「腰痛とは腰が痛い」的な「問題解決」していませんか?:問題解決に密かに潜むトートロジー!?

 今年も研究室の活動が本格化してきました。

 研究所属の学生個々人の研究もさることながら、いくつかの共同研究プロジェクトも成果をだすべく、それぞれが邁進しているところです。
 すべてが順調?に進むことは・・・「ない!」と言い切ることができますが(泣・・・研究とはまことにうまくいかないものです)、最大限の成果をだすべく大学院生ともども爆走します。

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 ところで研究をはじめるときには「研究を立案する=問いをたてること」に取り組まなくてはなりません。そして、この「問いをたてる」というのは大変難しいものです。
 特に、経験が浅い場合には、この問いをたてる、というのがどうにもピンとこなく、それに対するアドバイスもどこか「衒学的」にさえ見えてきて、苛立ちを感じます。

 「問いのフォーカスを絞れ」

 とか言われても、「何を、どの程度、しぼんのよ?」と指導教員にぐるぐるパンチをかましたくなるはずです(笑)。

 かくして、ともすれば、あさっての問いをたててみたり、たぶん1万6000年たっても解決できないような「フィージビリティゼロですけんのー」的な問いをたててしまいます。

 よく言われることですが、

「問題解決」で最も難しいのは「問題設定」です。

 問いが「あさって」ならば、問題解決で出てくる答えも「あさって」です。レールが「あさって」なのですから、そこを走る電車も「あさって」の方角にしか向かいません。悲しいかな、「筋の悪い問いをたてる」とは「あさっての方向にレールをひいて爆走するようなもの」です。
 ですので、「問いをたてる」というものは指導教員ならば、もっとも力をいれることのひとつではないかな、と思います。

 個人的な認識を開陳すれば、

 問題設定8割、解決2割

 と言い切ってもよいくらいです。そのくらい「問い」をたてる、というのは大切なことです。

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 ところで、大学院生指導をそれなりにやってきて、問いをたてるときによく陥りがちな罠というのがいくつかあるような気がします。そのひとつが「トートロジー(同語反復:tautology)」です。

 トートロジーとは、

 無関心とは、関心がないこと
 腰痛で、腰が痛い

 とか、そういうのですね。
 要するに同じ事を繰り返してしまって、負荷される情報量がゼロであるものをトートロジーといいます。
 そして、このトートロジーを生み出しかねないような問いの設定が、特に経験が浅い場合には起こってしまいがちです。

 要するに

「ちょめちょめの分析視座」にたって「ほげほげ」を分析したら「ほげほげの各要素」も「ちょめちょめ」でしょうね、、、やっぱり。

 という感じです。
 
「ちょめちょめ」で見たんだから、「ほげほげ」をみたって「ふがふが」を見たって、「にょろにょろ」を分析したって、「ちょめちょめな結果」がでてくる可能性が高いのは、アタリマエですね。
 喩えていうならば「赤いセロファンを張った眼鏡」で世界をみたら、「やっぱり、すべてが赤色に見えそうですよ」ってことです。
 
 ここで必要なのは「ちょめちょめ」や「赤いセロファン」で物事をみたら、「今までは見ることができなかった、なんらかの発見事実がありそうだ」という「淡い期待」です。
 この「発見」への「淡い期待」があって、それらを0と1の判別をつけるべく「仮説」にまで昇華できた場合に、それがはじめて「問い」になります。研究には「発見事実」がなくてはなりません。その「発見事実」を生み出すのが「研究」です。

 改めて・・・問いをたてるのって難しいですね。

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 今日は、問いをたてることの難しさについて書きました。
 何もこれは経験の浅い研究者に言えることではなく、熟練の研究者が取り組む研究領域でも、起こりえます。自戒をこめて申し上げますが、そういうものです。ときには、研究者の一団が、そればかり繰り返している研究領域もあるから、まことに微笑ましいものです。
 そういう領域では、何十年たっても、知見は前進しません。
 なぜなら「誰かのつくったテーゼ(主張)」を手をかえ品をかえ、言葉をかえて繰り返すだけで、それ以上の「発見事実」を生み出すべく、問いが設定されていないからです。
 ここで、試みられているのは「発見」ではなく「検証」です。どこかの誰か、第三者(多くは外国の研究)の知見が際限なく「こだま」のように繰り返されていきます。

 問題解決は、課題設定が8割、解決が2割です。自戒をこめて申し上げますが、アイオープナーな問いの設定ができるようになりたいものです。

 そして人生は続く