東大教授)、堀田龍也先生(東北大学教授)、上田信行先生(同志社女子大学教授)、金井壽宏先生(神戸大学教授)から、学ばせて頂いたものが非常に大きいと思っております。断りもなく勝手に学んだ、というのが事実でしょうが。。。本当にありがとうございます。
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そして時代はすぎて、僕の研究領域でも、ポスターセッションが導入されました。ショートのプレゼンをやるよりは、ポスターの方が直接お客さん(他の研究者)からコメントをもらえるのでよい。またたくさんの発表者を大量に裁くことができる、というのがメリットだったように思います。
分野によるとは思いますが、せんだっての大学院生が述べるように「若手はポスター」という枠組みができあがっている研究領域もこの頃あたりから、あるのかもしれません。
(皆さんの学会ではいかがですか?)
かくして、大勢のはじめての人の前でプレゼンをする機会が大学院生から失われていったのかもしれません。
もちろん、研究室内ではプレゼンはするんでしょうけど、いわゆる大教室で、大勢の見知らぬ人を前に語る技術の習得が難しくなったのかな、と勝手に妄想します。
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今日は大学院生とプレゼンテーションについて書きました。
今の時代、分野によっては、大学院生のうちにプレゼンテーションを練習する機会が失われるのだとしたら、やはり、大学の教壇にたつ前には、それらを前もって習得する機会を持った方がよいようにも思います。
さらにいうと、研究のプレゼンテーションと授業は、また違います。研究のプレゼンテーションとは、「聴衆は研究者であり、わかる人」ですが、授業は「聴衆は、学問の入り口にもまだはいっていない学生」であり、そのモティベーションや知識はさまざまです。
ワンセンテンスで述べるならば、授業で求められるのは、「わかる人」を想定したプレゼンテーションではなく、「わからない人」を想定した情報提供です。これも、やはり練習が必要だと僕は思います。
最後に余談ですが、僕がまだ大学院生だった頃、15年前というのは、学会によっては、「原稿用紙を目の高さに両手でもって、そのまま朗読する」という学会発表を、時折、目にしました。
僕は、このスタイルの研究発表を「朗読」と読んでおりましたが、「朗読」は、いまなお、続いているんでしょうか。朗読が悪いと申し上げたいわけではありません。たぶん、人文社会系だと、そちらの方がメインのような気もします。
もし自分の所属する学会が、やれポスターだ、やれプレゼンだ、というのであれば、ひとり「朗読スタイル」に徹するというのも、なかなか渋く、新鮮で、クリエィティブだなと勝手に想像してしまいました。
僕も、もうプレゼンをやめて、
今度、どっかのフォーラムで「朗読」しようかな(笑)
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月31日 05:54
業績社会化・計量社会化する「世の中」で、間違った方向に「成果」を出さないためには!?
わたしたちの生きる時代が、業績社会化・計量社会化しているように、とみに感じます。
ここで業績社会化・計量社会化と申し上げますのは、私たちの行うあらゆる「営為」に対して、誰もがわかりやすいKPI(Key performance Indicator)を設定して、それらを「業績」として「計量」すること、それによってリソースの再配分されるということが、社会生活のあらゆる場所に常態化していくことをいいます。
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ちょっと前になりますが、ある研究プロポーザルを書いていたときも、「成果指標」というものを明記して、それを提出しなければならず、一瞬戸惑いました。
といいますのは、研究には、うまくいくかどうかわからない、やってみなければわからない、「リスキーな側面(賭けみたいなもの)」が必ずつきまとうのですが、そのリスクをあたかもなかったかのように「漂白」し、「これをやれば必ずうまくいき、成果がでまっせ、こんな数字がだせまっせ」みたいなことを、「やる前」から「確約」しなければならない、ということに、良心が少し痛みました。それはちょっと「本当は言い切れないこと」を言い切らないと、書けないよ。
これに近いこと下記のことは、哲学者の鷲田清一さんが、どこかでおっしゃっていたことですが(すみません・・・書名をうろ覚えです)、大学は、いまや、「100万年前の古代の姿」を探究する研究でえさえ、「3年後の論文数」を明記する必要がある場所になってしまいました。
最近になりますと、さらに惨い事態も進行しているようですね。噂によりますと、「指導受け入れした大学院生の数」「学位取得させた大学院生の数」すらも、業績・計量化し、ポイント化する大学があるのだとか、ないのだとか。噂なので、本当のところは知りません。
もしその噂が是だとして、少なくとも、言えることは、「僕自身は、そういう大学で研究指導をしたくない」ということです。むろん、「おまえみたいなカスは、うちの大学に、入れてやんないよ、バーカ」と言われるだろうけれど(笑)
ま、売り言葉に買い言葉で、自分の育ちの悪さを言い訳にしつつ、「最後っ屁」をかまさせていただきますと、申し上げたいのは
研究指導をなめるな!
です。
僕たちは、ポイント獲得のために、大学院生を育てているわけじゃない。
そういえば、これも噂だけど、授業中の学生の発言数とか、学生が顔をあげる頻度とかも計測・ポイント化して、授業のクオリティを測ろうとしている教育機関があるのだとか、ないのだとか。
ま、「教室がブラックボックスであること」をいいことに、「やりたい放題やっていた人」もいるんだと思うし、それを「見える化」、「あぶり出したい気持ち」「管理せざるをえない気持ち」はわからんでもない。そこに自浄作用がないことも、最大の課題であることは承知しています。
でもなぁ、自分の授業が、その指標でポイント化され、ランキング化されると、僕は激しくモティベーションが下がりますね。僕はそんな指標をあげるために、授業をしたくない。僕のやり方で、学生に考えさせるから、ほっといて、と言いたいです。
こちらでも、やはり言いたいことは、
授業をなめるな!
ですね(笑)。
第一、ポイント、ポイントって
スーパーマーケットか? 最近の大学は!
ま、うちのカミサン、ポイント集めるのとか、好きだけど。うちのカミサンを喜ばして、どうする(笑)?
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そういえば、せんだって、ある施策を拝見していたら、ある施策に設定されているKPIにのけぞりました。
膨大な金額を動員してなされる施策、そして、その施策に治して設定されていた指標は、ほんのわずかな人々の行動変化。
それならば、膨大な金額をそのまま、人々に配付して、その行動をとってもらった方が、合理的であるように僕には感じました。これは、KPIの設定、計量する単位を間違ってしまった典型のように思われます。
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おそらく、世の中は、さらに業績社会化・計量社会化の方向に進むものと思われます。こうしたとき、もし、わたしたちが業績社会・計量社会から「逃走」することが不可能であることを前提とするならば、せめて「何」を「計量単位」・「業績単位」と設定するかについて、「徹底的な議論」と、時には「あからさまな抵抗」を示した方がいいように思います。
僕はサルコジ元フランス大統領の業績や人柄は存じ上げませんが、下記の書籍において、彼は素晴らしいことを述べられております。
「ますます業績志向になっていく社会において、計量単位は重要である。計量するものによって我々の行動は影響を受ける。
もし計測する基準が間違っていたら、われわれは間違ったものに向けて努力してしまう」
(サルコジ・元仏大統領「暮らしの質を測る」内から引用)
業績社会・計量社会のなかで、わたしたちに許されているのは、「何を計量するのか?」という計量単位に対する徹底的な議論なのかもしれません。
その成果指標、本当に、本当に、それでいいの?
間違った方向に「成長」しない?
意図せざる方向に「前進」しちゃわない?
「指標を設定するということ」は、「伸びる方向を決めること」なんだよ。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月30日 06:24
無気力と怠惰と傲慢さは、いかに「学習」されるのか?:人に接する職業にひそむ罠!?
先だって、病院の受付で、あまりに惨い受付に出会いました。とても混雑している病院だと聞いており、かつ、家から電話をして診察時間を確かめたときから、電話ごしに「あっ、雰囲気、やばそうだな」と思ったのですが、案の定、「むごい経験」が待っていました。子どもとともに茫然。あべし、ご愁傷さま。
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しかし、こうした一瞬でも、「なんちゃって研究者」のはしくれたるもの、研究マインドは衰えません。ここは「親子」で「幽体離脱」し、「研究スイッチ」を入れるときでしょう。僕にとって、研究者とは、「寝てもさめても、24時間、研究のことばかり考えている人」をいいます(他の方にとっての定義は知りません)。
研究スイッチON!
きゅるーウィンウィンウィン(笑)
まず、この「無気力」で「怠惰」に思える対人態度は、どのような経験の蓄積によって「学習」されたのかに思いをはせ、彼女が為してきたであろう長期の「経験学習」を想像します。
思うに、病院の受付とは、患者からのクレームや要望が殺到するフロントラインであり、患者の中には「ややこしい患者」もいたのかもしれません。そのような患者を相手にすることを長期に繰り返していれば、そのような対人態度が「学習」されたのも無理はないことです。
また、この、あまりに「傲慢」に思える「他者への態度」は、なぜ、これまで「アンラーン(学習棄却)」されずに、ここまで残存してしまったのかに思いをはせ、この病院の「職場における学習」のプロセスを想像します。彼女は、いかなる他者のネットワークの中にあり、いかなるフィードバックを得ていたのか。
外見から想像するに、彼女は「年配者」であり、この病院でも「古株」に思えます。
きっと業務知識を豊富に有する彼女に対しては、何かリフレクションするべき事態がおこっても、他者からフィードバックをうける機会は「限定的」だと考えられます。
先生はとても「よい人」なのですが、そのやさしい性格にくわえ、診察室と受付は隔絶されており、かの先生が扉を一枚隔てた人に対してフィードバックをかけられるようには思えません。「先生がとてもよい人」というまさにこの1点が、この病院のレピュテーションを高め、受付の怠慢を相殺してしまうポイントとしても機能することが想像できます。
かくして「経験から学び」「職場から学べず」に、僕が経験することになった「惨い対人態度」が形成されたものと考えられます。
学習とは、「ポジティブな方向」にむくとは限りません。
学習は「ネガティブなもの」にもひらかれているのです。
ネガティブなものを「獲得」し、ネガティブに振る舞うことを覚えること
それも「学習」です。
しかし、この解釈にも一定の限界があることも最後に付記しておかなくてはなりません。それは「通院という出来事の非対称性から生じるバイアス」です。
ここでいう「通院という出来事の非対称性」とは、受付の方にとっては「患者が通院してくるという出来事」が、「日々、数分単位で繰り返されるオペレーション」であるのに対して、患者にとって、それは「当事者意識の強い、一回性の、しかもネガティブな出来事」であるという事実です。すなわち、ここには立場の違いによる「非対称性」が存在する。
ということは、もしかすると、彼女がそれほど「やばい接客」をしておらず、いつものように接しているのだけれども、患者の方からみれば、それが「疳の虫に触る可能性」があります。患者にとってみれば、通院とは「苦しい」中で、藁をもすがる思いで成し遂げる出来事であるのだから。
そう、ここで、彼女を厳しい面持ちで見つめる「僕自身」の目にも「バイアス」がかかっていないかを、検証する必要があります。
嗚呼、なるほど。
現場の問題は、いつも根深い。
そう考えると、なんだか「怒り」が収まり、仏像のように非常に穏やかな面持ちで、受付を後にして診察室に入ることができました。
嗚呼、わたしに、穏やかな思惟の時間をありがとう。学問とは素晴らしいものです。
さっ、診察うけよ。
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帰り際、また受付をとおります。
あっ、今度は人が変わりました。先ほどの女性はいなくなり、新たな方が受付にたっています。
会計時、今度の受付の方は、非常に易しく、子どもにも接してくれます。そのほほえみに癒されました。興味深いのは、ここが、「先ほどと同じ病院」とは、あまり思えません。受付のクロゼットの色すら「暖色」に見えてくるから不思議です。嗚呼、あたたかい。
そう、結局、「人」なのです。
「人」で「風景」は変わるよね。
そして、人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月29日 05:38
年配者の経験談を「オレオレの押し売り」にしないためには!?
ちょっと前のことになりますが、テレビ番組「情熱大陸」に高田純次さんが登場なさったことがあります。
高田純次さんといえば、僕の中では、子どもの頃に家族で見ていた「天才たけしの元気がでるテレビ」のレポーター役がもっとも印象にのこっている姿であり、それから数十年後、68歳の今なお、元気で活躍なさっていることに、まずは驚愕しました。
番組の方も、「68歳の今なお、現役で活躍できること」をフィーチャーしており、そのことも踏まえ、高田純次さんの魅力に迫っておりました。
番組のなかで高田純次さんは、こうおっしゃいます。
肩書きは第三者が決めるからね
歳とってやっちゃいけないことは
「説教」と「昔話」と「自慢話」
だからおれ、この3つ無くしてるからエロ話しかできない
嗚呼、自戒をこめて申し上げますが、高田さんの、この言葉にドキッときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。かくいう僕も、まだペーペーなのですが、最近、この3つが「全くない」わけではないな、と思いました。年齢を重ねると、若い人に対する「説教」と「昔話」と「自慢話」が一般的に増えていくのでしょう。おー、気をつけなければ!あぶない、あぶない。
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とはいえ、年配者の経験談というのも、全くの「有害物質」かと問われると、そうではない一面ももっている気もします。うまくもちいれば、後輩からみれば、非常に学ぶことの多いリソースになる可能性があるものです。
僕の専門は人材開発ですが、「年配者の経験を、自社の人材開発に活かせないだろうか?」というご相談は、頻繁に寄せられます。
これにはいくつかコツがあるのですが、もっとも大きいことは何かと申しますと、
「経験談を、ほったらかしにしない」
ということです。つまり、年配の人だけが経験談をしゃべくりたいだけ話して、それで終わり、という「新春大放談的」な場にしないこと。そうした場は、たいがい
オレ、すげーだろ
オレの過去、いかしてるだろ?
オレ、今も、イケてるだろ?
というような「オレオレの押し売り」になりはてます。そして、そのような場をつくると若手は「やらされ感」が漂います。
むしろ「経験談を、ほったらかしにする」のでは「なく」、それを素材として議論をしたり、質疑を活発にしたりする。つまりは、経験談に「インタラクション」を交えていくことがもっとも重要なことだと僕は思います。たとえば、仮に今、60分時間があったとします。そうであるなら、経験談は20分でもいいくらいです。残りの40分はインタラクションにあてるくらいの覚悟がなければ、僕は、個人的に経験談のセッションは組みません。大切なことは、年配の数ある経験談の中から、「若い人=聞き手が知りたいこと」についてより深い理解につながる話しあいができるか、どうかということです。
これまでかかわってきた現場、そういえば、先日かかわった現場でも、工夫して経験談を料理しておられました。経験談の危険性と可能性をよく熟知しておられる人材開発の方が、機転をきかして、場をつくっておられたのが印象的でした。
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今日は高田純次さんの話題から、なぜか?「人材開発における経験談」の取り扱いに話が飛びました(笑)。休み明けなので、そのようなこともございましょう。
いずれにしても、「押し売り」をしたりせず、若い人々とはしっかり向き合いたいものです。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月28日 06:14
人材開発の仕事は「企画8割、運用2割」!?
仕事柄、人事・人材開発を企業で担っている方で、かつ、これまでに様々な接点がある方々から、人材開発に関する種々の相談をお引き受けすることがあります。
最近増えているように感じるご相談事項としては、
人材開発を担ってくれる人を採用したいのだけれども、思うように人がとれない
です。
このお悩みに直接お答えすることはなかなか難しいのですが、半分、ぼやきのようなかたちで「中原さんのお近くにいい人いませんか?」と聞かれることが少なくありません。
最近も、同種の3件のご相談を、別々の組織におつとめの方からご連絡いただいたくらいなので、よほどのことなのでしょう。皆様のご苦労に同情を禁じ得ません。
ここで興味深いのは、「人材開発を担ってくれる人」ということで、どういう能力要件(人材スペック)をもった個人が求められている、ということです。
「人材開発」というからには、「講師ができる」とか「ファシリテーションが上手だ」とか、そういうスペックが思い浮かびそうですが、僕の周囲で求められている人材はそうではありません。それはできるにこしたことはないけど、絶対の要件ではないように感じます。
もっとも求められているのは「企画力」です。
人材開発の基礎知識・基礎的な概念・語彙については周知し、過去に人材開発のプロジェクトを立ち上げた経験を有しており、新たに企画をたてて、人を巻き込んで、それらを実行できること。それがもっとも求められているように感じます。ま、あたりまえのことですが。ほかの仕事と同様、人材開発の仕事も「企画8割、運用2割」です。
その際、外国語を扱えることも、プラスの材料になることも増えているようです。
といいますのは、昨今の日本企業は、多国籍企業との企業合併をくりかえしており、人事プロセスの設計などが、海外企業の人事・人材開発担当者をまじえて行われることも増えています。
給与や処遇などは、それぞれの国で雇用慣行がありますので、それらを統一することは難しいのですが、まずはリーダーシップ研修から、まずは人材開発から、ということになりがちなようです。
そういうわけで、人材開発担当者の方々のテレカン(テレビカンファレンス)の利用度は増えていく、ということでしょうか。海外の場合、人材開発の仕事がプロフェッショナルとして確立している企業もありますので、先程申し上げた「人材開発の基礎知識・基礎的な概念・語彙」については、さらに必要になります。
ま、こちらも一般論としていえることではないですが、僕のまわりでは、テレカンと専門用語に苦労なさっている方が、増えているような気がするのは、気のせいでしょうか。
今日は人材開発の仕事について書きました。
人材開発の仕事は、「講義のスキル」とか「ファシリテーションのスキル」とか「ワークショップデザインの能力」とかがよく注目されますが、「企画力」「巻き込み力」といった、より上位の経験が求められているような気がします。
世間では、グローバル人材が求められる、とよく言われます。
グローバル人材を求めるのであれば、その人材を養成する側も、グローバルな仕事のあり方に適応することが求めらるのかもしれません。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月27日 08:51
もれなく「廃人」になれるラップアッププレゼンテーション!? : 聴衆にフィットしたプレゼンをいかにつくるか?
ラップアップ・プレゼンテーション(Wrap up presentation)というものがあります。ラップアップとは「包み込むこと=まとめること」ですので、要するに「まとめのプレゼンテーション」です。
以前、「知がめぐり、人がつながる場のデザイン」という本に書かせてもらったことですが、僕は、このラップアッププレゼンテーションを比較的得意にしています。
ラップアッププレゼンテーションでは、自分が司会・ファシリテーションをつとめるフォーラムやセミナーなどで、登壇者の複数の発表をリアルタイムで伺いながら、その要旨をプレゼンスライドに要約し、最後に、この日一日の要点を聴衆の方々にむけてプレゼンテーションします。
前もってプレゼンをつくりそれをデリバーのではなく、今ここの、その場で、リアルタイムに、聴衆の方々にもっとも「フィット感」のあるプレゼンをつくります。その場の「空気感」、会場の反応をリアルタイムにプレゼンに盛り込めますので、もし成功すれば、比較的高い満足度を得られます。
僕の場合、1ヶ月に1度は、どこかのフォーラムやセミナーで、そのようなラップアップをしているような気がします。
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あまり知られていないことですが、
ラップアップは、体力と精神力を激しく消耗する荒技
です。
なぜなら、それは複数の認知的なタスクの積み重ねだからです。
1.複数のご発表やご講演をリアルタイムで聞くこと
2.会場の反応やうなづきを察知すること
3.大切なことを要約しながら、聴衆にとっての意味づけや問いかけを考えること
4.自分の引き出しや知識を検索して、関連する情報や理論を取り出すこと
5.イラストやアートワークを駆使しながら、プレゼンスライドをつくること
6.自分の発表時間ぎりぎりにプレゼンを間に合わせ、ただちにデリバーすること
などを、ほぼ同時に行っていきます。
自分の発表時間までに、プレゼンが完成しなければ「アウト」です。
いわゆる「放送事故」のようなもので、取り返しはつきません。
要するに、これは「捨て身」のワザです。
ラップアップをすることに「腹をくくったら」、
プレゼンを「死んでもつくり終える」しかない
のです。
くどいようですが、もし完成しなければ「放送事故」です。幸い僕の場合は「放送事故」はありませんが、「放送事故寸前」「門前憤死5秒前」くらいは日常茶飯事です。せんだっても、自分のプレゼンの順番がくる3秒前にプレゼンを作り終えることができ、それをそのままプレゼンした、という感じになったことがあり、背中に嫌な汗をかきました。そんなこんなで、毎回、異常な緊張状況で、プレゼンをつくっています。
しかし面白いもので、20代の頃は、こうした作業を何一つシンドイと思いませんでした。というよりも、むしろ、その異常な緊張状態を愉しんでいたような気もします。もう、頭がおかしいです。
が、僕も、今年で40になりますもので、最近、これがシンドイなぁ、と思うようになりました(笑)。できれば、誰かかわってくんない、とか(笑)、一瞬ふぬけたチキン野郎になっている自分にムチをいれて生きています。
といいますのは、ラップアッププレゼンを1つやったあとは、もれなく「廃人」になれます。先ほどもお話しましたように、捨て身でマルチタスクをこなしますので、気力・体力をもれなく消耗するのです。
最近、このイラストの登場頻度が多いですね(笑)
廃人(泣)。
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思い起こせば、こうしたプレゼン技術を、あまり自分の指導学生をはじめ、他の人には、伝えてきませんでした。学生の中には、何人か、これに近いものを実践できる人もいますが、もし、こうしたことにも意味があることなのだとしたら、やり方を伝えたいなとも思います。実は、ラップアッププレゼンテーションには「コツ」があるのです。詳細は、また別の機会におはなししますが、もっとも大きなコツは「自分を消して聴衆になりきること」、一方で「自分の土俵にひきずること」です。これらは一見相反しますが、ラップアップのコツです。
実は、先だってのある会では、研究室の指導学生であるD2の保田江美さんが、はじめて、これに挑戦しました。
素晴らしい挑戦に敬意を表します。彼女はやり切りました。よいプレゼンであったと思います。本当にお疲れさまです。で、ところで、次、いつやる?(笑)
半分冗談で申し上げますが、中原淳の「ラップアッププレゼンテーション講座」というのも面白いなんて思いました。複数の他人のプレゼンを聞きながら、みなで個別にラップアッププレゼンをつくるのです。それを比較したら、面白そうだなと思いました。いくつかコツがあるので、そうしたものをフィードバックもできそうです。
この講座は、講座修了後は、もれなく、みんなで「廃人」になれる講座になることでしょう。激しく体力と気力を消耗しますので、「どMの人」しか受講できないかもしれません。
そんな講座、ニーズありますか?
もれなく「廃人」になれますけど(笑)
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月24日 20:59
グローバル化とは「まさか、自分が」の広がりである!?
かなり前のことになりますが、あるカンファレンスでパネリストを依頼されたとき、話が「グローバル化」という話題になりました。
パネリストのおひとりで、あるコンサルタントの方が、
グローバル化っていうのは、"限られたエリート"だけ関係するものであり、多くの人々にとっては、あまり縁のない話である。教育や、人材マネジメントなどは、あまり意識することはない・・・云々かんぬん
といった趣旨のご発言を、かなり断定的に、かつ、あまり人の話をお聞きになる様子を見せずに、非常に長い時間、なさっていました。
あんまりにも、非常にありがたいお言葉が続くので「へー、そう思うんだ」と思いつつも、司会者はそれをとめる意欲を失っていいたので、「たぶん、そうはならないだろうな」と心の中で自分の思いを反芻しながら、穏やかに時間を過ごしました。
嗚呼、穏やかな日々をわたしにください。
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それからおおよそ5年。
わたしたちの周囲の事態はこれとは少し「様相」を呈しています。ワンセンテンスでいうと、
「まさか、自分が」
先だって、出張した際 ー僕はさまざまな職業の人に話しかけるのが好きなのですが ー ある喫茶店に入りました。
観光地が近い、その駅の喫茶店には、外国人の方々がいっぱい。帰り際に店員さんに伺ったら、
「お客さんの3割くらいは外国人なんですよ。まさか、自分の職場こうなるとは・・・」
ちょっと前のことになりますが、ある工場を伺った際、60をゆうに超える熟練工の方が、海外の工場での指導を終えて帰国なさっていました。お話を伺うと
「まさか自分が外国にいって、かたことで、技術指導をするとは思わなかった。でも、海外には、昔の日本のような雰囲気があった」
また別のところ。
ある伝統工芸品をおつくりになっている、熟練の技術者の方にヒアリングした際、こんなことをおっしゃっていました。
「おれの弟子、こいつは、マレーシア出身なんだ。最初は外国人ってことで緊張してたんだが、なんてこたーない。まさか自分の弟子が外国人になるとは」
ある流通関係者の方は、こうもらします。
「最近は、人手不足で、日本人の採用がとても難しい。というわけで、外国人採用となるわけだけど、外国人が増えるってことで、管理者も外国人でいいと思っている。ちょっと前だと、まさか管理者が日本人じゃないなんて、と思われますけど」
・
・
・
・
ほらね、「まさか・・・自分が」
それも、「限られた人」だけじゃなくて、それよりも、もっと広い裾野で、ひたひたと進行する。
人材開発の仕事にも、ひたひたと「まさか、自分」が広がっています。
人事の諸プロセスのなかで、給与・待遇などはグローバルに統一の基準をつくることは難しいことが一般的ですが、このところ、繰り返されるM&Aの荒波のなかで、まずは「人材開発」「リーダーシップ開発」からは、グローバルで統一したものが広がってきています。
「このところ、海外とのテレカンだらけですよ。まさか、自分が、こうなるとは思わなかった」
まさか、自分が。
ほらね、限られたひとの問題じゃないでしょう?
もっと裾野が広いのですよ。
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今日はグローバル化について書きました。
言いたいことをワンセンテンスで書くと、
グローバル化とは「まさか、自分が」
です。
そう・・・「まさか、自分が」がより広い裾野で、ひたひたと進行し、気がつけば、まわりの風景がかわっていることなのです。
別の言葉を使えば、えっ?というところで、いやがおうでも、巻き込まれていく可能性があるものだと僕は思います。
でも、大丈夫だよ。この国は、過去の歴史をふりかえれば、そうやって、国外の課題をうまく乗り越えてきたのだから。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月23日 06:42
「働くこと」をみすえた「高校」の研究!? : 全国調査&Webサイト「マナビラボ : ひとはもともとアクティブラーナー!? :」がはじまるよ!?
祝!マナビラボが立ち上がりました(2015年12月15日)!
高校×学び×アクティブラーニングのポータルサイト!、どうぞご覧ください!
「未来を育てるマナビラボ:ひとはもともとアクティブ・ラーナー!」
http://manabilab.jp/
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2015年4月から、東京大学・中原淳研究室では、日本教育研究イノベーションセンターさまのご支援を賜り、新たな研究プロジェクトを開始させていただいております。
研究の舞台は「ザ・高校」!
いやはや、ハイスクールなのでございます(笑)。
なぜ高校かは、あとでご説明いたします。
このプロジェクトでは、
1.日本全国の普通科のある高校3900校を対象にして、「双方向型の授業(参加型授業)」をどの程度実践しているかの基礎調査を実施させていただく
(お忙しいところ調査に御協力いただいている先生方に心より感謝いたします。ありがとうございます)
2.高校の先生に立ち寄っていただけるWebサイトを新しくつくり、面白い授業を実践なさっている先生、それぞれの領域で挑戦している全国の高校生、高校に期待をかける教育関係者以外の方々(経営者・スポーツ選手など)に取材を行い、記事化し、人々のコミュニティをつくっていくこと
を実行します。
こちらはプロジェクト開始当初にだしたプレスリリースですが、もしよろしければ、ご覧いただけますと幸いです
【プレスリリースPDF】東京大学、「高校におけるアクティブラーニング型授業」を推進するための高大連携プロジェクトを開始
http://www.nakahara-lab.net/temp/active_learning_koukousei.pdf
プロジェクトは4月から本格稼働しました。そこからフルスロットルで加速しているプロジェクトメンバーの山辺恵理子さん、木村充君は、松尾駿君、堤ひろゆき君は、阿鼻叫喚な毎日をお過ごしなことと思います。お疲れ様です(感謝!)。ディレクターをつとめている山辺さんを中心に、チーム一丸となって前進しています。
また、このプロジェクトに伴走・併走し、熱いご支援をいただいている日本教育研究イノベーションセンター・河合塾の成田秀夫さん、船津昌己さん、谷口哲也さん、赤塚和繁さん、坂上紀子さん、片山まゆみさん、高井靖雄さん、友野伸一郎さんにも、この場を借りて心より感謝いたします。皆様のお力添えがなければ、ここまで来ることすらできませんでした。ありがとうございます。
おかげさまで7月、朧気ながらですが、プロジェクトの成果物の輪郭が見えてきました。
まず、調査に関してですが、、、
文部科学省のお力添えもあり、日本全国の普通科のある高校3900校を対象にして質問紙調査票が全国に配付され、現在、回答をいただいている状況にございます。
ご回答を検討いただいている3900校の高校関係者のみなさまには、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。
調査表は、管理職・主任・一般の教員の先生方の3種類にわかれており、これを多角的に重ね合わせあわせると、学校内において、いかに、どの程度、カリキュラムを構築していくかがわかってきます。調査は木村充君が中心になって、チームですべてオリジナルでつくりました。
なお、本調査に関してご支援をたまわりました、文部科学省の大杉住子さま、小野賢志さま、清水彩子さまには、この場を借りて御礼を申し上げます。ありがとうございます。
次にWebサイトの方ですが、、、
正式名称が「未来を育てるマナビラボ(愛称:マナビラボ):ひとはもともとアクティブラーナー」に決まりました!「ひとはもともとアクティブラーナー」という副題がミソです。
こちらの開発を株式会社スパイスワークスさんとご一緒させて頂くことになりました。スパイスワークスの関根さん、永島さんには、現在、様々な案をおつくりいただいています。
なお、本サイトのイラスト、タイポグラフィーには、イラストレータの加納徳博さんにたっていただくことになっております。ありがとうございます。
マナビラボでは、下記のようなコンテンツが毎週更新されていきます!
・ニッポンのマナビ:いまの高校の授業とは?!
インフォグラフィックスでわかる調査結果!
・マナビを拓く! 授業のひみつ
日本全国の面白い授業集まれ!
地方、都市、進学校からそうでない高校まで
様々な学校の、様々な授業をとりあげる取材記事
・3分でわかる! マナビの理論
3分間で学びの理論を解説します
・15歳の未来予想図
中原 × 各業界のトップランナーの方々による対談です。
15歳の高校生が、大人になるとき、どんな働き方が
求められるようになるのか?
為末大さん、今村久美さんなどにお逢いする予定です(お忙しいところ感謝です!)
・超高校生級!明日をつくる マナビの達人たち
日本全国で我が道をいき、世界を切り開いている高校生を取材します。
すごい高校生にお会いしたいです。
・どうするアクティブラーニング? 先生のための相談室
日本教育研究イノベーションセンターさんによる
熱い思いをもった特設記事です
・高校生ライターがいく
現役の高校生をライターとして雇用し、
彼らの日々の日常を綴ります
・マナビ漫才
漫才コンビ・モクレンがおくるマナビ漫才です。
こちらの方は、今、ディレクターの山辺さんが(泣きながら?)各所に調整を行い、このプログラムをコンテンツにするべく尽力なさっています。木村充君、松尾駿君、堤ひろゆき君も早速取材を開始してくれています。お疲れ様です。
また、これらのプロジェクトの成果物を1日にギュッと濃縮したシンポジウムらしきもの?を、3月26日@東京大学・本郷キャンパスで実施させて頂くことになりました。こちらはまだ内容は固まっていませんが、どうぞご参加いただけますよう、よろしく御願いいたします。
このように、多くの方々の御協力とご尽力により、ようやくプロジェクトの成果物の全体像が見えてきたことは、非常に嬉しいことです。
この12月サイトの本格的運用、続いて調査結果の公開にむけて、皆で努力していきたいと考えています。
▼
さて、このことは以前ブログにもかきましたが、企業 / 組織の人材開発を専門にする僕が、なぜ高校のプロジェクトに多くの方々のご尽力をいただきながら、このプロジェクトを立ち上げたかに関しては、いくつか理由があります。
もっとも大きな理由は、僕は、このプロジェクトを「高校だけを対象にしたプロジェクト」だとは捉えていないということです。
むしろ僕の思いはこうです。
「高校・大学(教育機関)ー就業(仕事世界への参入)」をトータルにとらえたうえで、出口(仕事世界への参入)をみすえて、「教育機関のあり方」を議論するべきときにきているのではないか
もちろん、こうした問題の切り取り方は、これまでにも存在していたことはいうまでもありません。
競争環境がグローバルに激化し、求められる人材像が急激に変化していくなかで、「今ならまだ間に合うかもしれない」という思いがあります。「やれ、教育機関が悪い」だの「やれ、企業が悪い」だの後ろ向きな責任転化論ではなく、双方をトータルにとらえる視点と議論が必要である気がします。
僕自身は、過去10年以上にわたり、企業研究、人材マネジメントの実証研究をなしてきました。そのなかで、企業研修の現場にも立ち、様々なビジネスパーソンと接していく中で、ここ数年ふつふつとこみ上げてきた思いがあります。
それは、多くの企業研修で学ばれている内容で、特に、下記に類するような経験は、いくら「前倒し」してても「早すぎる」ということはないということです。
特に、
コンフリクトの中から、人々と合意する経験
多種多様な社会的背景をもつ人々と協働する経験
リーダーシップを発揮して、人を巻き込む経験
論理的に物事をとらえ、アウトプットを行う経験
などは、変化の早い時代にあっては、教科や教科外で、無理のないかたちで教育機関でも学ばれるべきであると感じます。
そのような方向性に経験学習を進めていくことが、今後の就業をみすえた場合、決定的に重要になってくるだろうな、という予想がございます。
ワンセンテンスで申し上げますと、
マネジャーになってから
ロジカルシンキングをはじめても
無駄とはいいませんが、
圧倒的に「遅い」のです
誤解を避けるために申し上げますが、単に、企業で必要になる能力開発を、教育機関に押しつけたいわけではないのです。
そうではなく、上記のような経験は、今後の世の中、就業環境をみすえますと、これからを生きる個人の側にたっても、学齢の早いうちから学び、さらに、企業に入ってからも、学び続けられることが重要だと思うのです。
これは、もちろん、批判もあるかもしれません。
高校教育の目的は「仕事世界への参入」だけじゃないぞ、と。
それはおっしゃるとおりです。
市民性の涵養やその他にも教育機関の役割があることは承知していますが、多くの高校生が数年後に目前にするのは、「仕事があるか、ないか」「食っていけるか、いけないか」ということです。
僕は、自分の研究から自信をもって言い得るこのアプローチから、教育機関の問題を論じてみたいと思います。
これは以前にも申し上げましたが、このことに僕は「希望的観測」をもっています。
僕は、これまでの高校教育に、これまでの現場の先生方のお取り組みに、このことを考えるヒントがたくさんあると思っているからです。そのことが、「今あるもの」をまずは把握し、そこから物を論じたい、という本プロジェクトの調査手法ー量的調査と事例調査という研究の立ち上げ方にあらわれています。
僕は、このプロジェクトで、理想型をかかげて、それを押しつけることをしません。むしろ、これまでやってきたことを再評価し、よりよく推進していくことを願っています。
何もアクティブラーニング?という新たな?取り組みに青筋たてて緊張しなくても、これまでにも、多くの現場の先生方は、様々な地道な取り組みをなさってきたと思うのです。このプロジェクトでは、たとえば双方向型の授業をありかた「これから新しく始める物事」と「見なさないこと」ず、むしろ、「再発見!」するというアプローチにたってプロジェクトを実施します。
もちろん、このプロジェクトをはじめるからといって、僕の研究が、企業研究・人材開発研究からシフトすることはありえません。むしろ、これまで培ってきた組織研究のスコープをさらに広げ、「高校ー大学ー企業」というトランジションにまつわる、人々の学びを描いていきたいと考えています。
そして人生は続く!
投稿者 jun : 2015年7月22日 05:59
「まずは聞くって言われても、負けてる気がするんだよな症候群」!? : ミドルにはびこる「素朴理論」をひもとく!?
「まずは受けとめる、って聞くとね、、、つい、負けてるって感じちゃうんだよね。なんで、おれが負けなきゃなんないんだよって」
かなり前のことになりますが、ある管理職研修でフィードバック(部下育成)の話をした際、50代くらいのオジサマがもらした一言がこれでした。
部下指導の局面では、部下が言っていることを「いったん受け止めること=聞くこと」が大切だ、というお話をエクササイズとともにさせていただいたのですが、その中ででてきたのが、この反応でした。
それ自体の評価はいたしませんが、誠に印象深い反応であったので、記憶に残っています。
これにゆるく関連したところでは、こんな事例もあります。こちらは40代の管理職経験5年目くらいの方でした。
曰く
「オレが部下に何も言わないってことは、褒められてると思って欲しいんですよ。ダメなら叱るから」
こちらも、まことに興味深いものですね。
▼
これは前にも書きましたが、仕事柄、多くの管理職の方々とお会いしていると、この類の「中間管理職の素朴理論」に、ごくごく希に出会うことがあります。
「素朴理論」とは、「理論」という名前はついていますが、「公式の理論」とイコールなのではなく、ここでは「自分で勝手にもってしまった思い込みや囚われ」のことをさします。もう少しニュートラルにいえば「持論」ということになるのでしょうか。
前者の
「部下育成で大切なのは、まずは聞くとかね、受け止めるっていわれても、、、つい、負けてるって感じちゃうんだよね。なんで、おれが負けなきゃなんないんだよって」
は「聞くとは負けることだ持論=症候群」
後者の
「オレが部下に何も言わないってことは、褒められてると思って欲しいんですよ。ダメなら叱るから」
とは「褒めるとは沈黙持論=症候群」とでもなづけておきましょうか。
これは今細々と、しかし遅々として進まない僕の個人研究ですが(泣)、中間管理職の方々には、人によっては、この種の持論に囚われていて、なかなか部下を動かすことができない方が少なくありません。そして、そうした持論が、自分の行動を呪縛し、そのために自らを苦しめている。
信念研究の知見が明らかにしたところによれば、信念とは、仕事をはじめたごくごく初期に形成されー最初の職場で出会った人が極めて重要ですー、いったん形成されると、なかなか後になると、学習棄却(解除)は難しいものです。学習棄却されない信念は、行動を束縛します。
先ほどの持論でいえば、リーダーシップの観点からは、
「部下育成は勝ち負けじゃない。だから仕事として、いったんは受容しましょう」
「部下を動かすには、フツーにフィードバックしましょうよ。よくできたときは、フツーに褒めましょうよ」
となるのですが、それがなかなか難しい。
過去に形成した持論が、どうしても、頭をもたげてしまうのです。
ややこしいものですね。
▼
今日は、過去に形成された「中間管理職の素朴概念」について書きました。素朴理論は、それ自体がネガティブなわけではないのですが、それが時代にあわず、独りよがりのものになってしまえば、おそらく、本人・周囲に害をもたらします。
やはりこの種のものは、どこかの局面では、学習棄却をしなければ、なかなか本人のためにならないものであり、そうしたことを可能にするのが、フィードバックなのかな、と思います。
しかるべきときに、ちゃんと、誰かが、なんらかの機会をとらえて、フィードバックをしておかないと、あとは「バカ殿化」が進行していきます。人は無能になるまで成長する、と俗に言われますが、年をかさねて「無能」にはなりたくないものです。
あなたは、時代にあわない「素朴理論」をもっていませんか?
あなたは、独りよがりの「素朴理論」をふりかざしていませんか?
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月21日 06:13
ありそうでなかった「リーダーシップ研修」のドキュメンタリーを読んでみませんか?:イマドキのミドルリーダーの実像に迫る!?:篠原匡著「ヤフーとその仲間たちのすごい研修」が発売されました!
一般に、企業が行う「選抜型リーダーシップ研修」というのは、存在自体も秘められていることが少なくないものです。それは深くて、暗い、耳の穴? わけわからん(笑)
そんな中・・・本日、「地域における課題解決をとおした新しい異業種武者修行的?リーダーシップ研修」が書籍としてババーンと発売されました。1年間この研修を取材いただいた日経BP社の篠原匡さんが著したもので、書名を「ヤフーとその仲間たちのすごい研修」といいます。
僕は、ヤフーの本間さん、池田さんのお声がけにより、本研修の監修者・ファシリテータとして参加させて頂きました。一般に秘められることの多い「リーダーシップ研修」の内容が、すべて「ダダ漏れ」・・・オープンになっている書籍です。
篠原匡(2015) ヤフーとその仲間たちのすごい研修. 日経BP社
言葉をかえていえば、この本は、いわば「ありそうでなかったリーダーシップ研修のドキュメンタリー」です。研修は、異業種の次世代リーダー31名が出あい、課題解決をともに行うことからはじまります。
このプロジェクトで31人の次世代リーダーの皆さんは、
1.他社のメンバーとともに「異種混成チーム」を組織する
2.チームで、美瑛の町を歩き、美瑛の人々の様々な話を聴くフィールドワークを実施する
3.多様性あふれるチームで、徹底的に議論し、問題解決を行い、美瑛町長・町民の前でプレゼンテーションを行う
4.問題解決のプロセスの中で、自己、ないしは自己がグループに対して、どのような影響力を与えることができたかを振り返える
ことに挑戦なさいました。
本書では、異なる会社で活躍してきた異業種のビジネスパーソンたちが、どのように出会い、葛藤し、成果を生み出していったのかを、うまくいったところも、うまくいかなかったところも、含めて赤裸々に綴っています。
それは「地域課題解決」でもあり、また、「地域課題解決」という舞台を通じた「リーダーシップ開発」の機会でもありました。
その内容は、人事・人材開発・経営企画の皆さんはもちろんのこと、30代ー40代で、それぞれの会社・組織で、リーダーをつとめていらっしゃる方がお読みになっても、同世代の他社のリーダーの実像がわかり刺激になるのではないでしょうか。自分だったら、このときリーダーとして、他社のリーダーとともに、どのような問題解決ができるだろう・・・そんなことを妄想しながらお読み頂けると面白いのではないかと思われます。
第一期はまさにすべてが「手探り」で、本当に大変なプロジェクトでした。本業との両立に苦しみつつも、最後まで完走なさったみなさまに、まずはご苦労さまでした、と申し上げたいと思います。本当にお疲れさまでした。
▼
本書の特徴は、それに参加し、関与した人々の「顔が見える本」であるということだと思います。31人の次世代リーダーの皆さんが、それぞれどういう人々で、どのようなストーリーを経験なさったのかが綴られています。
研修の様子はもちろんのこと・・・
各グループの参加者の皆さんの様子まで知ることができます。
中には、よい思い出ばかりだけではなく、思い通りにいかないこと、うまくいかないこと、も多々ありました。メンバーの方々が感じた苛立ちや葛藤もありました。
このようにポジティブな部分のみに着目するのではなく、そうしたネガティブな側面にもあますところなく描写いただいていることが本書のもうひとつの特徴かもしれません。
僕は、リーダーシップ研修は「綺麗」であってはならないと常日頃から思っています。
「リーダーシップ研修」が、「本当に参加するべきガチな人々」が参加し、さらに、そこで取り扱われる課題解決が「本質に近づく内容」になればなるほど、「みんな仲良くお手てつないでチーパッパ的な仲良しグループ」的課題解決ではすまなくなる、すなわち「綺麗なリーダーシップ研修」ではなくなると思うのです。
「参加するべき人」が参加し、課題が本質に近づくにつれ、リーダー達はガチでぶつかり合いますので、研修自体は「心理的葛藤に満ちたリーダーシップ研修」になるはずなのです。もちろん、不用意にぶつかり合う必要はないのだけれども。
今回集まった5社は、お仕着せのパッケージ的なリーダーシップ研修、いわば「綺麗なリーダーシップ研修」を拒否し、「葛藤が渦巻くリーダーシップ研修の開発」に挑みました。その中には、多々課題も生まれましたが、まずはそれを引き受けたいと思います。
個人的には、今回の取り組みがきっかけで、今回の5社ではない様々な企業、美瑛ではない様々な地域で、さらなる取り組みが起こることを願っています。むしろ、これからお取り組みになる様々な企業、様々な地域の方々には、今回のわたしたちの取り組みを「上書き」していただきたいと思います。
そうした地道な取り組みの果てに「地方 × 企業の新たなかたち」がうまれるのかもしれません。そんなことを事務局の皆さんで夢想しながら、僕は、このプロジェクトにかかわらせていただきました。
オープンであること
閉じぬこと
最後になりますが、人事部、人材開発部、経営企画部の皆さん、ないしは地方公共団体で地域振興をなさっている皆さんで「輪読」して、自社のリーダーシップ研修や、リーダーのあり方をあーだこーだ議論しても面白いと思います。
また、同世代で、組織を率いている人々、これからチームや職場をマネジメントしていかなければならないリーダー予備軍の方々も、他社のリーダーの実像やスキルがわかり、刺激になるものと思われます。
どうぞ、皆さん、余すところなく、うまくいったところも、そうでないところもご高覧いただければ幸いです。
隠すものは何ひとつない。
▼
さて、この研修はすでに2年目にはいっており、今年はヤフー・インテリジェンス・日本郵便・アサヒビールの皆さんが、異種混成のチームをつくりながら、地域の課題解決に挑んでいます。
第二期は、第一期の反省にたち、一期の内容を「2倍」ほど濃くした内容になっていると思われます。第一期ならばセッション5でやっている内容が、セッション3で展開されているというイメージです。当社比2倍(笑)。
本業がある中で、この濃い研修にご参加頂いている二期の皆様のご尽力には、頭が下がる思いです。本当にお疲れさまです。
今年のチームの皆さんが、どのような成果を残して頂けるのか。
はたまた
地域課題解決のプロセスの中で、どのような学びを得られるのか。
僕としては、各社のリーダーの方々に寄り添い(厳しいことも立場上申し上げますが)人事の皆さんとともに、最大限、それらをサポートしていかせていただきたいと感じています。
最後になりますが、このプロジェクトで出会った、31人の次世代リーダーのみなさま、そして第一期事務局をご一緒させて頂いた、アサヒビールの三浦さん、門永さん、日本郵便の鶴田さん、畑さん、インテリジェンスの美濃さん、武井さん、電通北海道の森さん、美瑛町の後藤さん、石崎さん、平賀さん、観音さん、野村総研の三崎さんに心より感謝いたします。篠原さんも、素敵なドキュメンタリーをありがとうございます。
みなさまに心より感謝をこめて
そして人生は続く
ーーー
書名:ヤフーとその仲間たちのすごい研修
著者:篠原匡
リーダーをつくれ! 前代未聞の31人の冒険
ヤフー、インテリジェンス、日本郵便、アサヒビール、電通北海道、美瑛町役場――。
それぞれの組織の精鋭31人が、ある日、北海道・美瑛に集められた。
「この地域の抱える課題を解決するプロジェクトを提案せよ」。
突如下ったミッションに、精鋭たちは混成チームで挑む。
期限はわずか半年。
背景も年齢も共通言語も異なるメンバーが、6つのグループに分かれて智恵を絞る。
研修の最中には、空中分解しかけるチームもあれば、
高い結束力で課題に挑むチームもあった。
個性豊かなメンバーたちは、どのように1つのゴールに向かっていったのか。
【1章】企業に地域課題は解けるか? 前代未聞の異業種コラボレーション!
【2章】イシューを探せ! 登る山の高さをまず決めよう
【3章】リーダーは誰だ? 混成部隊のチームビルディングとは
【4章】本物の研修をつくれ! トレーニングよりラーニング
【5章】その提案はワクワクするか? 現場の生声がチームを変える
【6章】そして、決戦の舞台へ! ほんのりビターな大団円
(以上、AMAZONより一部抜粋)
投稿者 jun : 2015年7月17日 06:00
若い人が見ているのは「上司の背中」よりも「スマホの画面」!?
先だって電車に乗っていたときのことです。今となっては見慣れた光景のひとつなのかもしれませんが、自分の前に座っている人々、一列全員が、スマホをいじっている光景に遭遇しました。
「一列全員スマホ隊」というのは、なかなか珍しかったので、写真に撮ろうかとも思ったのですが、無断で撮影しては怒られそうなので、やっぱりやめました(笑)。
しかし、「一列全員スマホ隊」状況が生まれるまで・・・いわばスマホが「生活のインフラ」に近くなるまで「普及」したのかなと思うと、「時代の変化のはやさ」というものを感じざるをえません。
わずか、10年くらい前は、新聞を読んでいたり、雑誌を読んでいた人も多かったのに・・・。たまたまかもしれませんが、そのときは、そういう方はお見受けできませんでした。
先だって、都内某所で元エンジニアの方から伺ったところによりますと、現在のスマホというのは、1990年代のコンピュータ(PC)の約8000倍から1万倍の計算能力があるそうです。
いまや、当時のWindows95?時代のPCの1万倍の性能をもつコンピュータを、人々が、ズボンのポケットの中に忍ばせているのですから、とてつもない時代がおとずれているような気もします。
しかし、「世の中の変化」が比較的ゆるやかな領域もあります。
「マネジメントの世界」「人材開発の世界」は、もちろん変化が激しいのですが、デジタル環境ほどの変化が押し寄せているか、というとそうとも言い切れない部分があります。
人は用いるデジタルデバイスはすぐに買い換えますが、自分のマネジメントのOSを入れ替えることには非常に消極的です。いまだに、そこには旧来のマネジメント、旧来の人材育成の考え方がはびこっています。
例えば、
若手は「おれの背中」をみて育て!
若手はてめーで勝手に育つんだ
というのもそのひとつでしょう。
しかし、これは一橋大学の守島先生が非常に的確なご指摘をなさっていたのですが、これからの時代は、現場で働く人々も多様化・多忙化して、「現場で、勝手にうごくOJTは、ますます期待できなくなること」が予想されます。組織や事業を安定的に継続するのならば、マネジメントのOSを入れ替える必要がでてきます。
先生は、そういう状況を揶揄しながら、
若い人は「上司の背中」なんて見ていない
みんな「スマホ」を見てますから!
とおっしゃっておりました。非常に印象的な言葉です。
(今日の絵は、あまりにも下手すぎて、この僕でも、公開を躊躇いました。デモ、時間が無いので、このままいきます。なぜか、若い人が、ラーメンマンになってしまった。。。泣)
そう、人々の目線は、先だって僕が遭遇した光景と同様に、ポケットに忍ばせている1万倍の高速コンピュータに注がれているのです。
▼
今日はスマホと人材育成を絡めて?エッセイを書いてみました。
アクセス解析の結果によりますと、このブログは85%はスマホからのアクセです。おそらく、今、この記事をお読みのかたのうち、10人のうち9人は、スマホからアクセスいただいているものと思います(感謝です!)
あなたは、1万倍の高速コンピュータにいま、目を注いでいます。
この10年で、様々なデバイスがあなたの目の前を通り過ぎました。
あなたのマネジメントのOSは、当時と、変化をしていますか?
あなたのマネジメントのOSは、時代にあうものになっていますか?
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月16日 06:21
「夏休みの自由研究」とはそもそも「何」なのか?:テーマ選びの際に考えておきたい3つのポイント
首都圏は「猛暑日」が続いてますね。
北の国生まれの小生は、これから本格化する夏早々に、もうすでに「トロリとろけるチーズ」のごとく、シオシオのパーになって
、ドロドロに溶けています。
嗚呼、はやく冬こないかな(笑)。
ところで、今週・来週あたりで、子どもが「夏休み」に入るのですが、夏休みといえば「自由研究」。
8歳の愚息TAKUZOにも、今年は「自由研究」が課されるらしく、我が家では、せんだって、食卓でその話題になりました。
自由研究では、何をテーマにするか?
です。TAKUZOは、今年、はじめて自由研究をするので、そんな会話になりました。
そしたら、開口一番、TAKUZO曰く
鎌倉幕府は源頼朝がひらいたんだよね。
僕、自由研究に、それを書きたい
バミューダ海域って、船沈むよね
僕、それを調べて自由研究に書きたい
・
・
・
・
思わず、これには、飲んでいたコーヒがダバダーと口からあふれ出てしまって、頭痛が痛くなりました。
あのさー、それって、そもそも「自由研究」なの?
源頼朝が鎌倉幕府をひらいたのは、すでに誰かが明らかにした史実で、それを暗記して、書くのは「お勉強」じゃないの?
バミューダ海域を調べるっていうけど、あんた、バミューダ海域、どうやっていって、どうやって潜るの?
ねー、そもそも「自由研究」って何?
▼
「そもそも自由研究が何か?」は、どのように教えられているんだろうか?
「なんかおかしい」と思って、翌日、書店に行きました。そしたら、世の中には、よほど自由研究に困る人がいるらしく、自由研究本って腐るほどあるんですね。
夏休み終了1日前になっても、すぐに真似できる自由研究のタネ本もあったような(笑)。
その中から数冊読んでみましたが、とても興味深いことがわかりました。
それらの本には、
「子どもが簡単に真似できる自由研究の事例」は書いてあるのだけれども、「自由研究が何か?」を明確に定義して、伝えている本はない
のです。
ま、たぶん探せばあるんだろうけど、都内の大手書店の自由研究コーナーで、僕がこの日みたものの中には、そうした記述は見当たりませんでした。
だいたい
自由研究は、好きなことを調べることだよ
好きなことをつくることだよ
となっていて、
自由研究=牛乳パックなど身近なものをつくった工作
すなわち、ものづくり
自由研究=インターネットや辞典をつかって知識を調べて書く
自由研究=簡単な理科の実験をすること
自分の自宅の周辺を調べること
みたいになっていています。もちろん、それも「事例のひとつ」としてありうるんだけど、きちんと定義がなされていない。これには小生は、「なんちゃって研究者」のはしくれとして、非常に違和感を感じました。
そもそも、自由研究を子どもに求めるのなら、「自由研究が何か?」をきちんと説明してほしいのです。そうしないと、間違ったものを「研究」と呼んでしまうから。「お勉強」と「研究・探究」を決して同じものと考えないで欲しいのです。きっと、苦労するから。
で、しょうがないから、TAKUZOに「小学生にとっての自由研究が何か?」を教えることにしました。
僕の定義は、下記のとおりです。
自由研究とは
1.自分が知りたいこと
2.他の誰も、今までやっていないこと
3.身近でできること
をすべて満たす「知的な活動」ですよ。
と説明しました。これは工作のことはあまり考慮に入れていない定義ですが、工作が研究か?といわれると、僕にはピンとこないので、このような定義にしました。
3つのポイントのなかで、特に大切なのは2と3。
2は「オリジナリティ:Originality:誰もやっていない度」、3は「フィージビリティ:Feasibility:成し遂げることができるか度」です。
先ほどの例でいうならば、
確かに「鎌倉幕府は源頼朝がひらいた」んだけど、それは他の誰かが明らかにしちゃった史実だから、もう自分がやる必要はないね。
確かに「バミューダ海域って、船沈む」んだけど、TAKUZOが海モグって、沈む理由を考えるのは、TAKUZOの水泳能力と夏休みじゃ無理だよね
ってことになるんでしょうか。
そのうえで、自由研究には「自分の説(言うまでもなく仮説)」をもつ必要があります。
「自分の説」とは
「ははーん、この場合だったら、こうなるはずだ! Yesか? Noか?」
みたいな感じで、研究で「白黒はっきりさせられる自分の予想」です。この「正しさ」を確かめていくのが「研究」なんだよ、と。
一応、TAKUZOは納得してくれていたようですが・・・
嗚呼、どうなることやら。
今度は、バミューダ海域に鎌倉幕府があった、とかぬかしそう(笑)。
▼
今日は「自由研究が何か?」ということについて書きました。
僕はすでに学校教育の研究を離れて15年弱たっているので、「自由研究が何たるか?」に関する議論があるのか、ないのかすらしらないけれど、この間、さまざまな本を読むに付け、すこし違和感を感じました。
そのうえで、探究を子どもにさせたいのなら、
「探究とは何か?」
「それは日々のお勉強とは何が違うのか?」
をしっかり教えていく必要があるのかな、と思いました。
志と熱意のある先生は、すでに、そのようなことを実践なさっているのでしょうけれど・・・
そして人生は続く
ーーー
追伸.
そういえば、かつて、夏休みの読書感想文についても私見を書いていました。夏休みの課題に、僕、ルサンチマンがあるのかも(笑)。あー、子ども時代には、ひどい目にあった。
過去記事>夏休みの読書感想文とは、いったい「何」で、どのように書いたらよいのか?
http://www.nakahara-lab.net/2012/11/post_1894.html
過去記事>悩める親のための読書感想文にわか指導法:長い文章を書くとはどういうことか!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2014/08/post_2262.html
投稿者 jun : 2015年7月15日 06:13
「空気を吸っても、水を飲んでも、体重が増えてしまう世代 !?」向けの「下山ワークショップ」!?
今年になって、ひそかにパッションを持ちながらすすめているプロジェクトに、京都造形大学 アートコミュニケーション研究センターの伊達 隆洋さん、岡崎 大輔さん、内田洋行教育総合研究所 平野智紀さんらとの共同研究があります。
京都造形大学 アートコミュニケーション研究センター
http://acop.jp/
平野智紀さん ウェブサイト
http://www.tomokihirano.com/
京都造形大学や平野さんらの中心的な活動で、非常によく知られているのは「対話型鑑賞」のお取り組みですが、今回の共同研究で中心的なテーマになっているのは、それではありません。
それは、ズバリ
「働くことをとらえなおすための中高年向けワークショップ開発」
です。
もうすこし平たく申し上げますと、
50代の方々が、これから20年をかけて、いかに「下山」するかを考え直すためのワークショップ
を開発しています。ぜんぜん、ひらたくない(笑)?
ま、ワンセンテンスで申し上げれば
「下山ワークショップ」(笑)。
「長い仕事人生」をいかに安全に、かつ、心地よく「徐々に降りるか」を考えるための学習機会と申し上げましょうか。登山は、安全に「下山」できなければ「遭難」です。せっかく「登山」したのに「遭難」してしまっては、元も子もありません。だから、これから下山を迎える前に、下山のやりかたを考えよう、というのが趣旨かと思います。
ここに至る経緯は、話すとかなり長いのですが、ともかく4人で、そうしたものを開発しましょう、ということで、話をすすめています。
▼
思えば、これまで人材開発は「登山」に注目することの方が多かったように思います。
若手の社会化(人材育成)、熟達、リーダーへの成長、マネジメントスキルの向上・・・などなど、これらは、要するに「上昇移動を前提にしたさまざまな人材開発」であり、メタフォリカルに申し上げますと、いわば「登山」とも形容できるものです。そして、そこには、コーチングやメンタリングなどを中心に、さまざまな概念、ツール、技術が、すでに発達してきています。先行研究も「腐るほど」あります。そこは研究の中心地であり、いわばレッドオーシャンでもあります。
しかし、僕も、今年は40になり(笑)、「空気を吸っても、水を飲んでも、少しずつ肥えてくる世代」に突入してきました。
また、学問的にも、相対的にブルーオーシャンである、この領域をみたときに、そろそろ「下山の研究に着手すること」も大切だな、と思うようになりました。
むしろ、僕は、「自分の生き方」と「自分の学問」を切り離して考えられない人間なので、「自分のためにも」、「下山のプロセス」が知りたくなってきているといっても過言ではなりません。
さらにたとえていうのならば、
「空気を吸っても、水を飲んでも、少しずつ肥えてくる世代」、酸いも甘いもわかりかけている、海千山千な人々向けの、プチしょっぱい人材開発
というのかな(笑)。わけわからん。
たとえば、同じコーチングやリーダーシップ開発でも、そうした世代向けの「何か」が求められているような気がします。
▼
ワークショップの開発は、月1程度、実際にあってミーティングを繰り返しているのですが、今後のプロセスでは、つくってはやってみて、やってみてはつくりあげる、いわば「デザイン&実践」のプロセスに入ってきている、と思います。
せんだっての会議では、京都での実践の様子をうかがいましたが、まことに興味深いものでした。あるひとりの方が発したという、印象的な言葉が、どうもそれ以来、僕の脳内では、リフレインしています。
50になってみたものの
30のときから
自分としては
何一つ変わっちゃいない
この感覚は、なるほどなと思うところがあります。
たとえば、自分の場合、僕は今年で40になりますが、外見的には少し変わったような気がするのだけれども(笑)、マインド的には、自分としては20から何にも変わっていない気もします(成長していないってこと?)。外見はともかく、マインドはヤングです(笑・・・死語)
だとするならば、もう一度、これまでをみつめなおし、これからを構想する機会を、中高年に突入する、なるべく早い時期に「前倒し」でもつことが重要なのではないか、という思いを僕はもちます。
まだまだマインドはヤングなんだから、その時期に「安全な下山の仕方」を考える。
先ほども申し上げましたように、山登りは、安全に「下山」できなければ「遭難」です。せっかく「登山」したのに「遭難」してしまっては、元も子もありません。そうしたことを考えたく思います。
▼
というわけで・・・今、わたしたちは2本のワークショップを開発しています。秋・冬くらいには、実際に、都内で実験的実践をお届けできるものと思います。第一弾は、9月7日の夕方以降だと記憶しています。
ぜひご参加頂けたとしたらうれしいことです。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月14日 05:57
「分かり合えず、伝わらない時代」をいかに生きるか?:佐藤尚之(著)「明日のプランニング」を読んだ!
先だって、このブログでは、
グローバル化とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟である!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/06/post_2440.html
と称して、今後社会に広がるであろう「分かりあえなさ」について、平田オリザさんの秀逸な一文(今となっては予言)を紹介させて頂きました。長くなることを覚悟して、下記に引用させて頂きますと、下記のようになります。
二十一世紀のコミュニケーションは「伝わらない」ということから始まる。(中略)
私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を話しているということ。
私は、あなたが分からないということ。
私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。
そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
(中略)
まず話し始めよう。そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二十一世紀の対話が開けていく。
(平田オリザ「対話のレッスン」p241-222より引用)
そして、先だってのテーマが、「分かり合えなさ」だとするならば、これから下記でご紹介する本は、「伝わらなさ」をテーマにした本です。
佐藤尚之さんの「明日のプランニング」を読みました。
著者は、広告業界で非常に著名なクリエイティブ・ディレクターで、マスメディアに依存できない「これからの広告」に関する著書を、これまでにもお書きになってきた方です。僕は著者には一度もお逢いしたことがないですが、著書はすべてこれまでにも読ませて頂いておりました。
「明日のプランニング」は、情報大爆発・情報大洪水・情報ビックバン?・・・何と言ってもよいですが、一般の人々の目の前をながれるビットストリーム(情報の量)が超膨大化する時代に、その膨大化する情報に埋没するのではない広告を、いかにつくればよいかを考察した本です。
著書冒頭部、著者はーさすがに広告がご専門ということもあるのでしょうーこの情報大爆発時代を形容し、「砂一粒の時代=砂一時代」と名づけます。
著者によりますと、近年、わたしたちの目の前を流れる1年間の情報量(おそらくIPのトラフィック量)が「1ゼタバイト(zettabyte:1兆ギガバイト)」を超えたらしく、その1ゼタバイトという量は、「世界中の海岸の砂の粒をすべてあわせた数」に相当するのだそうです。
こうした途方もない爆発する情報量の中で、それらに埋没することなく広告をつくりあげ、注意を振り向けてもらい、購買行動に結びつけるというのは、著者によると「砂一粒の奇跡」である、ということです。
この比喩、厳密にいえば、広告が1バイトである、ということはないので、「砂一時代」というのは、メタファとしてやや過剰なのかもしれませんが、「圧倒的にわかりやすい」ので、好感がもてます。
そのうえで、著者は、「砂一時代」における広告を「二つの次元」にわけて、図示したうえで、それらを著書全体をつかって説明します。
「第一次元」は、いわゆる従来からのマスメディアを使っても情報を届けられる層です。
著者によると、「日本にすむ人々の7500万人は月に1度もパソコンから検索していない」そうで、こうした層には、従来からのマスメディアをつかった広報戦略がまだ奏功するといいます。
「第二次元」は、SNSやソーシャルメディアにおいて、商品やサービスのファンをつくることで、そのファンを介した間接的な推薦によってしか、ものを買わない層です。
こうした層へ情報を届けるためには、「商品のファンコミュニティ=ファンダム(著書ではファンベース)」を構築し、彼らの生の言葉(オーガニックなことば)で、共感型の消費を生み出そう、ということになるのかなと思います。
おおまかに本書で述べられていることは以上です。
興味深かったことは2点。
まず1点は、こうした本は、たいてい、著者自身が広告会社を経営していたりすることが多いので、先ほどの分類でいえば「第二次元」にのみ(バイアスをかけて)注目し、
これからは、もう今までの方法はすべてダメだよねー
今の時代、ソーシャルメディアだよねー
これからの消費はAISASだよねー
(だから著書を書くほど業界をよく知っている僕に、プランニングさせてよねーディレクションさせてよねー:心の声)
と主張を重ねがちですが、本書は第一次元、すなわち、まだマスメディアが奏功する層にもきっちりと目配りを行っているということです。こうしたニュートラルな目配りが好感が持てました。
砂一時代にあって大切なことは、広告の送り手がフェアな情報をファンにつたえることー「ニュートラルであること」「誠実であること」ですが、本書の構成をもって、著者は身をもって、このことを示したのではないでしょうか。本書には、この本の構成や執筆をもって著者が伝えたかったメタメッセージがあるように、僕には思えました。
言うまでもなく、全体のポピュレーションから考えた場合、どの程度の人員が、「砂一時代」を生きているのか。わたしたちは、まずもって冷静に考える必要があります。
第二に、これは著者が本書にこめたもうひとつのメタメッセージではないかと勝手に勘ぐっているのですが、本書のほとんどの内容は「1ページの概念図」に著書冒頭部に示されており、著者は、この概念図をかなりの枚数をつかって、様々な言葉をつくし、説明する構造になっています。
逆にいうと、これこそが、「分かり得ない時代」「伝わらない砂一時代」に必要な知的態度であると思いました。著者は本書の構成をもって、身をもって「砂一時台」に必要なメタメッセージをお伝えになっているのではないかと感じるのです。
「分かり合えない」「伝わらない」時代にあっては、簡便な表現、言葉をつくした説明が必要になるのです。図示し、言葉をつくし、わかりやすく人に伝える努力を減じてはいけません。
まことに興味深いことです。
以上、猛烈な誤読かもしれませんが、僕の感じたことです。
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今日は「明日のプランニング」の書評を、オーガニックな言葉で、お伝えしました。「分かり合えない時代」にくわえて、「伝わらない時代」を生きる、わたしたちに必要なのは、どのようなことなのかを、広告という側面から考えさせてくれる良著でした。
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首都圏、今週は月曜日から暑くなりそうですね!
今週一週間が、よき一週間になりますよう!
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月13日 06:11
採用トレンド2015 : 「育成コンテンツ化」する採用の現場!?
先だって、慶應MCCの授業「ラーニングイノベーション論」に、採用学で著名な服部泰宏先生にご登壇いただき、みなでディスカッションする機会をえました。本当にお忙しい中、ご出講いただいた服部先生には、心より感謝をいたします。ありがとうございました。
▼
服部先生のご講義は、どの内容も非常に面白いものでしたが、僕がもっとも興味をもったのは、「採用の入り口が多様化している」というご指摘でした。採用に関しましては、これまでにもブログで書いてきたことがありますが、まさに予想にかなり近い形で変化が起こっている気がいたします。
これからの就活におこる三大変化:「前倒し化」「アングラ化」「マルチルート化」
http://president.jp/articles/-/11812
RPG化する就職活動!?:「採用活動とは言わない採用活動」の密かな広がり
http://www.nakahara-lab.net/2014/02/rpg.html
昨今ひろがる中には、数日間の講座を受けてもらって、そのなかで評価するというものがあったり、優秀な社員に数日間弟子入りして、そのプロセスの中で採用するものがあったりして、まことに興味深いことでした。
ここで起こっていることは、さらに
「採用者ひとりひとりとの濃密なインタラクションを行うようになっていること」
そして
「講座とか弟子入りとかに代表されるように、"育成"とも解釈できるようなインタラクションを提供する傾向があること」
そして
「もはや大規模な人員を採用対象とするのではなく、そもそも少人数に採用対象を限定すること」
が同時に起こっているような気がいたしました。
濃密なインタラクションは、経営の観点から考えれば、コストフルです。よって、こうしたものを大人数のプール全てに適応することは、経営上、難しいという判断をせざるをえません。
ここまでをすべて「エイヤッ!」とまとめて、ワンセンテンスで申し上げますと、近年の採用では、
「採用のなかに育成コンテンツが入り込み、ごくごく短期間の育成プロセスにおける"学生の伸びしろ"と"学生の組織への馴染み度"を、評価する試み」
があらわれているのではないかという仮説が成り立ちます。
専門用語を用いることに成増が、さらにシンプルに申し上げますと、
「社会化されやすさ」を予測する採用手法として「育成コンテンツ」が用いられている
という言い方もできます。
▼
「育成コンテンツ化する採用」は、コストがかかる / 少人数しか対象にはできないというデメリットがある一方、数々のメリットがあります。
最大のものは、先ほども申し上げましたように、短期間「育成」を提供することによって、そうしたもののなかで、学生がどの程度「組織になじみ」さらには「伸びるのか」を評価できるところもあるのかな、と思います。学生も、昨今の方々は成長願望がありますので、こうした採用の手法はおおむね高く評価される傾向がでてくるのではないかと思われます。
組織の人員からみた場合には、この学生が現場にきたときに、どの程度、「かまってやりたいと思うか?」も評価できるのではないでしょうか。「仕事ができるかどうか」の潜在力を評価するときに、一番説明力が高いのは「実際に仕事をさせてみること」です。育成の色がかかってはいますが、「実際に組織の人と一緒に仕事をさせてみること」は、コストフルではありますが、もっとも確実な採用手法といえます。
実務のビジネス能力を評価できず、潜在的な能力を評価せざるをえない日本の現在の採用慣行では、まずは「組織になじむかどうか」「伸びしろがあるかどうか」「可愛がられるかどうか?」が非常に重要なファクターになると思います。
それに対しては、いろいろな議論があるとは思いますが、「実務のビジネス能力」を先行する教育機関で十分扱えていない以上、また、現在の日本の採用慣行が「ジョブ」というよりも「メンバーシップ」を評価している以上、こうした評価項目が登場してくることは、経営的には妥当性があると僕は思います。
これを評価する手段が、こうした「育成化する採用」に現れているのではないかと思いました。もちろん、どれだけ一般性のあることかはわかりませんが・・・。
▼
今日は「育成化する採用」のお話をしました。従来、採用と育成のあいだには、明確な境界がありましたが、これらが接近し、「採用とはいわない採用」や「採用にはみえない採用」が広がりつつあるというお話をさせていただきました。これの問題点は「多くを扱えない」ということがありますので、こうした動きがひろがるとき、「そもそも最初から採用の入り口にすら到達できない学生」が多くなることは予測できるのかな、と思います。
また、このお話をつきつめていくと、実は、採用研究にひそむ支配的なパラダイム「マッチングパラダイム」にも、やや修正が必要になるとは思いますが、その話は、やや専門的なので、また別の機会で。
素晴らしいご講義をいただいた服部さん、そして熱意とパッションあふれる受講生のみなさま、事務局の保谷さんに、心より感謝をいたします。ありがとうございました。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月10日 06:48
あなたの学びのイメージは「名詞」ですか?それとも「動詞」ですか?
先だって、同僚の山辺恵理子さん、木村充君、松尾駿君と勉強会をしていた際、山辺さんが発表してくれた文献発表の中に、興味深い問いがありました(感謝!)。
その問いとは、
学びを「名詞」としてとらえるのか?
それとも
学びを「動詞」としてとらえるのか?
というものです(McCleery 1986)。
問いに対する「二者択一の答え」は、究極にいえば、どっちでもいいのですが(笑)、敢えて「あれか、それか」の両極にふることで、この問いは、「自分のもっている学びという言葉に対するイメージ」を投射し、「学びのイメージを他者と共有しうる」のかなと思いました。そういう意味では、興味深い問いなのかな、と。
さて「答え」はどっちでもいい、と言いましたが、やっぱり答えが気になるので、少し考えていくと、世間的には、おそらく「学びとは名詞である」という考え方が支配的なのかな、と思います。
すなわち「学び」ときくと「お勉強」が喚起されると思いますので、そこで得られるものは「知識」「スキル」「態度」であろう、と。
なんらかの「構成物(constructs)=名詞」が頭の中につくりだされることが「学び」であろうと考えるのかな、と思うのです。
▼
それ自体、僕は否定しませんが、僕のイメージは、かなり「動詞」に近いものであることがわかりました。
僕が、学びを語る「自分の言葉(どこかの外国の学者が考えた、ありがたい言葉を使うのではなく、あくまで自分の言葉!)」で、過去20年間、、一番しっくりきているのは、
「学びとは自分が変わること。そして、周囲を変えること」
です。
このことからもおわかりのように、僕がもっている「学び」のイメージは、「他者にビジョン(ホラをふく)をふきこむ」であったり、「他者を巻き込む」であったり、します。ですので、かなり「動詞」に近いことがおわかりいただけますね。
皆さんはいかがですか?
▼
今日は「学びは名詞か、動詞か?」という問いを考えてきました。異常にシンプルな問いですが、実は、掘っていけば、なかなかに味わい深い問いであるようにも感じます。ただし、時間がないので、今日はここまで。
あと8分で、家の目覚ましが鳴り、TAKUZO、KENZO、ママが起きてきます。あっという間に慌ただしくなります(笑)。我が家のいつもの朝です。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月 9日 06:24
「小一時間で、内容お任せ、お手間はとらせない出前講義」という名の「丸投げドン的キャリア教育」!?
仕事柄、人事関係のお仕事に携わっている方々とお会いする機会が多いのですが、先だって、ある会合でご一緒させて頂いた人事部の方が、こんなことを「ボヤいて」おられました。
「最近、教育機関とかから、会社に電話がかかってくることが多いんですよ。生徒の前で、仕事の話をしてください。社会人として講演してください。
こたえられる量には限界がありますが、できるだけ、お答えしようと思うのですけれども、でも、そのご依頼の際に、ひっかかる言葉を口にだされる場合があるんですよ。先生、それって、何だと思います?
それはね
"小一時間"講義していただくだけでいいんです。
"内容はお任せ"です。
決して"お手間は取らせません"から。
まー、もちろん、こちらの負荷を慮ってくださっているんでしょうね。でも、どこかひっかかるんですよね。先生、この頼まれ方、どう思われます?
「小一時間」とか「お任せ」とか「お手間はとらせない」で、生徒の役にたつんですか? いや、小一時間でも、企業からすれば「お手間」なんですよ。でも、「生徒のためになる」なら行きたいと思う。
で、実際いってみると、本当に「スポット」で、僕の話があるだけなんですよ。前後の文脈はほとんどない。生徒の側からすれば、突然、どっかのオヤジがやってきて、人生訓たれてるみたいな感じです。僕が生徒なら、ドン引きですよね。あんた、誰ですか? このオヤジ、誰?みたいな感じです。
先生、どう思われますか?」
▼
上記のように、昨今、キャリア・職業に対する意識が高まっておりますので、様々な文脈で、教育機関側が、企業に対して、授業や講義を依頼することが増えているのでしょう。
僕は、キャリアの専門ではないので、こうした動きにどの程度一般性があるかは存じ上げません。が、文脈から類推するに、局所的には(わたしの周囲では)、そういうことが起こっているようにも思います。
一般に、なるべく早いうちに「職業に対する意識」を高めておくことは、僕は「賛成」です。それは「早いにこしたことはない」。これが僕の持論です。
さて、その場には、他社の人事部の方もいらっしゃいましたが、一様に、
「そうそう、うちにもすごく、そういう依頼、来ますね」
「そうなんだよね、お手間はとらせませんっていうんですよ」
「内容は何でもいいって、言うんですよね」
「講演の前後で何が教えられているか、わかんないんですよ。で、自由に喋ってと言われる」
とおっしゃっておりました。
教育機関の方からすれば、依頼のときに
「拘束時間はそうですね10時間でしょうか。めちゃめちゃ負荷が高いとは思いますが、うちの教育にガチでかんでくれませんか。いやー、たぶん、アホほど手間かかると思います」
とは「口が裂けてもいえない」ので、先ほどのようにいうしかないようにも思います。それは重々承知しております。
しかし、そのことは重々承知したうえで、企業の人事部の方が気にしておられたことで、僕があえて、言葉を補って代弁させていただくのだとすると、こういうことではないかと思います。
「小一時間出かけて、内容はお任せのお手間はかからない話をして、それで、生徒のお役に立てるんでしょうか?」
誤解を1ミリもおそれずに、もっと踏み込んでいうと、
要するに、
「よもや、キャリア教育、職業教育をしなきゃならないという体裁を保つために、キャリアや職業というワードから連想されるであろう民間企業人を、1時間弱、教育機関に呼んで話をさせて、それでキャリア教育・職業教育を「したこと」にしていませんか?
その結果が「小一時間」「内容お任せ」「お手間はとらせない」なんじゃないでしょうか?
それは、生徒のお役にたてるのでしょうか?」
ということです。
昨今は、あいだに大規模な民間業者も入ることも少なくないらしく、この手のリクエストがあまりに多くて、どうしてよいかわからなくなっているそうです。
皆さん、どうお思いになりますか?
▼
今日は、「小一時間の・内容お任せ・お手間をとらせない出前講義」について書きました。
もちろん、中には、それで素晴らしい講義をいただいている場合もあるとは思いますし、それでキャリアや職業に対する意識が高まった生徒も多々いるのでしょう。内容はお任せでも、小一時間でも、素晴らしいものは素晴らしいのでしょう。
しかし、キャリア教育が「一様にやらなければならないこと」になり、あいだに民間企業などが媒介するケースも増え、一日に数本も、企業に出前講義の依頼が寄せられ、かつ、その依頼の仕方も定型化していることから類推するに、
「安易なキャリア教育・職業教育のアウトソーシング」
が、さらに進行しているような気がします。
「アウトソーシング」と書きましたが、要するに「丸投げドン」です。
たぶん、心ある企業の方で、「生徒のためになる」と信じることができるのなら、教育機関で、ある程度の手間がかかっても、かかわってもよい、という人は少なくないと思います。たとえ手間がかかっても、社会のためになることなら、一肌脱ごうじゃないか。すべての要請には応えられないけれど、心ある教育機関の方々と連携することはやぶさかではない、とお思いの方は、一定数いらっしゃると思うのです。
しかし、おそらく、どうしても符に落ちないのは、
「やらなければならないことを、やったことにするため」
に、手間ひまをかけてかかわることではないかと推察します。
ワンセンテンスで申し上げますが、そういう仕事は「空しい」。
このことについて、僕個人が、一教員としてこれまでの大学教育の経験から書かせてもらうと、
組織外の機関や人と連携して、効果の高い「授業」を創ることは、やっぱりお互いに「手間ひま」かかるんだと思います。
少なくとも僕の経験では。
意識のすり合わせ、内容の吟味、事前事後の予習・復習・振り返りなど、やっぱり「手間ひま」かかりますね。他の方のケースは知りませんが。
問題は、その「手間ひま」を乗り越えてでも、腹をくくって、本気の本気でやるか?
「どのような内容を、生徒や学生に何を伝え、どのように変化を促していくか」
ということについて、組織外の相手の方といかにパッションを共有していくかであると僕は感じます。
皆さんはいかが思われますでしょうか。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月 8日 06:23
「地域の課題解決を通したリーダーシップ開発研修」ではいったい何が起こるのか?>篠原匡(著)「ヤフーとその仲間たちのすごい研修」予約発売中!!
「地域における課題解決をとおしたまったく新しい異業種武者修行的?リーダーシップ研修」が書籍になりました。別名、1粒で2度おいしいリーダーシップ開発研修です。
書籍は、日経BP社の篠原匡さんの手による執筆で、すでに AMAZONでは予約販売がはじまっているようです。
篠原匡(2015) ヤフーとその仲間たちのすごい研修. 日経BP社
こちらのリーダーシップ研修は、北の町・美瑛を舞台にした「地域問題解決をとおした次世代リーダーシップ研修」で、ヤフー・インテリジェンス・日本郵便・アサヒビール・電通北海道・美瑛町の若手ビジネスパーソンのみなさまが、1年かけて取り組んだ「地域課題解決プロジェクト」です。
1.各社のビジネスパーソンが、組織を離れ、他社のメンバーとともに「異種混成チーム」を組織する
2.チームで、美瑛の町を歩き、美瑛の人々の様々な話を聴くフィールドワークを実施する
3.多様性あふれるチームで、徹底的に議論し、問題解決を行い、美瑛町長・町民の前でプレゼンテーションを行う
4.問題解決のプロセスの中で、自己、ないしは自己がグループに対して、どのような影響力を与えることができたかを振り返り、リーダーシップ能力・経営者としてのマインドを醸成する
ことを目的にしています。
発起人のヤフー・本間さん、池田さんらによるお声がけのもと、中原は、本研修の監修者・ファシリテータとして、このプロジェクトにかかわらせていただきました。
このようなプロジェクトに参画させていただいたこと、また各社の人事部の皆さんと徹底的に議論し、コラボレーションの機会をいただいたこと、そして各社の志・熱意あふれるビジネスパーソンの皆さんとお会いできたことを、心より感謝しております。
▼
本書で、執筆者の篠原さんは、「良質のドキュメンタリー」をみるがごとく、この研修で何がおこったのかを綴っておられます。
原稿を拝読させて頂いたのは、かなり前になりますが、本書を読みながら、この研究で起こった「様々な出来事」を、ひとつひとつの「光景」を、ふたたび脳裏に思い浮かべながら読むことができました。それは「あのシーン」が蘇るような感覚でした。
そして、そこには、よい思い出ばかりだけではなく、思い通りにいかないこと、うまくいかないこと、も多々ありました。メンバーの方々が感じた苛立ちや葛藤もありました。
このようにポジティブな部分のみに着目するのではなく、そうしたネガティブな側面にもあますところなく描写いただいていることが本書の特徴かと思います。
「大人の学び」には、時に痛みや葛藤がつきまとうこともあります。また、そうした葛藤や痛みは、それが理にかなっていない場合には、僕の反省のポイントでもあり、次年度以降の事務局のチャレンジになりうることでもあります。
どうぞ、皆さん、余すところなく、うまくいったところも、そうでないところもご高覧いただければ幸いです。
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この研修はすでに2年目にはいっており、今年はヤフー・インテリジェンス・日本郵便・アサヒビールの皆さんが、異種混成のチームをつくりながら、地域の課題解決に挑んでいます。二期の皆様のご尽力には、頭が下がる思いです。本当にお疲れさまです。
第一期の結果は、一期の皆さんのご努力・ご尽力はもちろんのこと、村内の様々な契機や運も幸いして、現在ひとつの案がすでに実行、2案が具体的に前向きに動き出していると解釈できる状況です。
今年のチームの皆さんが、どのような成果を残して頂けるのか。
はたまた
地域課題解決のプロセスの中で、どのような学びを得られるのか。
僕としては、各社の人事の皆さんとともに、最大限、それらをサポートしていかせていただきたいと感じています。最後になりますが、一期にご一緒させて頂いた受講生の皆さんには心より感謝をいたします。本当にお疲れさまでございました。
また、このプロジェクトをご一緒させて頂いた第一期の事務局の皆さま、アサヒビールの三浦さん、門永さん、日本郵便の鶴田さん、畑さん、インテリジェンスの美濃さん、武井さん、電通北海道の森さん、美瑛町の後藤さん、石崎さん、平賀さん、観音さんに心より感謝いたします。
そして、本プロジェクトのきっかけをつくっていただいた本間さん、池田さん、そして本プロジェクトを文字に記してくれた篠原さんに心より感謝いたします。ありがとうございました。
このプロジェクトをお引き受けする際、ヤフーの本間さん、池田さんには、「このプロジェクトは、閉じないようにしましょう」とお話をさせていただきました。
通常、リーダーシップ研修は「閉じること」「秘密にすること」が主なのですが、「社会貢献(共通価値創造)× 人材開発」の混成体である、このプロジェクトは、決して、それを内部に閉じず、オープンにしていく。
そのことで、我々のめざす効果や地平も高まるはずだし、さらには、これをモデルとして、様々な企業が、様々な地域で、いろいろな取り組みを、さらに活性化してくれるかもしれない。そのことが、「地方 × 企業」の新たなかたちになるのかもしれないと、事務局の皆さんで夢想しておりました。
今回篠原さんの手によって、研修のプロセスが記述され、本研修がドキュメンタリー、ないしはルポとしてオープンになったことは非常に嬉しく思います。
リーダーシップ研修のドキュメンタリーは、ありそうでなかったのではないかと思います。ぜひご高覧いただけますと幸いです。
みなさまに心より感謝をこめて
そして人生は続く
ーーー
書名:ヤフーとその仲間たちのすごい研修
著者:篠原匡
リーダーをつくれ! 前代未聞の31人の冒険
ヤフー、インテリジェンス、日本郵便、アサヒビール、電通北海道、美瑛町役場――。
それぞれの組織の精鋭31人が、ある日、北海道・美瑛に集められた。
「この地域の抱える課題を解決するプロジェクトを提案せよ」。
突如下ったミッションに、精鋭たちは混成チームで挑む。
期限はわずか半年。
背景も年齢も共通言語も異なるメンバーが、6つのグループに分かれて智恵を絞る。
研修の最中には、空中分解しかけるチームもあれば、
高い結束力で課題に挑むチームもあった。
個性豊かなメンバーたちは、どのように1つのゴールに向かっていったのか。
【1章】企業に地域課題は解けるか? 前代未聞の異業種コラボレーション!
【2章】イシューを探せ! 登る山の高さをまず決めよう
【3章】リーダーは誰だ? 混成部隊のチームビルディングとは
【4章】本物の研修をつくれ! トレーニングよりラーニング
【5章】その提案はワクワクするか? 現場の生声がチームを変える
【6章】そして、決戦の舞台へ! ほんのりビターな大団円
(以上、AMAZONより一部抜粋)
投稿者 jun : 2015年7月 7日 06:30
「自分の頭で主体的に考えろ!」と他人に命令するときに必要な「覚悟」とは何か?
「他人の言うことを鵜呑みにせずに、主体的に考えなさい」
「他人から言われたことをそのままやるんじゃない。自分の頭で考えなさい」
こうしたものの言い方は、わたしたちが子ども時代からよく耳にしてきた言葉であり、かつ、大人になった今であれば、経験の浅い人々に頻繁に投げつけるセンテンスです。
しかし、こうしたものの言い方を私たちが選ぶとき、その命題の背後には「構造的な亀裂」が内包されていること。そして、命題を発するわたしたち自身すらも「腹のくくり方を試されること」を自覚しないわけにはいきません。
▼
勘の良い方ならすぐにおわかりのとおり、この文章は、前半部と後半部にわかれているうちの前半部において「他人のいうことを鵜呑みにするな / 言われたことは鵜呑みにするな」と他者の命令しています。
そして、もしここでいう「他人」に、この文章を発している本人が内包されるのだとすると(内包されない理由は考えにくいですが)、ややこしい話になります。
なぜなら「他人の言うことを鵜呑みにするな / 他人から言われたことをそのままやるな」というこの命題こそが、「鵜呑みにしてはいけないもの」「そのままやってはいけないもの」に含まれてしまうからです。
これが、この命令の「構造的な亀裂」です。「構造的亀裂」を前に、文章を聞いたものは、「いったいどっちやねん!」的などっちつかずの「宙ぶらりんな状態」に置かれます。
そして、彼 / 彼女は、この文章を発した本人の論理性の乏しさに、一瞬辟易とするでしょう。
あんたのいうことは、聞くべき、聞かぬべき??
▼
先ほどのセンテンスに辟易としつつも、さらに、その上で後半部では、「自分の頭で考えなさい / 主体的に考えなさい」と命令されることになります。
この命令文は、命令を発している本人は、「自分の頭で考えたこと」や「主体的に考えること」は許容する、という言表として解釈も可能ですが、もしそうであるならば、この文章を聞いた人が、いかなる選択肢をとったとしても、「自分の頭で考えたこと / 主体的に考えたこと」ならば、許容するということになります。
しかし、勘の良い方ならここで気づくことでしょう。
「自分の頭で考えること」や「主体的に考えること」というのは、いわば「方法」です。そこには、どういう方向性に物事を考えるべきか、という指針や方向性はありません。
ということは「自分の頭で考えること」「主体的に考えること」が「できさえ」すれば、命令を発している主体は、その成果である「他者の選択」をどのようなものであっても受け入れると表明していることになります。
かくして、命令を発する経験あふれる主体も「腹のくくり方を試されること」になります。
物事を鵜呑みにせずに「自分の頭で考えた」のに「主体的に考えた」のに、その成果が「自分好み」ではないからといって、静止してしまうようでは、この言葉を発することはできません。
「自分の頭で考える」「主体的に考える」というのは、それだけ「リスキーなこと」なのです。
しかし、世の中はこれとは逆の事態が進行しているケースがままあります。
「自分の頭で考えろ」と命令しておいて、物事を考え実行してみたら、逆ギレする。「主体的に考えろ」と命令しておいて、主体的に考えてみたら、「オマエはわかっていない」と言われる。
この場合、要するに「自分の頭で考えろ」ないしは「主体的に考えろ」というのは、
「自分の頭で考えて、(オレが思っていること)を推測して、そのように行動してみろ」
「(おまえが)主体的に考えた結果、(オレが思っている)とおりにならやってもよい」
という命題に、いつのまにかすり替わっているということです。
トホホ。
結局、あんたの言うとおりかい!
あほらしい。
▼
今日は「自分の頭で考えろ」「主体的に考えろ」ということの意味を、すこし屁理屈をこねながら考えてみました。
ところで、僕は、子ども時代から、この手の命令を他人から投げつけられるたびに、これらにどこか違和感を感じ、しかし、その違和感を心の中で笑い飛ばしてきました。
いったい何を求めてるんだか。
まともに真に受けてたら身がもたないから
今日も、心の中で笑っちゃおう(笑)。
ダハハ。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2015年7月 6日 05:30
「物事をよく知っている人」が会議をファシリテーションしたときに陥りがちな2つの罠
近い将来、大学の教壇にたつことを願っている東大の大学院学生に「教える技術を教える授業」というものがあります。「東京大学フューチャーファカルティプログラム」というプログラムで、2年前からはじまりました。
こちらの授業は同僚の栗田佳代子さん、吉田塁さんらが中心になってバリバリと回している授業ですが、僕も、一部だけ出講をしています。
東京大学フューチャーファカルティプログラム
http://www.todaifd.com/
「東京大学フューチャーファカルティプログラム」おかげさまで毎回満員御礼で、やむなく、セレクションをおこなっているようなかたちになっています。これまでに卒業した学生は200名近く。
学内の先生方はじめ、多くの方々の御協力とご関心で、何とかここまで来ました。心よりありがたく思っています。このプログラムを受講した学生が、近い将来、大学の教壇にたつことを心より願っております。
(リクルーティングのページもございますので、どうぞご覧下さい)
東京大学フューチャーファカルティプログラムを修了した学生の採用にご興味をお持ちの方へ:人材ご紹介のページ
http://www.todaifd.com/recruit/
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先だっては、授業で、大学院生の方々と議論をする会に参加いたしました。
この会では、大学院生に模擬授業をしてもらう一方で「会議のファシリテーション」についても「教えること」にしました。
ある課題についてグループみなで議論をするのですが、司会役の学生に、この会議を、
1.みんなが参加できて
2.生産性の高いもの
にするよう、ファシリテーションをお願いしました。
ファシリテーションのあいだは僕が観察していて、途中どうしても、フィードバックが必要なときは「議論をストップ」させて、ファシリテーションを改善していきました。
最初のうちは、なかなか難しかったのですが、だんだんと慣れてきて、会議が進行するようになったセッションもありました。
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ところで、大学院生≒専門家のファシリテーションを見ていて、つくづく思ったことがあります。
それは、
専門家のファシリテーションは「独演会」か「品評会」になってしまいがち
であるということです。
要するに、
本来ファシリテーションをしなければならないはずなのに、いつのまにか「専門家としての自分の意見」をしゃべくりまくって、それでがとまらず「独演会」になってしまう(笑)。
「それはですね、、、私見ですが、わたしは・・・だと思っていて、それはほにゃららの観点で、にょろにょろの論点ですよね」
ないしは、
一応、ファシリテーションをしてくれと言われているので誰かに意見は求めるものの、でてきた意見に対して、いったん「受けとめること」ができずに、ただちに「専門家としての自分の評価」をのべてしまう(泣・・・MehanのIRE連鎖の研究を思い出しますね・・・懐かしい)。
「うーん、そうね、僕は違うと思うんですよ」
ここまで戯画的ではないのですが、それに類する会話のやりとりが特徴的でした。もちろん、誤解をさけるために申し上げますが、いくらファシリテータでも、ファシリテーションしながら、自分の意見を述べることは問題はありません。
しかし、おわかりのように、同時に大切なことは
他人の意見を引き出すこと
引き出した意見を受けとめること
会話のキャッチボールをグループにつくること
です。
こうした現象は「専門家ならでは」だな、と思って、興味深く観察しておりました。
セッションでは、途中会議をとめて、こうしたことについてフィードバックを行いました。優秀な皆さんですので、少しずつ要諦をつかむことができたことはうれしいことでした。
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今日は「専門家のファシリテーション」について書きました。
僕がファシリテーションを少し学んだのは海外で、これまでには一般のみなさんにしか、こうしたセッションをやったことがなかったので、専門家のファシリテーションを拝見したことは、非常に興味深いことでした。
そういえば、この記事を書きながら、ふと、昔々、僕がまだ学生だった頃に、ある先生が、
「今日は議論をしましょう!」
とおっしゃりながら、90分、自説をとうとうと開陳しておられたことを思い出しました。まことに微笑ましい出来事です。
沈黙に耐えて、相手の一言を「引き出す勇気」
相手の一言を「うけとめる勇気」
一歩ふみだして、会話のキャッチボールを「つくりだす勇気」
ぜひ、3つの勇気をもって、近い将来の大学に羽ばたいてほしいものです。
そして人生は続く
東京大学フューチャーファカルティプログラムを修了した学生の採用にご興味をお持ちの方へ:人材ご紹介のページ
http://www.todaifd.com/recruit/
追伸.
ほそぼそとTAKUZOと合気道を続けて2年になります。いまだ「むらさきおび」の小生に語られたくないと思うのですが(笑)、勇気をだしていうと、合気道の精神はファシリテーションの精神に似たところがあるように思います。まずは「うけとめる」。そして「相手の力」をそのまま応用して「せめる」。身体を動かす時間をつくりたいというのもありますが、その機微が面白くて、今も続けています。
投稿者 jun : 2015年7月 3日 06:16
「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?
ここ数年ほど、様々なビジネスパーソンの皆さんと研修などでお会いして、つくづく感じていることがございます。
お逢いする方々は、皆さん優秀で熱意をお持ちの方々が多く、僕などが壇上で偉そうに言えることはそう多くはありません。
が、実際の問題解決の場面で、彼らに対して、様々なことを講義したり、ワークショップをさせていただいているあいだに、皆さまから、ご相談を受けたり、お話をうかがったり、はたまた当方が勝手に感じてしまうことがございます。
本日、話題にさせていただきたいのは、
「ビジネスパーソンが苦手意識をもたれたり、つまづきをお感じになる思考のパターン」
についてです。
これはビジネスパーソンだけにあてはまることなのか、それともそうでないのか。またどの程度一般性があることなのかはわかりませんが、今日は、「ビジネスパーソンに必要になる思考力」について書いてみましょう。
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ひるがえって、熱意ある皆さんから、これまで受けてきたご相談事項を整理してみますと、だいたい3つの内容が多いように思います。
思うに、ビジネスパーソンの方々が苦手意識をもたれる思考力とは、3つあるように思うのです。
その3つとは、
1.そもそもを問う力
2.データを収集し分析する力
3.企画のへそをつくる力
の3つです。
長いので「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」と名づけましょう。
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第一の「そもそも力」とは、問題解決の場面などで、いったん自分たちの立っている枠組みをとっぱらって、常識を疑いつつ、「そもそも」の域から物事を考えるちからです。別名「ちゃぶ台かえし力」ともいいます(笑)。
こうした思考に関しては、
「ふだん、そこまで深堀っていない」
とおっしゃる方が多いように思います。「ふかぼる」という実務用語が、僕は大変好きです。英語でいえば「drill down」になるのかな(笑)。
そもそもを問うのは、なかなか孤独には難しいものです。
このような場合、問題解決のフェイズにもよりますが、僕も一緒に解決策を一緒に考えることもあります。
でも、物事の存立の基盤を「そもそも」から問うって、「そもそも」勇気がいることのように思います。ちゃぶ台をかえす勇気っていうのかな。気づいていたら、自分がのっている「ちゃぶ台」を、自らひっくりかえす、ということにもなりかねないので(笑)。
第二の「データ料理力」とは、量的データ、質的データをとわず、自分の足と手でデータを収集してきて、料理する力です。
自戒をこめて申しますが、ふだんのプレゼンでは、時間も無いので「何となくホワンとぐぐって」、他人の統計情報を引用してしまうこともありえます。このことは、先日も、ある方が自嘲気味におっしゃていたました。
しかし、ここで求められているのは「何となくホワンとぐぐる」のではなく、「自分の足と手でデータを料理すること」です。
自分の足と手でデータをひろって、それを料理して、抽象的な議論につなげていくことに戸惑いを感じられる方が少なくありません。
最後は「ワンワード力」です。問題を同定し、データを収集し、企画や施策はつくりこんだ。この一連の施策の「へそ(Keyになること)」を「ワンワード力」で表現し、聴衆に伝えなくてはなりません。ここに苦手意識をお感じの方が少なくありません。
要するに、やりたいことは、ワンワードでいえば何でしょうか?
企画をきりきりに煮詰めるのだとしたら、最後に残る、ワンセンテンスは何でしょうか?
ビジネスパーソンの方々と研修でご一緒していて、いつも思うのは、こうした3つの思考について発揮する場が限られているか、ないしは、それを苦手だと思われている方がすくなくないことです。講義などでは、こうしたことについてお話をすることがあります。
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ところで、勘のよい方ならお気づきのように、これら3つの、「僕によって捏造された能力らしきもの」ー「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」は、実は、ひとつのことをに収斂されます。
それは
「出来事レイヤーに生きること」から這い上がり「抽象化レイヤーの高みにたつということ」
です。
ワンセンテンスでいえば「地に足のついた抽象化思考」。「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」によって可能になるのは、「地に足のついた抽象化思考」です。
私たちの生活世界には、様々な問題がある。その問題や課題を「そもそも力」によって同定し、「データ料理力」によって「抽象化」し、よりメタ(上位)な、一般的なコンセプトをつくりだす。要するに、こういう思考法が、重要であるように思います。
しかも、近年、その「高みにたつ」重要性は、さらに増しているように思います。
思うに、僕の用語でいえば、僕たちは、今後
スーパーメタ社会を生きるようになる
と思うのです。
わたしたちの生きる高度な情報化社会では、様々な出来事や現象の中から、抽象化したコンセプトや原理や知識をみちびきだし、それによって事業をつくり、他者を動かす局面が増えています。出来事レイヤーではなく、さらに「上位(メタ)」へ!
さらに最近では、「知識や概念を創造すること」ではなく、「知識や概念を創造すること人」をさらにまとめる、より上位のプラットフォームやコンセプトが競争優位をもつようになってきているように思うのは僕だけでしょうか。そういうダイナミックな、スーパーメタ化したものをいかに生み出せるかが、より重要になってきているように思うのです。
自らが「知識や概念を創造する」だけではなく、「自ら知識や概念を創造する人をまとめる場や機会を創造する」ということです。少し抽象的な話ですが、それが僕のいう「スーパーメタ化」です。
スーパーメタ化した領域では、これまで以上に「地に足はつけながらも、常に思考をより上位にたもつこと」が求められます。
「現場でさまざまな経験をすること」も、もちろん大切なのですが、「出来事レイヤーで、いつもドロドロになっていること」だけでは競争優位をのぞめないのではないでしょうか
こういうわけで、今後の社会では「抽象化して物を考えられること」が極めて重要になると僕が認識しているのは、そういうことです。
そして、くどいようですが、そうした能力は、なかなか社会で忙しい日常を過ごし始めたあとには、修養することは難しいということも、また言えることなのではないかと思うのです。
「シャバでは、ふだん、そこまで深堀らない」
のです。
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ところで、話をすこし変えますが、最近、「大学の知の再編の話」をよく聴きます。いわゆる「人文社会科学はいらないんじゃないか問題」?でしょうか(笑)。せんだっても、数週間ほど前になりますが、ある方から、こんな問いかけを得ました。
「例の、人文社会科学の議論、中原さんはどう思う?」
そのときは、残念ながら、この問題を詳細に検討し論じるには時間はありませんでしたが、まことに興味深い課題です。
今日は、この問題を前段の話「ビジネスパーソンに必要になる3つの思考力」とひきつけて、感情的にならず、地に足をつけて考えてみましょう。
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まず、いわゆる「人文社会科学の議論」はやや議論が混戦しているようにも思いますので、もうすこしだけ、話を整理します。
まっさきに整理したいなと思うのは
人文社会科学が必要なのか?
人文社会科学系の組織が必要なのか?今のままでいいのか?
という話です。
「人文社会科学という学問がいるのか?いらないのか?」という問題と、「そうした学問を教授する組織がいまのままでいいのか、そうでないのか?」の問題は、同じようでいて微妙に異なります。まずはこれらを切り分けたいと思います。
ワンセンテンスで申し上げますと、ここでは前者に話を絞ります。
と申し上げますのは、僕は「後者の問い」には興味がありませんし、何よりも、また個別の教育機関の問題や実状を、僕が知り得る立場にはありません。ですので、後者の問題の「判断」は僕にはできません。
一方、問いが前者の問題だとすると、僕が口をさしはさむ余地もありえるのかな、と思います。いちおう、自分の学問も「人文社会科学系?」なんでしょうから(笑)。
しかし、つぎにうかがいたいのは、
人文社会科学の学問って、いったい「何」のこと?
という問いです。
一応なんちゃっってかもしれませんが、アカデミズムの末席を汚している人間のひとりとしては、正直に「人文社会科学」と大風呂敷でくくられても、
いったい、「何」がいる、いらないなの
と思ってしまいます。
現代の科学は非常に専門化・細分化していて、人文社会科学と一口にくくられるほど、一体感はありません。少なくとも僕に関しては。
というわけで、正直に申し上げますと、「人文社会科学系の組織が必要なのか?今のままでいいのか?」という問いはもちろんのこと、「人文社会科学が必要なのか?必要でないのか?」という問いに関しても、こういう「おおざっぱな議論」に関して、何を申し上げて良いのか、わからないというのが「どストレートな反応」です。
「論になっていない論」に、「論をかえすこと」はできません。
しかし、それで終わってしまってはブログ記事になりませんので(笑)、前段の話とつなげて、僕の知り得ること、経験してきたことから、地に足をつけて考えますと、こうもいえます。
学問はビジネスだけのために存在するわけではないですが、僕が「地に足をつけて意見を述べることができる」のは、そのことなので、そこだけに焦点をしぼりお話をします。
僕はこう思います。
もし、人文社会科学と形容される学問が、「社会で起こりうることのルール・原理を抽象化して探究すること」にかかわっている「学問」なのだとしたら、スーパーメタ社会を生きるであろうビジネスパーソンに必要な「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」は、そこでの学問的修養をもって学ばれるのが適当である、ということです。
僕は教員のはしくれとして、そうした能力を自分の研究室の指導学生にはぜひ獲得してもらいたいです。そもそもを問うこと、データと格闘する経験、コンセプトをまとめることには、妥協させたくありません。どんなに嫌われようとも、徹底的にフィードバックします。「嫌われることが嫌い」で、教員なんてやってられません。
またビジネスパーソンとかかわる機会を人並み以上にもっている人間のひとりとして、「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」を発揮する経験を、なるべく「前倒し」てもったいて欲しいと願います。ぜひシャバにでる前に、こうした能力を発揮する経験を徹底的にもっていて欲しい。
「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」・・・知の創造のトレーニングを教育機関でなしとげることができたとしたら、これ以上、素晴らしいことはありません。
こうしたものは就職のときには「すぐには必要はない」かもしれませんが、やがて「ジワジワ」と「必要」になるのです。
戦略やビジョンをえがき、人を動かす。
「リーダーシップの要諦」が、このワンセンテンスで形容できるのだとしたら、そもそも人を巻き込み、動かすことのできる源泉ーすなわち戦略やビジョンは、「抽象化の思考」から生まれます。
こうした「抽象化の思考」はいわば「筋トレ」のようなものです。短い時間に「パンツをはきかえる」がごとく「身につけること」は極めて難しい。毎日毎日、フィードバックをうけ、メタにあがるトレーニングや経験を積むことができて、はじめて抽象的な思考が「癖」になります。
そして、社会にでたあとは、とにかく忙しく、こうした能力をあとから獲得することには相応のコストがかかるのです。
しかし、そうした「抽象化につながる知のトレーニング」をいっさい捨て去り、「目先の職業」に、すぐに、わかりやすくつながるものばかりを教育機関で扱うことが、改革の流れなのだとしたら、僕は疑問を感じます。それは大学の一教員としても、ビジネス教育の末席を汚している人間のひとりとしても「間違っている」と思います。
彼らが年齢をかさね、それぞれの職場でリーダーシップを発揮することを求められる頃には、「つまづき」をお感じになることが少なくなくなってくると思います、、、たぶんね。
以上、これがビジネスパーソンの皆さんとさまざまな課題解決を行ってきた僕の感想です。くどいようですが、どの程度一般性のあることかはわかりません。
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今日は前段で「ビジネスパーソンに必要な3つの思考力」、後半に「人文社会科学」の話をしました。すこし混戦する議論になったような気がしますが、とくに後者の問題に関して、僕の経験と立ち位置から述べるのだとすれば、こういうことになるのかな、と思います。
そして人生は続く[
投稿者 jun : 2015年7月 2日 06:20
漫画をかくとは「キャラクターを描くこと」ではなく「世界観をつくること」である!? : 「荒木飛呂彦の漫画術」(集英社新書)書評:ジョジョはこうしてつくられた?
現役の漫画家の荒木飛呂彦さんがお書きになった「荒木飛呂彦の漫画術」という本を読みました。僕は、特に「漫画フリーク」というわけでもないのですが、新幹線の売店に入ったときに、山積みされており、興味深かったので、手に取りました。
荒木さんといえば、「ジョジョの奇妙な冒険」をはじめとして、独特のキャラクター、世界観をもった作風でよく知られている方かと思います。そんな方の「知的生産術」ってどんなんだべか、と知的好奇心をもちました。以下は、漫画はドシロウトの人間が書いていると思い、お読みください。
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読後の感想をワンセンテンスで申し上げますと、、、
漫画をかくとは「世界観をつくること」なんだ
ということです。
敢えて極端に描き出すならば、
漫画をかくとは絵が好きな人が「キャラクター」をかくこと
ではない。むしろ、漫画を描くとは「緻密な設計」のもとで「世界観をつくりあげること」なんだ、という思いがしました。
専門家の方からみれば「腰が砕けて、思わず、脱糞しそうなワンセンテンス」かもしれませんが、どうかお許しを。
といいますのも、少年週間ジャンプを読んでいた30年前くらいの自分には、まったくその視点はありませんでした。まさか自分の読んでいたものが、そこまで考え抜かれて、世界観が創られていたとは、正直に驚いてしまいました。
で、、でも、そうだよね、よくよく考えてみれば。数百万人に読まれ、かつ数年にもわたる長編の物語に「緻密な設計」が「ない」わけがないですよね。
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荒木さんは本書で、ご自身が、これまでにもつちかわれた「緻密な世界観の設計術」を惜しげも無く公開されております。著者本人が、これは「企業秘密を公開すること」だとおっしゃっているのは、まさにそのとおりだと思います。
漫画には「キャラクター」「ストーリー」「世界観」「テーマ」という基本4大構造がある。これらをいかに構築するかがポイントである
時間軸の進展とともに、ストーリーをいかに盛り上げ、あるいは逆に緩急をつけ、読者を明為ずに読ませていくのかがポイントである
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・
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などなど。
その様相は、キャラクターをつくるときには、絵をつくるまえに「身上調査書」をつくり、その世界観のもとにキャラを描き始める、という徹底っぷりです。
個人的には興味深かったのは、「最初の1ページをいかに読ませるか?」について、けっこうなページ数が割かれていたことです。
デビューしたい漫画家のタマゴから日々原稿がおくられてくる編集者に、「おっ!この作品は面白そうだぞ」と思ってもらい、最初の1ページをめくってもらうためには、「徹底的な設計」に基づいて「最初の1ページ」めを構成することが必要になります。
「ただ漫然」と「最初の1ページ」をつくるわけにはいかない、ということなのでしょう。まことに興味深いことです。
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本書は、漫画術についての本ですが、プチ妄想を広げると、漫画以外の領域、仕事や研究にも活かせるところはあるように感じています。そりゃ、表面上はまったく違う世界ですよ。でも、どちらも知的生産なのだから、深層ではつながっていると僕は思います。
漫画ってこうやってつくられているんだ
と素朴におもいつつ
おれの領域なら、このことはどう表現できるんだろうか?
と転移させることを念頭にしつつ読むと、また味わい深い1冊なのかなと思いました。
そして人生は続く
追伸.
「自分の企業秘密を公開することは、自分にとっても不利益である」と著者はおっしゃっていますが、なぜ、敢えて、「著書をしたためて」までそれを行うのかを勝手に妄想するとき、そこには、漫画界全体を盛り上げたいという思い、若い世代を育てたいという世代継承性に似た熱意が感じられます。
しかし、一方で、本当に若い世代が「のしてきて」、自分に不利益をもたらすまでに成長することも、本当に考えられますので、そういうリスクをおかしてまで「企業秘密」を公開する著者の奥底には「やれるものならやってみろ、若い者にはまだまだ負けん」という思いがあるのかな、と想像しました。
また、最後に、これからの漫画家は、この「漫画術」どおりのことをするな。むしろ、これとは正反対のこと、これとは違ったことを試してほしい、とおっしゃっているのも、味わい深い部分です。
「漫画術」という「ヒューリスティクスの塊」を公開し、それを読んで漫画をかけといいつつ、それを若い世代に「上書き」されることを望む。わかる気がするなぁ。そこらあたりに、著者に勝手にシンパシーを感じてしまいました。僕はまだ何も成し遂げていませんが、自分も何かを成し遂げることができたとしたら、自分の仕事術を残したい思いがふつふつとこみあげてくるような気がします(昔は1ミリも思わなかったので、年齢のせいでしょうか・・・)。
若い世代になすべきことは、おそらく「荒木飛呂彦の漫画術」を追随してなぞることではなく、参考にしつつも、それを「上書きしていくこと」なのだと思います。願わくば「ちょめちょめの漫画術」をまとめ得るように、自分の漫画術を作り続けていくことなのではないかと思いました。勝手な妄想ですが・・・。
投稿者 jun : 2015年7月 1日 06:21