調査とは「他人の貴重な時間を奪うこと」である!? : 「表象の暴力」といかに向き合うのか?

 今日の夕方には、法政大学・キャリアデザイン学部の皆さんに講演をさせていただく予定があります。1年近く前からご依頼いただいていた事項で、「この10年、自分が取り組んできた研究」について、1時間半程度でお話させていただく予定です。ご担当いただいた梅崎修先生には心より感謝をいたします。貴重なお時間をありがとうございました。
 昨日は、その資料づくりのために、午後の時間を過ごしていました。

「ちっぽけな10年!」と言われればおっしゃるとおり、まさにそれまでですが、我が10年を振り返り、つくづく思ったことがあります。
 それは、自分の研究は、その折りごとに、「現場で仕事をしている多くの方々」に「回答」を求めてきた、という「重い事実」です。

 おそらく、これまで自分が為してきたすべての研究の回答者、調査関係者を足し合わせれば、1万人を超える方々が、僕の研究に時間を下さったのではないかと思います。1万人が、たとえば、等しく15分ずつ時間をくださったと仮定してみてください。足し合わせれば、15000分。すなわち2500時間。研究という営為に、どれだけの人々の貴重な時間が費やされているか、そのことの重みを感じないわけにはいきません。
「心より感謝いたします」・・・そんな言葉では言い足りないほどの謝意を感じます。本当にありがとうございました。
 
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 これは自戒をこめて申し上げますが、ワンワードでいえば、現場をもつ学問にとって

「調べること」とは「他人の貴重な時間を奪うこと」

 です。
 僕は、そのことを、目をそらさず、受け止めようと思います。このことを、どんなに、正当化しようとも、よしんば「アクションリサーチ」だの「コラボレーション」だの、最近の美辞麗句を重ねようとも、この事実だけは覆い隠すことはできません。

「調べること」とは「現場の時間を奪うこと」

 という側面を、どうしても否定できないのです。

 もちろん、その研究知見が、幸運なことに、よしんば現場に人々に返ったとしたならば、結果として「報われる日」も来るかもしれません。
 アクションリサーチという形式をとれば、現場にとって改善の機会も提供されるでしょうから、「収奪の程度」は少なくなることが予想されます。
 しかし、おそらく、それを「ゼロ」にすることはできません。外部から、ある環境を調べるということは、特に、それが人間の営為の場合には、「収奪」になりうるということです。

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 この手の問いに対して、比較的自覚的であったのは、こと僕の研究領域に関して述べるのであれば、社会科学の領域の、いわゆる質的研究と言われる分野の研究群であったように思います。
 
 いわゆるクリフォード・マーカスの一連の論考を持ち出すまでもなく、それら一連の論考は、調査者の知見が、被調査者に返報されないことを問題視し、調査を行うということが、いかなる営為なのか、を論じました。

 調べることは、被調査者の預かり知らないところで、研究者のみによって流通する「表象」を創り出します。
 そして、その「表象」は、研究者の議論や栄達には寄与するものの、被調査者には返ることはあまりありません。自覚のない、批判力のない学問分野−科学たらんとすることに奢る分野ーであれば、この程度は甚だしいものです。これらの現象は、一般に「表象の暴力」と形容されます。

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 僕の考える人材開発研究は、何とかして、この「表象の暴力」をゼロにはできぬものの、減じていきたいと願います。
「自分たちは現場の時間を奪っている」という事実をまずは受け止め、「原罪」として引き受けたうえで、それらによって生み出される知見を、何とか流通させたいと願います。そのためならば、何でもする、という「恥知らずさ」が、僕の動機かもしれません。

 今日の講演では、このようなことをモティーフにしながら、自分の研究を振り返ってみたいと思います。ちょっとマニアックかもしれませんが、お楽しみいただけたとしたら幸いです。

 そして人生は続く