グローバル化とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟である!?

 先だって、僕が慶應MCCでやらせていただいている実務家・ビジネスパーソン向け授業「ラーニングイノベーション論」に、一橋大学の守島基博先生におこしいただきました。
 守島先生には、もう7年間にわたって、素晴らしい授業をご出講いただいており、心の底から感謝しております。受講生の皆さんはもちろんのこと、僕自身も、様々なことを考えさせられるよい学びの機会になりました。本当にありがとうございます。

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 先日の守島先生のお話は「企業の戦略と人事」にかかわるもので、どの話題も興味深いものでしたが、個人的に非常に興味深かった内容に、

「今後の日本企業の職場では、職場構成員のダイバーシティがさらに高まっていく」

 という内容がございました。

 言うまでもなく、この場合のダイバーシティには、さまざまなダイバーシティがありえます。
 ダイバーシティとはワンワードで申し上げますと「メンバー間の差異の程度」ですので、外国人、性差、雇用形態などの「外見や属性から識別可能な違い」もありえますし、考え方・キャリア観・仕事の位置づけの違いといった、なかなか目にみえない「差異」もありえます。
 前者を比較的わかりやすい「鉄板系ダイバーシティ」とするなら(?)、後者はさしずめ「潜在系・そもそも人は多様だったねダイバーシティ?」とも呼べるでしょう(笑)。

 前者はもちろんのこと、後者のような「個々人の奥底に潜む違い」をも「ダイバーシティ」ととらえるのならば、わたしたちの今後の社会は、それぞれが、そこはかとなく拡大していくことが予想されます。それらの差異に対処したり、差異を前向きに企業経営・組織運営に活かしていくことが、現場のマネジャー、日々のマネジメントに求められるようになる、ということになるのだと思います。

 すなわち「今あるマネジメント」の「外側」に「ダイバーシティマネジメント」というものが存在するのではなく、「マネジメント」そのものが「ダイバーシティマネジメント(多様性をやりくりすること)」であるという状態が生まれます。
 かくして「ダイバーシティマネジメント」という言葉は、マネジメントそのものに「収斂」していくのでしょう。
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 さて、言うのは簡単、実行は大変困難です。・・・だって、今でさえ、「ひーひー」言ってるのに、さらにメンバーの向いてる方向が「あっちゃこっちゃ向いてる」のですから・・・。
 
 「今後の職場の変化」に関しては、かつてより、僕自身も、同様の方向性・方向感を感じており、守島先生のお話は「まさに我が意を得たり」という思いがしました。痺れます。

 おそらく、私たちの組織は、今後、さらに「ダイバーシティ」が高まっていくことが予想されます。
 その中では「背中を見て育つ」とか「阿吽の呼吸」とか「察し」といった、わたしたちの文化やメンタリティに深く埋め込まれているものは、機能不全に陥る可能性が高くなります。

 すなわち、「わたしたち自身が同じであるという共同幻想」を前提に「省略」することができたコミュニケーションスタイルが、必ずしも「作動」しなくなるか、あるいは「足かせ」となってしまう事態が進行する、ということが進行するということです。このことは下記のエントリーでこれまでにも、書かせて頂いておりました。

「背中」と「現場」と「ガンバリズム」に甘える国ニッポン!?:人材開発の未来を考える
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/01/post_2340.html

「言挙げせぬ国」の「グローバル化対応」とは何か? : 「阿吽」「察し」「背中」を考える!?
http://www.nakahara-lab.net/2014/03/post_2185.html

 これからの私たちの社会は、

 いつまでやっても、あうんの呼吸に「ならない」
 背中はおのずから「語らない」
 根性やガンバリズムには「逃げられない」
 
 ことが徐々に常態化していくことが予想されます。

 すなわち、グローバル化とは「英語を学ばなきゃなんない」とか、やれ「外国人とつきあわなきゃなんない」、そういう表面的な話ではありません。

 ワンセンテンスで申し上げますと、

 グローバル化対応とは「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟です。
 それは、外国人であろうと、なかろうと。
 たとえ、日本人同士であったとしても。

 言葉を換えるならば

 「おまえ、空気を読めよな」に逃げることができない社会に生きる覚悟です。
 くどいようですが、同じ日本人同士であったとしても。

 その覚悟を嫌がおうでも、持たざるをえない社会が、すぐそこ、今ここにまで迫っています。

 そのような中でもっとも大切で、しかしもっとも面倒なのはきちんと言葉をつくして、多様な人々のあいだに、ひとつひとつ納得解をつくりだしていくことが求められるようになるでしょう。
 これからの現場のマネジャーは、そうした努力を今よりも必要とするようになるのではないかと思います。このことを以前、こんなエントリーで書いたことがありました。遠い遠い記憶の彼方になっていますね。。。おんなじ事を書いているんだから、成長ないのかな(笑)


「雲の上マネジメント」から「言霊マネジメント」へ:マネジャーと言葉

http://www.nakahara-lab.net/2013/06/post_2035.html

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 さて、今日の話題は、ダイバーシティでした。
 これにゆるく関して、劇作家の平田オリザさんの著書「対話のレッスン」に非常に興味深いことをお書きになっています。少し長くなりますが、引用させていただくと、このような感じです。

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 二十一世紀のコミュニケーションは「伝わらない」ということから始まる。(中略)

 私とあなたは違うということ。
 私とあなたは違う言葉を話しているということ。
 私は、あなたが分からないということ。
 私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。

 そして、それでも私たちは、理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、ひとつの社会のなかで生きていかなければならないということ。

 そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。
 (中略)
 まず話し始めよう。そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二十一世紀の対話が開けていく。

(平田オリザ「対話のレッスン」p241-222より引用)

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 平田さんは、現代の社会の様相を「差異」と「対話」に求めます。

 そして、僕がもっとも共感するのは、その道は容易な道ではないことを認めながらも、一方で、それは

「決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ」

 を信じると述べられているということです。
 
 つまり、これから起こる変化に「絶望」するのではなく、そこに「希望」を信じて、前に進むことをよしとする。
 そうした態度が素敵だなと思いました。

「世界を変えうるものは、"最後に希望のあるもの"だけである」

 というのは、僕の指導教官の口癖でしたが、僕もそのことを強く思います。

 さて、あなたには「察することに甘えることができない社会」を生きる覚悟はありますか?
 そろそろ、腹はくくりましたか?

 そして人生は続く