新年度に想う:儀式とは「境界を創るメディア」である!?

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 新年度です。

 本郷キャンパスには、黒いスーツに身を包んだフレッシュマンらしき人々が行き交っています。
 これから専門学部で学ぶ人、大学につとめる人、様々な目的をもった方々が、キャンパスを歩いておられます。それぞれの門出、まことにめでたいことですね。

 僕の部門でも、今日は、これから同じ研究部門で働く同僚をお迎えし、辞令交付式を行います。これと同様のことは、数万人が暮らす、この大学のここあそこで行われていることでしょう。
 おそらくは、キャンパスの至る所で、様々な「儀式」が行われているものと思います。

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 儀式とは「境界をつくるメディア」です。

「昨日」と「今日」には本質的には、さして「差はない」のかもしれませんが、そこに明確な「境界」をもうけ、流れゆく時間を「分節化」します。
「ここまで」は「あちらの人」であった人が、「ここから」は「こちらの人」になります。先ほどまでは「あちら村の住人」であった人が、ここからは「そちら村の住人」になります。

 言い方は難しいですが、興味深いのは、「儀式そのものにおいて執り行われる行為自体」には、さして意味がないということです。

 たとえば、辞令交付に際してやりとりされるのは「紙切れ1枚」。もちろん、「紙切れ1枚」と申しましても、意味があるといえばあるのですが、でも、それ自体を交換する行為自体は、わずか5秒で終了します。あっという間です。

 儀式は、さして「意味のない象徴的行為」を通して、「境界」をつくります。
 そして、そこに「意味を見出していく」のは、境界によってわかたれた人々の「その後の行為である」ということになります。
 そういう意味で、「儀式」とは、その後の行為に開かれたメディアです。それは意味づけられることを、待っています。
 フレッシュな人々の奮闘を期待したいものです。

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 新年度、まことにめでたいものです。
 今日、車窓からは満開の桜が見えました。
 そして人生は続く